見出し画像

はじまり の はじまり~その参~



わたしの状況を
娘や息子には
泣きながらでも
伝えることができた。

でも
両親に伝えることは
想像するだけで泣いてしまう。


泣いてしまうのならば
伝えられない、
と思った。


子どもの前では
普通に泣けるけど、
親には
泣く姿を見せるのが
あまり得意じゃない。


いつも
我慢して
あたまがいたくなる。


泣くのを我慢するのは
両親に
心配をかけたくないから。


そして
泣き虫のわたしを見せて
嫌われたくないから。


べつに両親は
泣いているわたしを
嫌ったことは
ないのだと思う。

泣いて
怒られた覚えもない。


でも
わたしが泣くと
心配をかけてしまう。
困らせてしまう。

困らせるわたしは
だめだ、

勝手に
思いこんでいたのだろう。


アタマは勝手に
思いこみを作り上げ
あたかもそれが
「真実」かのように見せては
わたしが嫌われて
傷つかないように
警笛を鳴らす。


それでも
今回は
どんなに警笛を鳴らされようとも
泣かずにはいられないだろう。

なんせ
感情のコントロールが
ほとんどと言っていいほど
できなくなっているのだ。

そう思うと
気が重くて
伝えるのを
躊躇してしまっていた。


息子に
「ふたりにはもう伝えたの?」
ときかれ
「まだだよ」
「だって伝えようとすると
 泣けてくるんだもん」
とこたえると

「いやいや真っ先に話さないかんでしょ」
と言われ、
伝えることにした。


泣かずにいられないならば
泣いてしまっても 
いいじゃないか

自分に言った。

それが今のわたしならば
それを表現したら
いい。

そんなことで
嫌われるはずもないが、
もしも
わたしのあるがままの姿を
嫌う人がいるならば
それはそれで
しかたのないことだよね、
とふんわり感じた。

だって
人間だもの。

親だって
人間だもの。

好き嫌いだってあるよね。


だいすきなひとに
嫌われたら
わたしは
とても悲しいけれど、
相手が何を思うかは
相手の自由なのだから。

それが
たとえ親でも。

それが
たとえわが子でも。


・・・・・


わたしたちは
だれのことも
コントロールできないし
する必要もない。

そして同時に
真実かどうかわからないもの
(たとえば思いこみ)に
いつまでも
とらわれている必要もないのだ。


そこから一歩踏み出して
いよいよ
「真実」を
真正面から見てみるといい。

そんなふうに
自分の内なる声が聴こえた。


・・・・・


母に電話をした。

まずは
息子に起きていることを話す。

高熱が出ていることなどを話すと
「えーーーー!!」
と驚いて、
電話の向こう側で父に伝えている。

2人して
「ああでもない、こうでもない」
とさまざまな情報を伝えてくれる。

ほーほーなるほど。

普段
新聞やニュースを
ほとんど見ないわたしでは
知り得ない情報を
彼らは伝えてくれる。
ありがたい。


そんなやりとりをしてから、
「あ、そういえば、
 わたし、
 今度〇〇大学病院 
 受診することになったから」

ついでのように伝えた。


「えー?なんで?」
ときかれ
「実は…」
と話す。


話しながら
涙声になってくる。


「あんた、大丈夫かん?」(←三河弁)
「ショックだったでしょう」
の母の声に
涙腺崩壊。


あーあ 泣いちゃったよ…

しかたないね…

なんて、
静かに観ているわたしを
感じながら

「もう なにもかもを
 素直に表現して
 生きるしかないな」

ぼんやり思っていた。

・・・・・


そして

母は

相変わらず

やさしかった。


画像1


わたしのなかに

「やさしさ」
というものがあるのならば

それは
両親から
うけついだものなのだと、
気づかされた。


気づくのが
ずいぶん遅くなったけれど。


わたしにみえた「真実」は

「思いこみ」とは
似ても似つかないものだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?