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性欲説を提唱してみる

荀子とか孟子に憧れて性悪説や性善説的なのを唱えたい話

今日は出オチ感が半端ないタイトルで話を展開していきたいと思います。

まあ出オチも出オチで、もう答えは言っているんですが、性善説は人間の本来の性は「善意」であるという考えで、性悪説は人間の本来の性は「悪意」であると考えですかね。(私は孔子も孟子も荀子も履修不足なのであくまこのレベルの理解で納めます)

私が今回持ってきたのは単純で、人間の本来の性(サガ)は「欲」であるというだけのことです。

善悪というものは行為した後に周りがラベルリングするものであって、行為をした本人は単純に「したかったから」という欲に従順に動いただけに過ぎないと思います。もちろん、したかった理由(つまり理由の理由)には気持ちの部分で善意や悪意はあってもいいのかもしれませんが、直接的な理由はあくまで欲だと思います。

昔、書いた記事でコミュニケーションにはいくつかのステップがあると書きましたが、それとおんなじで行動にはする人の動機となるものと行動とされた人や見た人の感想があります。善意や悪意はあくまで行動した人の個人の中で収まっている話で、善か悪かは評価する人が決めることです。

わかりやすい例としてはやっぱり戦争でしょうか? ただ銃を撃ってみたくて、ただ人を殺してみたくて、そんな一般的にいう悪意(倫理的な悪意?)で人を沢山殺した。でも戦争だから英雄視され、善と言う評価を受ける。もちろん、殺された人々の遺族はその人物を悪と見なすでしょう。

どこかの発言で正義の反対はまた違う正義みたいなことを言っている人がいましたが、それと同じことですね。

でも、欲と言うモノは善悪を全くもっていません。そこにあるのは単なる欲求であり、その時点で善や悪とは言えない。

先ほど少し書きましたが、その「したい」という欲を作ったのはその人物の「善意」や「悪意」があると思います。でも、その更にしたにある理由はどうなのでしょうか? つまり、「理由の理由」が善悪の感情なら、「理由の理由の理由」とまで戻るの何になるのでしょうか?

私はそれを一種の分類したのがマズローの欲求5段階説だと思います。私が今言いたいのはマズローの段階になっている話ではなく、「理由の理由」を最後まで根詰めた時に出てくる根源たる欲求がマズローの欲求5段階のいずれかに該当する。

一例を出しましょう。某実業家が「お金配り」と称して、自身の信奉者(厳密に言えば自身のSNSを閲覧している人)に現金を配布しています。お金配りをしている理由は「お金を配りたい」。その理由の理由は「お金を貰って活用し喜んでいる人を見たい」。その理由の理由の理由は「笑顔を見るのが好きだから」。その理由の理由の理由の理由は「笑顔を見ると自分が認められている気がするから」←一種の自己承認欲求(マズローの欲求段階では2番目に高次)

実際の現実の1例を私が勝手に解釈した物であって、本人の本当の意図はわかりません。ただこのように理由に理由付けをしていく中で、気付いたらそこに善や悪という性質は帯びなくなり、結果的には単純な「欲求」が残る。

人間の性とはやっぱり欲なんだと思う。ただ人間の面白いなと思うのは、人間には理性や本能という欲をとめるブレーキがある。また欲もそれらをブレーキする因子になることもある。ちなみにこの話もいつか「フロイトのエス・自我・超自我的なことを提唱したい話」としてしたいと思うので、ここでの言及はネタストックのためにスルーします。

ちょっと話がブレたので、話を戻すと

人間の本来の性は「欲」である。性欲説をここに提唱します。

最後に追記として、マズローの欲求5段階説について、ちょっと書きます。ただ詳しい説明は自分で調べること推奨します。

単純に言えば、欲求は5段階に分かれており、下部の欲求が満たされれば上位の欲求を満たしたくなるという話です。欲求は1. 生理的欲求、2. 安全の欲求、3. 社会的欲求、4. 承認欲求、5. 自己実現の欲求である。

生理的欲求はいわゆる三大欲求や排泄欲などの種として生きるために必要な欲。安全の欲求は身体的にも経済的にも安定した環境をもとめる欲。社会的欲求は社会集団に所属してすることで自信を安定させる安心させたいという欲。承認欲求は自分を認められたいという欲。自己実現の欲求は自分にしかできないことをしたいなどの事です。これより更に上位の欲求として自己超越の欲求(他者や社会など、自分の外にあるものに対する貢献をしたい欲?)もあるそうですが、私が学んだ時点では習わなかったのでスルーします。(図を見るとわかりやすいので、是非「マズロー」とググってみてください!)

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:ヒトデに囲まれたナマコちゃん

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