文科省の迷走から学ぶ 日本人の西洋コンプレックス

はじめに

筆者が自己満足で書いた文章です。政治的な話ではございません。その点にご留意。あと、主語が大きいです。

1.西洋コンプレックスとは

こんな、なんかの左翼系アフィリエイトにありそうなタイトルを書いてしまったからには、定義をしておくというのが筋だろう。
日本人は、70年前の敗戦以来、何かしらの面で、西洋に対して劣等感を抱いている。これはたぶん普通に生きてても感じ取れるのではないだろうか?
例えば、普段の話の中で、「外国」と出たら、それはアフリカを指すことはまず無い。「海外行ってきたわー」と友達から聞いたら、「アメリカ?それともイギリス?ドイツ?」と見事に欧米諸国を思い描く人が80%と言っても過言ではないだろう(残りの20%は東アジア)。
「コンゴ民主共和国」を思う人は一人もいないと、1000ペリカをかけてもいい、断言できる。
他にも、日本は人権後進国という話を多々聞くが、それは西洋諸国と対比しての言葉だろう。
このように、我々は、多分、外国と聞くと西洋を思い描くのである。

2.そのようになった理由

ではなぜそのようになったのか、理由は一つ。
日本における近代化とは、西洋化と同値だからだ。
ペリーさんが来日して以来、日本は急ピッチで近代化を進めてきた。近代化をするというが、西洋以外で最初に近代化が始まったのは日本なので、西洋を模倣するしかなかったのだ。例えば、東南アジアとかは、比較的後から近代化したので、別に西洋化しなくても、ルックイーストすればよい。ただ、日本はそうはいかない。
日本が近代化しなければならなかった理由はすぐわかる。お隣の今まで東アジアの覇権を握っていた国が、ボッコボコのメッタメタにやられたら、そんなの今までの体制を保っていられるわけがない。そのため、日本は「革命」とも言える、明治維新をすすめ、見事に封建主義的社会から、近代社会へと変動した。
つまり、近代日本は西洋しか見てこなかったわけである。それが、遺伝子レベルで刻み込まれてしまったため(要出典)、現代に生きる我々にも、それが引き継がれてしまったのだ。

3.ヨンギノーという幻想

幻想なのである。何が。日本における英語教育全てが。
日本における、英語教育は6年(近々もっと伸びる)ぐらいか。なのに、まともにしゃべれる人は少ない。私もその一人だ。道に迷っている外国人に声をかけられようものなら、恐怖のあまり失禁してしまうだろう(しません)。
「近々もっと伸びる」というのは、どうやら小学校から英語教育を施すらしい。

バカか?
小学生なんて、まともに日本語すら喋れないのに、英語が喋れるわけがあろうか、いや無い。私が小学校のころなんて、鼻水たらしながら、ゲームに全力を注いでいた記憶しかないぞ。

文科省は何を血迷ってしまったのだろうか。これでは、わたくし、鴨脚ことはが官僚になった方が5,000兆倍マシではないか?

ご存知の通り、文科省は今、入試改革を行おうとしている。英語で言えば、四技能能力を見るため、民間試験の活用を喧伝して回っている。
気に食わないのは、英検が文科省の天下り先であることとか、色々あるが、一番の問題は4技能能力を測ることだ。
なんでや、別にそこに関しては、異論はないやろ、という方々にお聞きしよう。
スピーキングができることと、リーディングができる事、どちらが大切だろうか。もちろん、全部できるのが一番いいけど、多分これはリーディングに軍配が上がる。少なくとも、私はそう思う。
大学生の本業はなんだ?
淫らな夜に明け暮れることか?違う。
あのマッチョの留学生よろしく、ホームステイ先で、親子の中にホームステイすることか?違う。
論文を読むことだろう。多分、外国人と話す機会より、圧倒的に、英語で書かれた論文を読むことの方が多い。
スピーキングなんてものは、外資系に努めるとか、営業で世界を飛び回る人が、社会人になってから励めばいいのだ。

