「豊かな社会」を作る方法

出遅れた国々:インドの場合

 京都大学の文化人類学者・梅棹忠夫は、1955年5月~11月にインド・パキスタン・アフガニスタンの調査旅行を行いました。このときに目撃した凄まじい貧困の様子を、彼は『文明の生態史観』のなかで次のように報告しています。

「インドを旅行していると、まったくたまげるような職業にぶつかる。ここでは、洗濯ものをほすのに、ものほしざおにかけたりはしない。女が身にまとうサリーは、ながい一枚の布である。ふたりの男が、その両端を手にもって、日のあたるところにたつのである。そのまま、かわくまでたっている。
 わたしはまた、道ばたにはいつくばって、手で地面をたたいている男をなんどもみた。それは、道路の修理工である。道具ももたずに、れんがのひとつひとつを、素手で地面にうめこんでいるのである。おそるべき人海戦術だ」

梅棹忠夫『文明の生態史観』〔中公文庫、1974年〕P.21

 当時のインドでは、物干し竿を購入するよりも、男2人を雇うほうが安上がりだったのです。木製やゴム製のハンマーを購入するよりも、(時間がかかっても)素手で叩くほうが安上がりだったのです。18世紀後半の時点で、インドではジェニー紡績機を購入しても利益を出せないほど人件費の安い地域でした。梅棹が訪れた20世紀半ばになっても、そういう状況を脱していなかったのです。
 それどころか、18世紀よりも悪化していた可能性すらあります。
 1763年のパリ条約でインド利権をめぐる英仏の抗争に決着がつくと、イギリス東インド会社(EIC)はインドへの介入・支配を強めていきました。18世紀末のマイソール戦争、世紀を跨いで戦われたマラーター戦争、さらに19世紀半ばのシク王国との戦争などに勝利し、EICは植民地支配を確立しました。
 一方、イギリス本国では産業革命が進行中であり、力をつけた商工業者の圧力によって、1813年にはEICはインドとの貿易独占権を失いました。さらに1833年には商業活動そのものが停止され、EICはインドの統治者へと姿を変えました。しかし、1857年に始まったインド大反乱(※セポイの乱とも呼ばれる。)を受けて、1858年にEICは解散。イギリス政府はインドの直接支配に乗り出します。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に即位し、インド帝国が成立。インドは完全にイギリスの植民地になりました。

 EICおよびイギリスによる植民地支配の原理原則(プリンシプル)は、「できるかぎり富を収奪すること」でした。インドにおける主たる収入源は地税でした。彼らはインドの旧来のコミュニティを解体し、人々の相互扶助を破壊し、効率よく税収を上げる体制を構築しました。要するに「創意工夫によって生産物の品質や生産量を向上させよう」というインセンティブが生じないような状況を作り上げてしまったのです。
 早くも1810年代の後半には、英印の輸出入は逆転しました。以前の記事で書いた通り、機械織りの綿布によってインドの布製品は競争力を失い、インドは綿花や藍、アヘンなどの一次産品を輸出し、イギリスから工業製品を輸入する立場になったのです。

 1930年3月12日、〝マハトマ〟ガンディー と78名の賛同者がグジャラート州アフマダバードから、400キロメートル近く離れた同州南部ダンディの海岸を目指して、徒歩での行進を始めました[83]。
 彼らの目的は「塩を拾うこと」でした。
 インドの海岸では古くから上質な塩が取れ、人々の生活の糧になっていました。どこまでも広がる干潟に、真っ白な塩の結晶が自然に析出(せきしゅつ)していたのです。しかしEICはイギリス製の塩をインドで販売するため、19世紀初頭からインド国内での製塩を厳しく規制しました。19世紀末には、インド人が塩を拾っただけで厳罰に処される状況になっていました[84]。
 4月5日、ガンディーがダンディの浜に到着したときには、行進は数千人の規模に膨れ上がっていました。参加者には、エリートの知識人も、貧困のどん底であえぐ人も、女性も、様々な社会的階層の人びとが含まれていました。ガンディーは集まった人々の前で一晩祈りを捧げた後、ついにイギリスの法を破って、塩を拾いました[85]。
 塩の規制は、イギリスによる圧政と収奪の象徴でした。だからこそ、ガンディーは独立運動の旗印に塩を選んだのです。彼は塩の製造と販売の自由――つまり、経済的な自由を掲げることで、イギリスの支配を切り崩そうとしたのです。

