バッドエンドこそ物語の原点だ。
物語を読んでいてこう思ったことはないだろうか
「なんでこの話バッドエンドで終わらせたんだろう」
言わんとしたいことはわかる。それに実際捻くれた書き手というのは往々にして存在するだろう。というか私もそうだ。しかしながら私は物語るということに一種の価値観を持っている。それは。
ただ幸せな終わりは物語にはならない。
物語られるということは基本的に何か日常に乖離したり、どこか一瞥する何かが生まれているわけだ。ならば、バッドエンドというものにはある種の乖離した別世界があるとは思えないだろうか。日本という国限定で語らせてもらうならば、明日に綱渡りにすらならないほどの不安を持つものが多数派と言ってしまったら詭弁になる。
だからこそ、私には、僕には耐えられない物語というのは一瞥の価値があると思うのだ。
日常の中で転ぶ
私が常々バッドエンドとして書く際に心がけていることだ。
すまない、軽く性癖にまでなるだろうか。
しかしながら、非日常とは日常の中にあるのが「好ましい」のだ。
それには理由がある。それは。
物語は食べるものだ
ということを念頭に置いているからなのだ。これはのちに後述しよう。
想像してほしい、激辛と書いてあることしかわからない漢字も読めない謎の料理と激辛拉麺が並んでいたとする。どちらにまだ食指が行くだろうか。
結局物語を求めるのは刺激を求めることだ。
だからこそ、日常という身近なものに寄り添った刺激こそが物語を読む気持ちを引き立てるのだ。だからこそ。
故に物語はバッドエンドに帰着する
物語られるべくして物語られるべき物語は往々にして非日常的だ。
しかし、非日常とは刺激と同義に近い。
ならば、なればこそ。
物語は、キレのある、苦く、辛く、暗く、苦しく、耽美で、艶やかで。