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九九言えないけど医学部合格した人の話

ふと思い出したことを書いてみる話。

そろそろオンラインからオフラインに戻りつつある現状ですが、通学路なのでしょうか? この前小学生がお互いに九九を言い合っている姿を見かけました。私には九九を聴くと思い出すエピソードがあります。

小学校の時の話なんですが、クラスに九九が言えない子がいました。別に言語的な遅れがあるとか、そういう障害があるというわけではないのですが、単純に九九がいえない子でした。
小学生の時に九九の暗唱のテストみたいのもあって、何度も再試をうけていて、印象的だった記憶があります。

ただこのエピソードが印象的な理由はその後にあります。その人は算数や中高の数学の成績が結構良かった。最終的に一浪したもの数学が必要な医学部に合格しました。
そして、成人した今でもまだに九九が言えないときた。まあ印象的でした。

しかし、このエピソードには物事の本質が1つ隠れているような気がします。なので、今回は記事してみました。

九九が言えないその人ですが、なぜ計算が早いのかを聞くと、
「別に九九が言えなくても、それぞれの計算の答え覚えていればすぐにわかる」
まあ当たり前のことなんですが、その人は九九のあの言い回しが言えないだけで、普通に計算のために1桁同士の掛け算は暗記しているそうです。

ここが本質です。
九九ってよく小学校のテストで言えるかどうかを評価されますが、そこには本質がない。なぜ九九を覚えるのか、それは1桁同士の計算をすぐにできるようになるためです。でも、テストではいつしか九九を覚えることが目標になっている。

つまり九九はツールでしかないのに、そのツールが目的になっている。ということですね。

別にこれは初等教育に限った話じゃなくて、色んなところにあると思うんですよね。わかりやすいのは整理系の事柄ですね。
なぜ整理をするのか、それは仕事しやすくするためだったり生活環境を向上させたりするためなのに、人は整理した時点で満足してしまう。また周りもそれを良しとしてしまう。

本質はどこにあるのかを繰り返しの中で忘れてしまう。それは誰でもあるようなことな気がします。

もちろん、九九を覚えることでちゃんと計算が出来るようになった人もいるので、ツールを持っているかどうかの確認することは無駄じゃないのですと思います。ただそこに取りつかれてはいけない。

このエピソードを思い出すたびにそう思う。手段が目的になっていないか? もしもなっているなら、どうすれば是正できるのか?
そう思うのが大事な気がする。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:合格と言われると、桜が思い浮かびませんか? まあこの画像は梅です。(このパターン好きです)

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