 二度の世界大戦を経て、イギリスも以前の覇権を維持できなくなりました。1947年のインド独立法の制定によって、インドは、ヒンドゥー教徒を主体とするインド連邦およびイスラム教徒を主体とするパキスタンという2つの国として独立を勝ち取りました。

出遅れた国々:オーストリアおよびロシアの場合

 インドが産業革命で立ち遅れたのは、低賃金のために労働を機械に置き換えることで利益を出せなかったからです。その背景には、イギリスの植民地支配が影響しています。しかし東欧やロシアでは事情が違いました。支配者たちが自らの権力を守るために、産業革命を拒絶したのです。
 14世紀のペスト禍は、東欧とロシアでは、イングランドとは逆の結果をもたらしました。人口減少にともない、生き残った地主たちがさらに小作地を広げた一方、農民たちはさらに自由を剥奪されたのです。16世紀に入り、人口回復と経済成長にともない西ヨーロッパ の食糧需要が増すと、東欧地域がその供給源となりました。西ヨーロッパ向けの穀物輸出が増えるにつれて、農民への締め付けはますます強くなり、やがて「再版農奴制」と呼ばれる体制として結実しました。
 たとえばポーランドのコルチンでは、1533年には封建君主の要請したあらゆる労働に賃金が支払われていましたが、1600年にはおよそ半分が無給の強制労働になっていました。ハンガリーの場合、1514年の時点で地主が土地を全面的に支配しており、労働者には週1日の無給労働が法律で義務付けられていました。これが1550年には週2日になり、16世紀末までに週3日になりました。農村人口の9割が農奴になってしまったのです[86]。
 こうした歴史的経緯により、東欧とロシアでは19世紀に入っても農奴制が残っていました。この地域の支配者たちにとっては、この時代になっても、封建秩序の維持こそが権力の源泉であり、経済政策の柱だったのです。

 神聖ローマ帝国の最後の皇帝フランツ2世は、産業革命に抵抗した権力者の典型です。彼は1792年、フランスでは市民革命が進行している時代に即位しました。ナポレオン戦争に巻き込まれた彼は、1805年にアウステリッツの戦いで敗れ、帝位を放棄。神聖ローマ帝国は消滅しました。しかし、彼はその後もオーストリア帝国の皇帝フランツ1世として君臨しました。
(※余談だが、世界史の教科書では大抵、オーストリア皇帝フランツ1世よりも、その外相であるクレメンス・フォン・メッテルニヒのほうが扱いが大きい。メッテルニヒは外交の天才であり、ナポレオン戦争の戦後処理を決めるウィーン会議の議長を務めて、その後の「ウィーン体制」の指導的立場になった。なお、ウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず」という警句で有名である。)

 北米や西ヨーロッパで広まる自由主義とナショナリズムに対抗して、フランツは保守反動的な絶対君主として振る舞いました。憲法の制定に反対し、大臣との協議の場であった国家評議会を解散し、あらゆる言論を検閲しました[87]。商工業への規制も多く、都市経済はギルドに支配されたままでした。
 興味深いのは、フランツが技術革新にも反発していたことです。1802年、彼はウィーンでの工場新設を禁止しました。この禁止令は1811年まで続きました。さらに、銀行家ザーロモン・ロートシルトから帝国内の鉄道敷設を提案されたときにも、頑として首を縦に振りませんでした[88]。
 ちなみに、ロートシルトは英語読みでロスチャイルドです。ザーロモンは、有名なネイサン・ロスチャイルドの兄です。イギリスで「ロケット号」を見てその可能性に気づいた弟は、オーストリアの広大な土地に鉄道を引けば大儲けできると踏んで、兄に連絡を取ったのです。しかし、皇帝が乗り気でなかったため、銀行家一族の計画は頓挫しました。
 工場が増えれば、労働組合のような新たな政治勢力が台頭するかもしれません。鉄道が敷設されれば、農奴が逃亡しやすくなるかもしれません。そうなれば、貴族などの支配的地位の人々から支持を失い、帝位を狙う競争相手が現れるかもしれません。最悪の場合には、フランス同様に市民革命が起きてしまうかもしれません。
 産業革命は、都市化率の上昇や、新規産業の勃興にともなう旧来の産業の没落、ヒト・モノ・カネの移動の活発化などをもたらします。これらすべての変化が、フランツにとっては都合が悪かったのです。彼は、創造的破壊によって権力の基盤が損なわれることを恐れたのです。