と、今までSとRの、大学在学中の優先度の話をしてきた。が、これは間違っている。もう一度言おう、この議論は間違っている。

そもそも、言語というものをRとかLとかSとかWとかに分けて考えるのが間違いなのだ。ソシュールも天国で泣いている。
仮に「4技能」というものがあるならば、言語というのは、それらが有機的に結びついて、成り立っている。どれか一つの要素を、抜き出して語るということはできない。
4技能それぞれを、個別に対策して、TOEFLのスコアを上げて何の意味があろうか。英語という言語スキルを磨くと、勝手に4技能スキルも上がっていくのではないだろうか。因果が間違っているのだ。

4.文科省の迷走

文科省の迷走は、何も英語の議論だけにとどまらない。1990年より始まった現行センターを廃止して、「新共通テスト」なるものへと変更しようとしている。
知っている人も多いであろうが、センター試験は、「共通一次」というものから移行した。その時と今回はの移行は、何が違うのか説明しよう。

世は1970年代にさかのぼる。当時は受験地獄。難問奇問が、バンバン国立大で出題され、受験生は喘いでいた。
当然この状況は、何とかしなければならないので、共通テストを作ろうということになった。そして、作られた「共通一次」。
いろいろやらかしてしまって(最終年では、数学Ⅰにおいて、正解が無限に発生した)、受験地獄の緩和を目指した試験が、逆に新たな受験地獄を生み出してしまったのだ。
つまり、共通一次からセンターへの移行は、世間の批判を避けるため、そして受験の正常化のための、必然なる移行だったのだ。

では、今回のセンターから新共通テストへの移行は何が違うのか。そもそも、センター試験への悪評を聞いたことがあるだろうか。国語において満点者が出ないだとか、難化が極端すぎるとかいろいろあるが、制度そのものへの悪評は、少なくとも私は聞いたことがない。
ではなぜ移行することになってしまったのか。日本の学力低下が著しいことを、「思考力」にしてしまったからだ。
よく学力低下の文脈で「ゆとり世代」と揶揄されるが、困った話である。お偉いさんが勝手に決めたのに、いざ問題点が発覚すると、学生に責任転嫁する。風評被害も甚だしい。
それは置いといてだ。センターは廃止の前提として、「思考力が問えない」というものがある。

寝言は寝てから言え。
センター試験で思考力はきちんと問える。今、センター廃止派へと舵を切っている、おじさんおばさんらは、共通一次世代の人たちだ。お前らの時代の尺度で、モノを測るな。
というか、そもそもセンター試験で、思考力をテストする必要がない。二次試験でそれを問えばよいのだ。

共通一次から続く現行センターは、もともと国立大だけのものだった。なのに、何故だか知らんが、私立大学がセンター利用という入試方式を開始して、今では新共通テスト企画委員会の中に入り込むまでになってしまった(O大学、W大学など)。センターを廃止するのではなく、セン利を廃止して、二次試験を全員に課せば良いだけなのだ。

5.思考力と西洋コンプレックス

さて、文句ばっかり流してきたが、ここにも西洋コンプレックスが絡んでいると、私は考える。

世界における、大学ランキングで、日本の大学は圏外だ。この世界の大学ランキングという物自体、眉唾物だが、実際問題、研究成果は北京大学などの遥かに下を行っているだろう。

文科省のおじさんたちは、これを危険視している。
資源も土地もない小国、日本が、列強やGDP上位国として君臨してきたのは、まず間違いなく、研究の精度の良さと言ってよい。
それが今では、iPS細胞ですら、研究費用を削られようとしているのだ、これは素人目に見ても、マズい。

つまり、知識一辺倒の教育ではなく、科学的「思考力」を育てる教育へと、路線変更しなければならない。これは、全員が納得できる。当然の結果だ。

しかーし、それを我々に共通試験として課す必要は、全く無い。テストという、アウトプットの中で科学的「思考力」を養うのではなく、普段からの授業や実験んで思考力を育めるような、教育カリキュラムをお偉いさんたちが作ればいいのだ。日本の、西洋に対しての研究者不足の責任を、我々が取る必要はない。

そして、4技能という名の幻想を我々に一方的に押し付ける必要も全くない。

明治維新から150年たった今でも、西洋諸国に行ったときに恥ずかしいから、西洋諸国に対して研究の成果が出ないから、というような西洋コンプレックスが、我々の体に染みついている。

話の着地点が微妙だが、タイピングに飽きたので、これにて筆をおかせてもらう。


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