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トンチンカンな答えを、正してはいけない?

なかなか、最後の1行に皮肉が込められた記事です。
是非、最後までご一読ください。

ごんぎつねは愛着のある教材で、私も以前、教材観を綴りました。

今回考察したいのは、ごんぎつねの解釈ではなく。
〈小学生の国語ぐらい誘導せずに色々な解釈があってもいいと思う〉
〈感想文に正解など無いです、国語嫌いになっちゃう指導の仕方だなぁ〉
〈失礼ながら、先生のほうが凝り固まったつまらない発想だと思いました〉
〈先生の意見と違うからといって、誤答とは限りません〉
と反応した方々の、思考についてです。
流行りのオープンエンド。この方々を仮に、「オープン万歳勢」と呼ばせていただきます。

「個人の感じ方は自由。他人にとやかく言われたくない。」
という考え。間違ってはいないです。
ただ、正しくもありません。その延長線上に、シンパシーとエンパシーの否定があるからです。

あきらかに筆者の意図と違う、誤った読み取り。それすらも自由ならば、そもそも学習の意味がありません。
Aの人物の発言を、Bの人物が真逆に捉えて、それすら個人の自由だと言われれば、つながりは築けません。それでは社会生活が立ち行かない。
だから、ある程度は意図をくみ取れるように、国語の学びはあるのです。

「個人の勝手」とは、つまり変化の否定。
誰の指図も受けたくないし、自分の考えを変える気もない。
より良い考えも行動もとるつもりがない。
そこにあるのは、排他的な自尊心だけです。

上記の記事のノート。私なら、こう書き込みます。
「君は、この答えに胸を張れますか。」
胸を張って、これしかないと出した答えなら、それはもう仕方ない。その子の11年間の人生が、そういう人生だったのですから。
でも、明らかにふざけて書いた答えや、考えもせずにふわっと書いた答えなら、そこにゆさぶりをかけるのが教師の仕事でしょう。
人の人生に爪痕を残すことを恐れたら、それはもう仕事ではないでしょう。

先日参観した、道徳の研究授業。「いこいの広場」。
舞台は、ボール禁止になっていない、猫のひたいほどの小さな公園。
主人公は幼い弟をつれて遊んでいる。ベンチではおじさんが読書。
そこへ中学生二人組がやってきてキャッチボールを始める。
「よそでやれ」というおじさん。「ボール禁止じゃないはずだし、安全には気を付けてる。」と応酬する中学生。
主人公は双方の言動に対して、どうすれば良かったかモヤモヤと考た・・・というお話しです。

クラスのN君が最初に口火を切りました。
「本なんかどこでも読めるんだから、おじさんが出ていけばいいじゃん。」クラスは討論に入ります。
ボール禁止じゃないのに中学生たちが排除されるのは変だ。
いや、おじさんがだけが排除されるのも変だ。
本はどこでも読める。じゃあ、キャッチボールだってよそでできる。
市が禁止すべきだ。いや、禁止にすべきじゃない。
喧々諤々。
その中でN君はへらへらと、だっておじさんが出ていけば解決するじゃん、を繰り返していました。自分が、公園でボールで遊びたいから。自分が、ゆずりたくないから。自分が、自分が、自分が・・・。
45分間、何も揺れませんでした。45分間、一度も「他者の靴をはいて」考えることはありませんでした。
つまり、何も学ばず、何も高まりませんでした。

きっとN君は、今後何か成長のきっかけを得られない限り、そのまま大人になるのでしょう。そして、インターネットに書き込むのでしょう。
「どんな答えも個人の自由だ。尊重しろ!」と。

そのN君の結論を間違いだと断定することも、無理に変えさせることも、誰にもできません。が、それを揺さぶるのが教育です。
おじさんにはおじさんの、思いや事情があったのかもしれない。そこに思い至るのが大人であり、思い至らせるのが授業です。
学校は、様々な意見・価値観に出会い、自分を広げ、高める場所です。
「どんな幼稚で偏狭な答えでも個人の自由だ。尊重しろ!」というのは、乱暴すぎるのではないでしょうか。

少なくとも、「ごんぎつね」を読んで。
ラストでばたりと銃を落とした兵十の気持ちを、
「しまった!殺さずにもっと利用して栗を拾わせればよかった!」
と本気で想像する子がいたら。
それは「うん、そうかもね」でスルーしてはいけないと思いますよ、「オープン万歳勢」のみなさん。



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