 帝政ロシアの歴史は、1721年にピョートル1世が皇帝を名乗ったところから始まります。彼は当時の西ヨーロッパを参考に、絶対主義的な体制を作り上げました。エカチェリーナ2世の在位中である1770年代にはプガチョフの農民反乱が起き、その鎮圧後には農奴制はさらに強化されました。農奴たちは週3日の無給労働をせねばならず、職業選択の自由も移動の自由もなく、領主から領主へと売り渡されることすらありました[89]。
 1825年にニコライ1世が即位したときにも、このような過酷な農奴制が維持されていました。オーストリアのフランツ同様、ニコライ1世も産業革命を拒絶しました。
 じつのところニコライ1世の即位以前に、ロシアでは国有の商業銀行を設立して産業に融資する計画がありました。しかしニコライ1世のもとで財務相を務めたイゴール・カンクリンはそれを白紙撤回し、代わりに封建地主しか融資を受けられない旧来の貸付銀行を再開しました。商業銀行から資金が移動されたことで、産業界の利用できる資金は金融市場から払底しました[90]。さらにカンクリンは、いくつかの産業博覧会を中止に追い込みました。世界各国の技術革新の成果が人々の目に触れるのを防ぐためです。
 ニコライ1世とカンクリンは、鉄道の敷設にも消極的でした。イギリスでダーウィンが屋敷を買った1842年までに、ロシアで開通していた鉄道はたった1本。サンクトペテルブルグから、郊外のツァールスコエ・セロー宮殿およびパヴロフスク宮殿を結ぶ、わずか27・4キロメートルほどの路線だけでした。

 1848年、ヨーロッパは「諸国民の春」と呼ばれる状況になりました。フランスの二月革命をきっかけに、各国に革命が飛び火したのです。『共産党宣言』が出版されたのもこの年です。マルクスとエンゲルスは「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」と叫びました。
 この国際情勢を受けて、ロシアでは1849年に新しい法律が制定され、モスクワの工場に厳しい規制が課されました。製鉄所と紡績工場の新設は全面禁止されました。染色や製織などのその他の工場も、軍政長官に陳情しなければ開業できなくなりました。さらにその後、綿の紡績工場は稼働を停止させられました[91]。
 おそらくニコライ1世たちには、増え続ける工場の存在そのものが革命運動の原因に思えたのでしょう。プロレタリアの団結を許すわけにはいかなかったのです。

画像出典:ダロン・アセモルグ、ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか〈上〉』p367/ハヤカワノンフィクション文庫、2016年

 1870年のヨーロッパの鉄道網を見ると、こうした経済政策の帰結が一目瞭然です。いち早く産業革命を成し遂げたイギリスや、18世紀初頭の時点で世界2位の炭鉱業を持っていたベルギーでは、すでに鉄道網が国土を覆い尽くしていました。オランダ・ドイツ・フランスなどは産業革命では2番手としてイギリスの後を追いましたが、その状況が鉄道網にも表れています。
 比べると、ロシアおよびオーストリア・ハンガリー帝国の遅れは明白です。

 彼らは出足のつまずきを取り戻せなかった……と言えるかもしれません。なぜならこの地図の20年ほど前には、すでに西ヨーロッパからの遅れは認識されていたからです。
 1848年の「諸国民の春」で、オーストリアの農奴制は廃止されました。メッテルニヒは失脚し、ウィーン体制 は終わりを迎えました。
 ロシアの後進性が白日のもとに晒されたのは、1853年に勃発したクリミア戦争でした。これはオスマン帝国領内のギリシャ正教徒保護を口実に、ロシア軍がオスマン帝国に侵入したことから始まりました。ロシアの南下政策を止めたいイギリス、フランス、さらにフランスの歓心を買いたいサルディーニャ王国が、オスマン帝国を援助する側として参戦したことで、大規模な国際紛争に発展したのです。当時はまだスエズ運河は開通していませんでしたが、それでもイギリスやフランスにとって、地中海はインドなどのアジアに繋がる通商路として重要でした。ロシアによる地中海封鎖を英仏両国は懸念したのです。
 世界中の様々な場所で戦闘が行われましたが、焦点となったのは黒海のクリミア半島セヴァストポリの要塞を巡る攻防戦でした。イギリスやフランスからは遠く離れた戦場であり、兵士や武器・食糧の補給は簡単ではありませんでした。一方、ロシアから見ればすぐ膝元の戦場です。にもかかわらず、ロシアはこの戦争で敗北を喫したのです。
(※余談だが、クリミア戦争はヨーロッパの社会・文化にも多大な影響を与えた。興味深いところでは、喫煙習慣の普及があげられる。戦地でのストレスに耐えるため、英仏露の兵士たちは配給されたタバコを塹壕のなかで吸っていた。そしてすっかり愛煙家になって、喫煙習慣を故郷に持ち帰ったのである[92]。)
 ロシアは装備・戦術・補給のあらゆる面での遅れを認識しました。とくに、兵士を前線まで素早く輸送する鉄道が、安全保障上も重要であることに気づきました。アレクサンドル2世は改革に着手せざるをえず、1861年には農奴解放令を発しました。

