タイで乳がんになった⑨
海外での闘病を支えてくれたタイの小説を翻訳出版しました。バンコクの路地に暮らす、7人と1匹の24時間を描いた物語。kindleからお読みいただけます。
●そしていよいよ抗がん剤治療開始
がんには、エビデンスに基づいた、ほぼ全世界共通の標準治療というものがある。もちろんそれぞれのがんによっても治療方法は異なり、また羅漢した個人によってアレンジが加えられて、患者である私たちにとって最も効果的であると考えられている治療が施される。様々な情報が飛び交い、不安の最中にあるとき、ここで判断を誤ると大変危険。実際がんに羅漢してよくわかったが、本当に藁にもすがる思いだし、不安ばかりが大きくふくらみ、何とか穏やかに身体に優しい治療を、そしてこれはまだあまり知られていないようけれど、実は画期的に素晴らしい方法なのではないだろうか、などと治療においての素人患者が標準治療を拒み別の道に進みたくなることはある。が、落ち着いて考えてみると、一番たくさんの患者さんにとって効果があった治療が標準治療となり、私たちに施されるのは当たり前のこと。ドクターを信じないのはよくない。
●しかしながらドクターとの相性というものも存在する
が、私の場合はバンコクで日本語通訳がいる病院、という選択肢の狭い中での治療だったため、セカンドオピニオンや説明に納得できるドクターに安心して治療をお願いしたい、という希望は残念ながらかなわなかった。先に述べた標準治療はすると決めていた。それとはまた別のベクトル、ドクターを信頼する重要性について、ここから書きたい。
今思うと私の態度も悪かったし、そして人間、やはり相性というものがある。部分切除手術を担当してくださったベテランドクターはタイ語でも英語でも理解が難しい私の現状や今後の治療方針、そして術後、治療後の見通しまでを図や数字を用いて根気強くわかりやすく説明してくれた。手術当日も私は安心してベッドに横になったし、術後もこの先生にお願いしたのだから大丈夫だろう、という気持ちにもなれた。一方、抗がん剤治療を担当してくださったドクターは、せっかちな性格なのか、私の理解が遅いと、「はい、もう診察はお終い。何度同じこと聞くの?」と半ばキレ気味での診察は強制終了。不安のあまり、私が「先生、本当に大丈夫ですか?」「私、ちゃんと治りますか?」などという質問ばかりを繰り返せば、そりゃイラっとするのもうなずける。
自分の口からとっさに適切な英語やタイ語が出てこないといったことなどにも疲れ、あぁ、やはり日本で治療したほうがよかったかな、という思いが頭をよぎるが既に時遅し。ここで治療を続けるしかない。
しかし、心の底から信頼ができない(正直なところ、ドクターの仕事は忙しく緊張の連続で大変だとは思うが、病気や治療の知識がなく不安で心身弱っている患者にはやはりとことん優しく接するのもドクターの、人としての務めだろう、このお医者さん一体?という気持ちは最後までぬぐえなかった)ドクターに自分のたったひとつの命を預けるのは厳しい。
●不信感を持ったまま第一回目の抗がん剤治療
乳がんの場合、通常抗がん剤は3週間ごと、4クール行われる。私もその覚悟でいた。ドクターを今一つ頼りきれない、とは思いつつ、もうここで治療を進めるしかない。左乳房の腫瘍は取り去ってもらったが、この腫瘍のかけらが身体のどこかに飛んでいってしまったかどうかわからない。万一のために今、抗がん剤でそれを叩きつぶすのだ。もちろん参考資料などやドクターの説明から抗がん剤を投与したときの、抜け毛、吐き気、倦怠感などについての知識は理解していた。
元気な身体に戻るためにはある程度の苦痛があっても仕方がない。
何といっても私はあまり健康を優先した生活を送ってこなかったという自覚もある。若さに任せて不摂生を重ねてきた。仕様がない。
しかし、抗がん剤の力は相当だった。
当日は起きられなかった。そして私は心底怖い、と感じたのは翌日だった。
生気がどんどん失われていく。
自分でもはっきりと抗がん剤によって悪い細胞だけでなく、必要な細胞までも叩き潰されているのがわかった。大げさではなく、一秒ごとに、私の中の生きるための細胞がひとつずつ死んでいくのを感じた。
起き上がることができない。トイレに行くのも壁づたい。
かろうじて水だけは口にすることができたが、子どもの食事などをどのようにしていたのか全く記憶にない。
受験時期、放り出したままで申し訳なかったな。
続きは、また。
今は毎月海外と日本を行ったり来たりしながら仕事をするくらい、誰よりも元気。
闘病中のみなさんも気落ちせずに、ね。