あの夏、もう一回
私は納得してないし、納得できない。誰かのせいにできるのなら、誰かのせいにしたい。許せない思いはどこにも向けられず、ただただ浮遊している。
大人は言う、しょうがないねって。高校時代の部活なんて内申書が少し良くなるくらいで、よっぽど大学受験の方が大切だって。
同級生は言う、達成感はあるって。こんな形で終わってしまったけど、自分たちの努力は無駄にならない、きっと将来のためになるって。
私はわかっているつもりだ。大人は理解してくれている。そして、私たちが少しでも悲しまないようにそうやって励ましてくれいるんだって。私は悪くないって言いたいんだと思う。
私はわかっているつもりだ。みんな納得していない。でも、それでは前に進めない。だから、時や運のせいにして自分たちはどうにもならなかったって正当化しようとする。
あんなに頑張った時に自分から「スポーツなんて意味がない」って言ってみたり、「どうせ一回戦敗退だし」って強がってみたりする。言葉は意思だ。心にもない「それ」を重ねて、言って思って、何度も何度も。そして、いつか諦められる。そして、それを大人は「大人になった」って言う。
私は大人になれない。確かに私はあの夏を、そしてその先に何も残せなかったからこそ、いい大学に行けたのかもしれない。
でも、ただ暑い時もムシムシした日もひたすらに練習したあの時間は、あの夏は一度きりだ。もう私は高校生じゃない。あの夏はもう帰ってこない。
心のはあの夏にとらわれたままなのに、身体と肩書ばかり大人になっていく。運動に使わない筋肉はどんどん落ちていき、大学の学生証を持って日々を過ごす。
昔、英語の授業でアップル社の創始者のスティーブジョブズが大学生へのスピーチで話した中で「今日が人生最後だとしたら、今日やることは本当にやりたいことだろうか?」と言っていた。感銘を受けた。そして私は常にとは言えないけど、それを意識して生きてきた。
では、あの時の私の思いはなぜまだここにあるのか? 私は本当にやりたいことを出来ていなかったから、なのかな。どうやったら、大人にならずにこの思いを背負わずに今にあれたんだろうか?
人はそんな悩み事を「時間の無駄」だの「無意味な命題」だって言う。私はただ大人になり切れてないだけなのか? いやそんなことないんだ! 私の悩み事は私の中の整理をつけるために必要なことなんだ。確かに時間も体力も無駄かもしれない。でも、私の感情への生産は必ずあるんだ。
私はもう一度問いかける。「あの時にどうしたら今の思いはないのか?」そして、私はなにかしらの回答を出してみる。そして、それが「大人になった自分の正当化」なのか、「あの時の自分の後悔」なのかを考える。
もしも私がいつか「大人になった自分の正当化」を見て見ぬふりをして、その回答を受け止めた時に私は確かに「大人になった」のだろう。でも、それは後悔を背負ったあの夏の自分を見捨てた屍の上にある大人の自分だ。
「あの時の自分の後悔」をたとえこんな情勢になってなくても、思うようなそれを見つけた時に、私は「あの夏の自分」が成長した私になれる。それは大人である必要ない。あの夏の自分より少しだけでいいから成長している自分であればいい。
ねぇ、高校3年生の私、今のあなたは後悔していませんか? どうすればその後悔を拭えるかを考えていますか? 諦めきれずにまだ朝方に走って、オンライン授業中に筋トレをしてみる私は子供かな? あなたの思い描いた大学生じゃないのかな?
子供である「あなた」に質問するのはとても酷だ。でも、今大人になろうとする自分と子供でありたい自分の間で揺れる私の背中を押して欲しい。
「私と一緒に子供でいていいんだよ」
そう言ってもらえれば、私はまだあなたのことを忘れずにいられる気がするから。
あの夏、もう一回。
写真:新宿御苑のはず
この曲を聴きながら書きました。