 それでも、遅れを取り戻すのは簡単ではありませんでした。

 1883年になっても、オーストリア・ハンガリー帝国では鉄の半分以上を木炭で製銑(せいせん)していました。当時、世界の鉄の90%以上が、ずっと効率のいい石炭で製銑されていたにもかかわらず、です。また、20世紀に入っても織物業は完全には機械化されていませんでした[93]。
(※鉄鉱石から抽出したばかりの鉄は炭素含有量が多く、ハンマーで叩けば割れるほど脆い。これを銑鉄(せんてつ)と呼ぶ。製銑とは、鉄鉱石から銑鉄を抽出する工程のこと。銑鉄から炭素を減らして、強くしなやかにしたものが鋼鉄である。)
 19世紀後半の帝政ロシアでは工業化が試みられましたが、賃金は生存費ぎりぎりのままでした。生み出された利潤はすべて、資本家と地主階級に流れたのです。この不均衡な経済成長が、共産主義革命とロシア内戦を引き起こしました。ロシアで本格的な工業化が始まるのは、ソビエト連邦が成立してからでした。

私たちはなぜ「マルサスの罠」を脱出できたのか

 日本の封建制は明治維新により終わり、近代化と継続的な経済成長が始まりました。当時の日本は、欧米列強と結ばされた不平等条約により国内産業を守ることはできず、なおかつ低賃金のために「労働を機械で置き換える」という経済的インセンティブもありませんでした。
 明治の日本の工業化を推進したのは、富国強兵策という政治的インセンティブです。このままでは欧米列強に負けて自分たちの利権すら危うくなると気づいた日本の支配的階層の人々は、かつてのオーストリアやロシアのように技術革新を拒絶するのではなく、御雇(おやとい)外国人を登用して、先進的な科学技術を貪欲に導入したのです。
 とはいえ、当時の欧米の技術は高賃金な経済環境で生まれたものであり、そのままでは日本で利益を出せませんでした。そこで当時の人々は、低賃金な日本でも利益が出るように改良することで問題を解決しました。
 たとえば築地製糸場で使われた「諏訪式座繰機」はヨーロッパ式の機械でしたが、金属部品は木製部品で代替され、動力源は蒸気機関ではなく人力でした。また、当時のイギリスやインドで一般的だった1日11時間勤務ではなく、11時間2交代制が日本では採用されました[94]。こうすることで、工場の稼働1日あたりの機械の購入価格を、実質半額にできたからです。
 18世紀後半から19世紀半ばまで、石炭と蒸気を動力源に、繊維産業のような軽工業が世界の経済を牽引しました。この時代を「第一次産業革命」とも呼びます。これに対して、19世紀後半から20世紀初頭にかけて石油と電気が主役になり、非鉄金属の重工業も盛んになりました。『シャーロック・ホームズ』の舞台となったこの時代を「第二次産業革命」とも呼びます。
 日本もこの変化に取り残されず、1904年の日露戦争までには、自前で戦艦を建造して列強と戦争できるまでに進歩していました。1870年に737ドルだった1人あたりGDPは、太平洋戦争前夜の1940年には2874ドルに増加しました。とはいえ、欧米先進国に比べれば依然として後塵を拝していました。この期間の経済成長率が1950年以降も続いたとしたら、アメリカに追いつくのに327年かかった計算です[95]。日本が経済規模で先進国の仲間入りができたのは、戦後の高度成長があったからです。

