すくいぬし
ここに1人、「すくいぬし」という言葉に囚われた人間がいる。
きっかけは1つ、西加奈子さんの「サラバ!」を読んだことだ。ある青年の半生を描いた物語だ。
物語の詳細は割愛するが、この作品のなかで出た大事なキーワードが「すくいぬし」である。
これがただ「救い主」と書かれていたなら、私はそれ以上首を突っ込んで広辞苑を睨みつけたりはしなかっただろう。なぜ囚われてしまったのか、「すくいぬし」だったからだ。
すくいぬし、すくいぬし、妥当に考えれば「救い主」であろう。
「救い主」①すくってくれた人。
②(Saviour)キリスト教で、イエス=キリスト。救世主。(引用 広辞苑)
この意味は考えずとも分かる。救ってくれた人、はたまた神様、神様が救ってくれた、とはよく聞く言葉だ。
しかしこの言葉は「救い主」ではなく「すくいぬし」である。
「掬い主」かもしれないし「巣喰い主」かもしれないし「援い主」かもしれないし「済い主」かもしれない。
更に中心に宗教、神様を据えると
神様に救われた
神様に掬われた
神様に巣喰われた
と、どうもひとつの事象を様々な角度から見ているような、そんな感覚に襲われる。
ここで、具体的に示すと
ある人は神に「救われた」と思っている。窮地から助けてくれた。救世主。しかし、それは神様が仕組んだこと。神様に足元を掬われ、転んだところに笑顔で近付いてきたのかもしれない。立派な詐欺だ。更に救われた本人は救われたことで神様妄信してしまう。さも神様に「巣喰われた」よう。
そんな1つの陳腐な短編が出来そうである。
くだらない深夜の独り言だ。ずっと誰かに言いたかったけどこんな厨二臭いことは人には言えない。この駄文が誰かの目に留まったらいいと思うし、触れられなくてもいい。
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