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通信簿は誰のため?

通信簿、あゆみ、家庭への知らせ…。名前は変われど、日本中の学校で学期末に発行されるものです。(ややこしいので、ここでは通信簿に呼称を統一します。)

その通信簿ですが、この数年で大きく変化していることをご存知でしょうか。特にこの2年間、私の勤務する自治体では、その姿も意味合いも別物に様変わりしました。
それこそ、ラブレターが水道メーターの伝票に変わるくらいに。

私は今52歳、教員として30年目を迎えました。
30年間書き続けた、この通信簿というもの。それは教員にとってそれぞれの家庭への決算報告書であり、ラブレターでした。1ヶ月以上かけて、それぞれの子に、それぞれの内容で、それぞれの先生にしか書けない味わいで、所見を書いてきました。
もちろん昔から、さらさらさらとあっさりと、可もなく不可もない所見を書く先生はいました。
でも、志ある先生は、そこに悩み、もがき、苦しんで、納得のいく表現を捻り出そうと言葉を尽くしてきました。私も例にもれず、いやそもそも欄内に納めようとする努力を放棄し、天声人語くらいの長さの所見を毎学期書いてきました。その内容や表現方法をめぐって校長と言い合ったり、同僚と読み合って「ううむ!」と唸る表現を盗んだりして。
正直苦しかった!毎学期苦しかった!評価の時期が来るのが、毎学期恐怖でした。
でも、今になって思うのです。あれが、この仕事の本分だったのだなあと。学習、生活、人間関係、ひとりひとりの全てに目を行き渡らせて、ひとりひとりを自分なりにとらえようとした。あの努力は、尊かったなあと。

私の勤務する自治体は、昨年度からT-Comp@ssという校務支援システムが導入され、通信簿が全て1学期ごとの印刷になりました。成績はテストの点数を打ち込むと自動的に出ます。何より、所見が3学期だけになりました。
何というか、まあ簡単。楽チン極まりない期末です。

ところがです。プリンターで印刷して、金庫にしまって、それからずっと悩むのです。
ひとつひとつの評定をハンコで押してた時は、押しながら考えました。
ほんとにこの子はAに値するかな、とか。
逆に、この子の頑張りにはAをあげてもいいんじゃないかな、とか。
ひとつひとつの判定に迷い、葛藤し、最後は自分で決断して責任を持つ。そういうプロセスがありました。そのプロセスを経て、自分なりに納得できる通信簿を手渡ししていたのです。
そのプロセス抜きで、プリンターであっという間にバンバン刷った通信簿。自分は、本当にこれを、胸はって渡せるのだろうか、と。
我々教員が、あんなにすったもんだ議論してぶつかり合って、魂込めて作ってきた「通信簿」という文化を、こんなにファストでイージーなものに変えてしまっていいのか。
これをもらって、誰に、何が伝わるのか。
誰のための仕事なのか。
ずっとずっと、モヤモヤしているのです。
これじゃ、水道メーターの伝票と変わらないだろう、と。

わかっています。こんなのは、年寄りのノスタルジーだと。
現に、この思いを周りにつぶやいても、若い先生たちはポカンとしています。内心、「そんな年寄りのノスタルジーで、せっかく楽になった業務を戻してくれるな」と思ってることでしょう。
そしてこの流れは私1人で抗えるものではなく、全国的な流れであり、私もやがて飲み込まれて、慣れて、当たり前に受け止めるようになるのでしょう。
でも。
我々教員の仕事の中で、なくして構わないものは腐るほどあるけれど。
自分に委ねられたひとりひとりの子供のことをひたすら考えるこのプロセスは、手放しちゃいけなかったんじゃないだろうか。
その思いがぬぐえません。

思えば、この「誰のための通信簿?」という流れは、もうしばらく前から進んでいました。
皆さん、日本中の公立小学校で、通信簿の評定の仕方そのものが変わったのをご存知でしょうか。「単元別」から「観点別」への変化を。

例えば5年生の算数。
以前なら、こうでした。

三角形四角形の面積→A
分数の足し算引き算→B
平均の求め方   →A

それが今ではこうです。

知識と技能    →A
思考力判断力   →B
主体性      →A

これをもらって、親は、何をどうしたらいいのでしょう。
夏休みや冬休みに、何を補えばいいのかも見えません。
そして以前は、「平均が求められるかどうか」の評価にすぎなかったものが、「思考力の有無」という人間性まるごとの評価に変わりました。「思考力→c」と評価されて、親として、何をどうすればいいのでしょう。
以前の、我々教員の心を込めた通信簿だって、言ってしまえば自己満足に過ぎません。でも、そこには暖かみと誇りがありました。
今の通信簿は、もう、誰に何を伝えるためかもわからない、冷たい自己満足に移り変わりました。

どんなに先生という仕事がホワイトになろうと、これではなおさら、魅力を自ら手放していくだけなのではないかと危惧しています。

老害の独り言です。でも、この流れがどこに行きつくのか、正直不安です。
こんな通信簿を渡すくらいなら、いっそデンマークのようになくしてしまってもいいのではないか、とも思うのです。

最後は、北欧の代表的な福祉国家として知られるデンマークの通知表です。文教大学教授の太田和敬さんによれば、デンマークの義務教育は9年間。一般的には小学校と中学校が一緒になっている学校で行なわれますが、子どもを就学させずに家庭で教育することも認められています。

もちろん児童の学力などはその都度先生らによって確認され、教育に生かされているとのことですが、じつは法律によって7年生までは試験を行なうことが禁じられており、通知表も存在しないそうです。

8年生からやっと13段階の絶対評価で、成績がつけられるようになるとのこと。ただし、それも点数化された通知表ではないのだとか。

しかし、9年間の義務教育を終える時点で、就学・家庭教育関係なく学力テストを受け、義務教育修了の認定を獲得しなければならないのだそう。つまり、試験がなくても、点数化された通知表がなくても、学びを蓄積していく必要があるわけです。

太田さんは、日本の受験体制や評価制度が、日本の子どもを「勉強嫌い」にしていると述べます。一方で、受験や評価がほとんどないデンマーク人は、国際的に見てもかなりの勉強好きなのだとか。

2019年版の「世界競争力ランキング」では、日本が30位であるのに対し、デンマークは8位。「政治汚職度調査(クリーンな政治が行なわれているかどうか)」や「生活満足度調査」においても、日本とは違いデンマークは常にトップか上位です。

評価制度がある日本の世界的な評価が低く、評価制度をおおむね排除したデンマークの世界的な評価が高い――何とも興味深く、皮肉な事実です。

下記のサイトより

長い長い独り言。お付き合いありがとうございました。


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