 戦後日本の高度成長は、「ビッグプッシュ型」の工業化と呼ばれます[96]。これは明治時代とは逆の発想で成し遂げられました。低賃金にあわせて機械を改良するのではなく、高賃金でしか利益を出せない高効率な最新技術を、あえて導入したのです。
 これには政府主導の計画経済が欠かせません。たとえば最新鋭の設備を導入した製鉄所を作り、鋼鉄を大量生産したとして、誰がそれを買うのでしょうか? 自動車産業や造船業、建設業など、供給を受け止めるだけの鋼鉄需要を計画的に作り出さなければなりません。要するに、製鉄所が鉄の生産を始める前から、自動車会社は工場の生産ラインを建設し始める必要があるわけです。このような計画を策定し、実現したのは、当時の通商産業省でした。
 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』には、こんなシーンが登場します。
 1955年の登場人物が、故障したタイムマシンの部品を見て「やっぱりな、『メイド・イン・ジャパン』と書いてある」と言います。それに対して、1985年から来た主人公は「何を言っているんだ、日本製は最高だぜ?」と答えます。
 1950年代には粗悪品しか作れなかった日本の工業は、「ビッグプッシュ型」の経済成長により、その30年後には世界でも最高品質の製品を生産できるようになっていた――。
 このシーンは、それを象徴しています。

 こうして1990年代には、日本は先進国に完全にキャッチアップしました。

 バブル崩壊後の日本が低成長の時代に入った一番の要因は、世界の最先端まで追いついてしまったからです。海外の既存の科学技術のパッケージを丸ごと国内に導入するだけでよかった昭和までとは違い、平成以降は世界の技術革新の水準と同じペースでしか成長できなくなったのです。
 とはいえ、これはゼロ成長やマイナス成長を肯定するものではありません。歴史上、産業革命後の先進国は、技術革新にあわせておおむね年率1・0~2・0%ほどの経済成長を経験してきました。令和以降の日本も、この水準を理想的な成長率だと考えるべきでしょう。

緑の革命:空気からパンを生み出す

「なぜ私たちはマルサスの罠を脱出できたのか?」という疑問に答えるためには、「緑の革命」にも触れておく必要があるでしょう。20世紀半ば――とくに1960年代――に世界の農業生産性が急上昇し、食糧事情が大幅に改善したのです。これを緑の革命と呼びます。
 じつのところ20世紀前半には、人類は数十年内に大飢饉に見舞われると考えられていました。世界人口の増加によって深刻な食糧難が生じ、20世紀末までに(大袈裟な言い方をすれば)文明社会は崩壊すると予想されていたのです。それを裏付けるかのように、1943年にはベンガル大飢饉が起きました。1960年代の半ばには、インドは常に飢饉と隣り合わせでした。
 しかし人類は技術革新により、その運命を変えました。中でも重要なものが2つあります。
 1つは、穀物の品種改良です。
 農業学者セシル・サーモンは、ダグラス・マッカーサーの指揮する進駐軍の一員として日本を訪れました。彼が日本で集めたコムギのなかに「農林10号」がありました。これは通常は120センチメートルまで伸びる茎が、60センチメートルしか伸びない「短稈(たんかん)品種」でした[97]。麦や稲は、茎が長くなるほど強風などによる倒伏(とうふく)の被害を受けやすくなります。茎の短さは、穀物の収穫量増加に直結するのです。
 農林10号はその後、様々なコムギと掛け合わされ、品種改良が進みました。新しい品種の導入には地元民の抵抗もあり一筋縄ではいかなかったものの、1974年までにインドのコムギ収穫量は3倍に増え、コムギの純輸出国になりました[98]。さらにイネでも短稈品種が開発されました。穀物の品種改良の成果により、世界の――とくにアジアの食糧難は回避されたのです。
 もう1つの技術革新は、ハーバー・ボッシュ法です。
 これは大気中の窒素から、肥料となる窒素化合物を生み出す技術です。マメ科植物と共生する根粒菌がやっていることを、化学的・工業的に行う技術だと言えるでしょう。俗に「空気からパンを生み出す技術」とも呼ばれます。現在、私たち人類の体内に存在する窒素元素のおよそ半分は、このような工業的な製法を行うアンモニア工場を経由しています[99]。歴史は意外と古く、1913年にドイツの化学者フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュにより実用化されました。
 短稈品種を始め、どれほど素晴らしい新品種を開発できたとしても、それが育つのに充分な栄養分を供給できなければ収穫量を増やせません。20世紀後半の食糧増産にハーバー・ボッシュ法は不可欠でした。
(※ここで紹介する2つ以外にも、トラクターを始めとする機械動力の導入や化学の発展に伴う効率的な農薬の登場など、農業の生産性を高めた技術革新は多岐に渡る。)

