Fondaさんのこと。
「先生(東洋さんは僕のことをこう呼ぶ)、今度のライブにBJってバンドが出てくれるっていうんでよろしくお願いします。」
今からもう20年以上前のことですが、当時僕は大塚東洋さんのお店「串焼き輝ちゃん」で、「おいちゃんアコースティックルネッサンス」というライブイベントを毎月音響兼出演者として手伝っていました。今でこそ大分市内にはライブスペース的なものは増えすぎて演者の売り手市場になっている感さえありますが、当時はアコースティックでやれるところはほとんどなく、ないなら自分でやるわ的に大塚さんがお店でライブを始めて。ここで大塚さんと作ったCDをはじめ、本当にいろんな経験をさせてもらって、さらに実に多彩な、プロアマはもちろん、果てはギタービルダーに至るまでいろんな人と引き合わせてもらったのです。
当日お店に行くと、いつもお店で会う人たちとは少し…というかかなり(笑)雰囲気の違うおふたりが。イメージで言えばブランキーのメンバーがかぐや姫のコンサートに来た感じ(個人の見解です)。アコギ二本で、オリジナルを、それもとても印象に残る歌詞のオリジナルを歌う、それがBJのおふたりでした。
あの頃はmixi。こないだはどうも的にやりとりするようになって以来、僕は長いこと山元さんのことを本田さんだと思っていました。ハンドルネームがFondaさんだったから^ ^。
その後しばらくして、いわゆるロックなお店で出会った時にはマーシャルとニールヤングな黒いレスポールで爆音な感じで^ ^対バンになったことはあったかなあ?FondaさんはBJだったり、他のバンドだったりで演奏を一時期よく聴いていた気がします。まあ彼を知っている人はみんなそう言うんじゃないかと思いますけど、最初恐い人なのかなあと見せかけてものすごく優しくて人懐っこいその落差にやられる感じ。
3月、彼の訃報を聞いた時には信じられませんでした。彼のお店、Free Wayに出入りしている友人のハーレー乗りに慌てて電話したら「そうなんよ、ちょっと前から悪いっていうのを聞いてた」って。僕はもう何年も彼とは会っていなかったからSNSで様子を知るくらいでしたが、自分よりも年下の彼の訃報はやはりショックで。
彼がなぜ「Fonda」なのか聞かないままだったなあと、そんなことを思っていましたが。
数日前、彼のお友だちが彼の名前をタグ付けした記事がフィードに上がってきました。彼の追悼記事がバイク雑誌に掲載されているという記事でした。バイク雑誌、それもカスタマイズのマニアックな雑誌初めて買いました^ ^ヌードグラビア付きの雑誌も久しぶりだ(笑)。追悼記事は泣けました。Fondaさんの人柄が偲ばれる温かい記事でした。
そうか、そういう意味だったのか。言われてみればすぐに思い当たるけど、会って話してる時はなんかどうでもいい気がして聞かずじまいだったんですよね。僕はバンドマンとしてのFondaさんしか知らず、一方僕の友だちはバイクショップでの彼しか知らず、人ってそういうものなんでしょうけど、改めて人の縁というかそういうものの不思議な巡り合わせみたいなものを感じます。
なぜ彼のことを書こうと思ったか。それは僕にとって彼はとても大きな意味を持つ人だからです。
冒頭の輝ちゃんでのライブでのこと。ライブの途中、突然彼が「大塚さんのオリジナルをコピーしました!」と言って「七瀬川」という曲を弾き始めて。この曲は僕がアレンジした曲で、つまり彼は僕のオリジナルフレーズをコピーしてくれた最初の人なんです。
オリジナルをやる人がみんなそう感じるかどうかはわかりませんが、僕は特に自信があって音楽をやって(続けて)いたわけではないので、この瞬間ハッとして、とても嬉しかったのをいまだに覚えています。もちろん彼は僕がアレンジしたとか知るわけもないし、大塚さんの曲だと思ってコピーしてくれたわけで、全然それでいいんだけど、あの時のことは本当に忘れられない。コピーしてくれるってこんなに嬉しいんだ。それがFondaさんとの最初で最大の思い出。
Only the good die young。Fondaさん、またいずれ会いましょう。初めてあった時みたいに「ああ、どうも」って会えそうな気がします。
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