 現代は、歴史上もっともカロリーが安くなった時代とも言えます。
 たとえば日本のまるか食品の『ペヤング焼きそばGIGAMAX』は、1食で2142キロカロリー。成人男性が1日に必要とするカロリーとほぼ同等です。にもかかわらず、この記事を執筆している時点で、希望小売価格は408円(税別)。東京都の最低賃金は1113円なので、30分間にも満たない労働で1日分のカロリーを入手できるわけです。カロリーベースで見たときの食糧価格がこれほど安くなったからこそ、現代の先進国では貧困と飢餓が結びつかなくなったのです。

豊かさとは何か?

 物質的な豊かさとは、「あらゆるものがタダ同然になっていくこと」と定義できると私は考えています。単位労働時間あたりに入手できる財が、質・量ともに増えると言ってもいいでしょう。
(※これは物価低下を意味する「デフレーション」とは別の概念である。私たちが商品を買うときに支払うお金は、その商品を売っている側から見れば収入である。デフレに陥ると商品の価格だけでなく私たちの収入も減るので、経済全体の規模は縮小し、私たちはむしろ貧しくなる。)

 たとえばイギリスには古くから、富者も貧者も問わず遺言状を作る習慣がありました。数百年前の遺言状が現存しているのです。中にはこんな内容のものもあります。

 ウィリアム・スターティン、トールスハント・メジャー在住、農夫、1598年11月14日。
 息子のフランシスに10シリング。義理の息子のトーマス・ストナードに、彼に対する借金を考慮して牛1頭。トーマスの息子のウィリアムとヘンリー、同じく彼の娘のメアリーに白目の大皿を1枚ずつ。残りの物を妻に遺贈する。検認、1599年2月3日。

グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』上巻P.147

 注目すべきは「白目の大皿」を、遺贈すべき財産として書き残していることです。牛1頭に比べれば安かったようですが、それと並べて書く程度には価値があったのです。白い皿など、現代の日本ならコイン1枚でも買えます。それどころかヤマザキの「春のパン祭り」のように、別の製品のおまけとして無料配布されることすらあります。よっぽど高級なブランドの製品でもない限り、白目の大皿を遺産目録に載せる人はいないでしょう。16世紀と21世紀で、皿の価値は大きく変わったのです。

 同じことは、私たちの身の回りのあらゆる商品に当てはまります。

 発明されたばかりの自動車は、現代でいえばプライベートジェットのように一握りの富豪しか所有できませんでした。しかし21世紀の現在では一般庶民でも購入できます。それも19世紀とは比べ物にならないほど安全かつ高速・低燃費の自動車を、です。高校生がアルバイト代を貯めて買うことも夢ではないでしょう。
 夏目漱石がイギリスに留学した明治時代には、海外留学はごく一握りのエリートだけに許された特権でした。先述の梅棹忠夫がインドを旅した1950年代にも状況はさほど変わっておらず、海外旅行を楽しめるのは富裕層だけでした。ところが1970年代に〝ジャンボジェット〟ボーイング747が就航したことで状況が一変します。ボーイング747はあまりの巨体ゆえに座席が埋まらなかったため、格安の座席――エコノミークラス――が販売されるようになったのです。
 現在では、一般庶民でも海外留学は珍しいものではなくなりました。大学生でも、卒業旅行の行き先にしばしば海外を選びます。もはや熱海や宮崎が新婚旅行の定番だった時代ではありません。
 1858年、大西洋横断電信ケーブルが敷設されました。しかし通信速度は劣悪で、かつコストは高額でした。8月16日にロンドンのヴィクトリア女王がワシントンのブキャナン大統領に99語のメッセージを送ったとき、送信には16時間かかりました。(現代風にいえば)1キロバイトに満たない文章の送信に、それだけの時間がかかったのです。当時、大西洋の反対側に電報を送るには100ドルほどかかり、これは一般的な労働者の賃金数か月分に相当しました[100]。
 現代の日本では、下り10Gbpsの光回線でも月額5000円ほどで使い放題です。スターリンクのサービス開始により、名実ともに世界中どこでもギガバイト単位の情報をやり取りできるようになりました。今でも通信は「タダ」ではありません。しかし19世紀に比べれば「タダ同然」になったと言えます。

 卑近な技術革新の例では、私はキッコーマンの「密封ボトル」に感嘆します。
 これは特殊な構造のペットボトルで、醤油が空気に触れる表面積を最小限にすることで味の劣化を防ぎます。キッコーマンは開封後120日間にわたり鮮度を保てると謳っています。同じ味を楽しむには、以前なら醬油メーカーの工場に出向いて、搾りたてを入手する必要がありました。密封ボトルはその旅費と労力を「タダ同然」にしたのです。
 なぜ私がこれに驚くかといえば、醤油のボトルなど数百年前から基本的な構造が変わっておらず、イノベーションの余地などないと思い込んでいたからです。
 現代の私たちは、〝太陽王〟ルイ14世よりも物質的に豊かな生活を送っています。技術革新により、あらゆるものが(17世紀に比べれば)タダ同然で入手できるようになったからです。
 このブログでは、歴史を変えた技術革新ばかりを扱ってきました。しかし、そういう大きな発明だけが、現代の豊かさをもたらしたのではありません。実際には、キッコーマンの密封ボトルのような小さな発明が、気が遠くなるほど積み重ねられた結果、今の世界が実現したのです。

 科学的な技術革新だけではありません。
 政治制度の技術革新も、この豊かさには関わっています。

 つい先日、私は健康保険証を家に忘れて内科を受診しました。目玉の飛び出るような金額を請求されて、健康保険のありがたみを実感しました。大雑把にいえば、健康保険は加入者の数が増えるほど、保険料を安く、保険金(給付金)を高くできます。したがって健康保険のサービス向上だけを考えるのなら、国民全員で加入することが最も効率的です。
 国民皆保険制度の基礎を作ったのは、19世紀のドイツ・プロイセン王国の〝鉄血宰相〟オットー・フォン・ビスマルク です。保守派だった彼は、健康な兵士を輩出するため、そして社会主義運動を牽制するために、社会保険制度を創設しました。現代日本の私たちが数千円で医者にかかれるのは、その後の社会福祉制度の発展のおかげ――政治制度の技術革新のおかげなのです。
 さらに現代の日本の私たちは、病気や事故で働けなくなっても「健康で文化的な最低限度の生活」を保障されています。これは、日本の豊かさの象徴です。本書では、農業が充分に効率化されなければ余剰食糧を生み出せず、都市人口を養えないという話を書きました。同様に、経済全体が豊かで余剰を生み出せなければ、働けない人々を養うこともできないのです。

立ち止まるわけにはいかない

 こうした豊かさは、人類の歴史の成果です。
 数百万年前のアフリカで私たちの祖先が石器を握ったときから、この旅は始まりました。
 数十万年前には、火の利用方法を学び、着火技術を身に着けました。
 数万年前には、槍の先に石刃を取り付け、弓矢を発明し、家屋を建設するようになりました。動物の骨から縫い針を作ることを思いつき、毛皮でコートやブーツを作り、さらには繊維を編んで布製の衣服を発明しました。植物を品種改良し、動物を飼い慣らし、およそ八〇〇〇年前から農耕を始めました。生み出された技術・知識を、文字を通じて伝達するようになりました。やがてそれは印刷技術と結びつき、科学と人権思想を産み落としました。
 産業革命を経て、人類は、かつては想像もできなかった世界を作り上げました。
 それは飢えよりも肥満が社会問題となる世界です。数え切れないほど人間が、鳥よりも高速で空を飛び回る世界です。生まれた赤ん坊1000人のうち2人ほどしか死なない世界です。致命的な疫病を、ワクチンで予防できる世界です。すべての子供が教育を受け、地球は太陽の周りを回っていると知っている世界です。すべての大人が読み書きを覚え、四則計算に困らない世界です。地球の裏側と、言葉の壁すら超えてリアルタイムで会議ができる世界です。
 わずか150年前でも「ユートピア」として夢想されるだけだった世界を、人類は実現したのです。
 この豊かさは、自然現象がもたらした偶然でも、神がもたらした天の恵みでもありません。人類が、自分自身の手で作り出したものです。少しでも暮らしをマシにしたいと考えた人々の創意工夫の結晶です。絶え間ない発明の上に、私たちが生きる現代の世界は成立しているのです。
 技術革新を否定することは、ここに至るまでの先人たちの努力を否定することにほかなりません。

 また、現在の科学技術の水準で立ち止まることは、文明社会の滅亡を意味しています。なぜなら現在の豊かさは、まったく持続可能ではないからです。これは、ここまでの歴史の負の側面でしょう。
 たとえば、もしも熱エネルギーを薪だけに頼った場合に日本列島に何人が暮らせるのか、フェルミ推定で概算してみましょう。見過ごされがちですが、薪は再生可能エネルギーです。木材を伐採しても、切り株から生えてきた芽を10年ほどかけて育てれば、再び伐採可能になるからです。管理された森林1ヘクタールからは、平均すると1年あたり5~10トンの薪を得られます[101]。
 現代の日本にも、冬の暖房を薪ストーブまたは暖炉だけに頼っている人々がいます。彼らのブログやYouTubeの動画を見ると、(地域や暖房器具の性能にもよりますが)ひと冬でおおむね3~5トンの薪を消費するようです。つまり森林1ヘクタールあたり1~2世帯しか養えないことが推測できます。人数でいえば2~4人程度でしょう。
 林野庁のホームページによると、2022年時点の日本の人工林の面積は約1009万ヘクタールです[102]。日本の人工林の面積は、1960年代からおよそ1000万ヘクタールでほぼ一定です[103]。したがって、日本国民すべてが薪エネルギーに頼った場合、人口2000万~4000万人が限度という計算になります。
 江戸時代の日本人口は、1720年に約3000万人でした。大政奉還から間もない1870年には、約3500万人でした[104]。森林の面積と薪エネルギーから推定した日本列島が収容可能な人口の上限は、そこそこイイ線を突いていそうです。

 2008年のピーク時に、日本人口は1億2808万人でした。
 収容可能な人口の3~4倍の人々が暮らしていたことになります。
 なぜそんなことが可能だったかといえば、化石燃料に頼ったからです。言い換えれば、現代の森林を燃やす代わりに、数億年前の森林を燃やすことで、私たちは戦後の豊かな日本を作ったのです。

 石油や石炭はいつか枯渇します。それらの燃焼時に生じる温室効果ガスは、気候変動をもたらしています。現在とまったく同じ生活を続けることは不可能です。私たちは技術革新により、より消費電力の少ない機械設備や家電製品、計算機を作らなければなりません。より燃費のいい移動手段を見つけなければなりません。10万年間埋めておくという非現実的な方法ではない、クリーンな核廃棄物の処理方法を見つけなければなりません。水力、太陽光、風力、地熱、波力、潮力などの自然エネルギーを、より効率よく利用する方法を発見しなければなりません。
 これらの問題の解決策を発明できなければ――技術革新がなければ――人類文明は大きな後退を余儀なくされるでしょう。飢餓と貧困、高い死亡率がよみがえるでしょう。ヒトやモノの移動が困難になり、さらに情報・通信のコストが高まり、人々の分断は深まるでしょう。やがて公的教育や社会福祉も消え去り、封建的な秩序と人権蹂躙が復活してしまうかもしれません。
 私たちは、立ち止まるわけにはいかないのです。

(次回、「電子計算機の発明」編に続く)
(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第12回です)

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※※※参考文献※※※
[83] マーク・カーランスキー『塩の世界史 歴史を動かした小さな粒』(中公文庫、2014年)上巻P.152
[84] カーランスキー(2014年)P.145
[85] カーランスキー(2014年)P.154
[86] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.178-180
[87] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.359-361
[88] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.362-364
[89] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.364-365
[90] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.366
[91] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.368
[92] シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2016年)下巻P.27
[93] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.364
[94] ロバート・C・アレン『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』(NTT出版、2012年)P.165-166
[95] アレン(2012年)P.169
[96] アレン(2012年)P.183-187
[97] マット・リドレー『繁栄 明⽇を切り拓くための⼈類10万年史』(早川書房、2010年)上p199 
[98] リドレー(2010年)p201
[99] リドレー(2010年)上p197-198
[100] バーンスタイン(2015年)上巻P.318-320
[101] ルイス・ダートネル『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(河出文庫、2018年)P.144
[102] 林野庁「都道府県別森林率・人工林率(令和4年3月31日現在)」(https://www.rinya.maff.go.jp/j/keikaku/genkyou/r4/1.html)
[103] 林野庁「森林面積蓄積の推移」(https://www.rinya.maff.go.jp/j/keikaku/genkyou/h19/2_2.html)
[104] リヴィ-バッチ(2014年)P.80


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