ペース。
教員というのはしゃべるのが仕事のかなりの部分を占めていると思います。
それこそもう7、8年前だと思うけど、スガシカオがプロフェッショナルの番組の中だったか、高校教師になりたかったという話をしていて、その時に「言葉を残す」という言い方をしていたことが強く印象に残りました。この話は曲にもなっていて、「夢のゴール」という曲の歌詞にそのまま出てきます。
最近、若い人が「自己肯定感」とか「承認欲求」という言葉を口にしているのがとても嫌です。
僕らの高校生の頃にももちろんあった言葉だけど、それって保健の教科書くらいじゃなかったですか?出てくるの。
そういう気持ちって言うまでもなく、自分以外の人間を認識した瞬間からあると思います。まあ言葉の意味とか定義は使っている人によって違うでしょうから、余計に小さい言葉で内側に集まるのはどうかなと思う。野心とか野望って若者には言わせたくないですか?承認欲求を満たしたいっていうよりわかってくれる友だちを増やしたいって言う方が健全だと思いますけど、それはおかしいでしょうか?
たとえばこのブログにしたって、ある意味それにあたる行為というか活動に見えるだろうと思うんです。僕は自分の言いたいことがあるとか、情報を共有したいとか、友だちを作りたいとかそういうのがスタート地点だったけど、同じことをやっていても日本一とか世界征服とかそういうワードでやってく人もいて。人は人、って本人が思っていても、周りの空気がいつの間にかラベリングしてしまうので、弱い人は自分のやってることに自分で振り回されてしまう。だから軽々しくそういう小さい言葉を言わない方がいい。そう思うんです。イイネの数と評価なんて一致するわけない。そもそもアップロードしたくらいで自分が見てもらえるどころか褒めてもらえると思うなんてどんだけムシがいいんだか。
若手には、だから、いつもちょっと厳しめなことを言ってきました。そんなに簡単に人はあなたのことをわかってはくれない。わかって欲しければそれなりの努力をしないと伝わらない。伝わっても返してくれるとは限らない。みんな自分のことで精一杯だから。僕の言葉なんてたかが知れていますが、それでもタイミングとかその時の気持ちとかそういうので刺さってしまうことがある。ならば、願わくばそれが若手にとって「傷」ではなく「支え」であり続けて欲しいと思います。
昨日は、もう10年以上前に担当した若手に声をかけてもらって楽しい時間を過ごしました。クラス会というやつです。ひさしぶりに顔を合わせての安否確認。卒業してからの10数年が、常に順風満帆だったはずはありませんが、それでもしっかり前を向いて今を歩いている面々を目の当たりにして、あの時ちゃんと向き合っていたか?ということを改めて思わずにはいられませんでした。当然みんなが現在進行形で闘っている。そういう連中の周りには自然と人が集まる。器用な人間も不器用な人間もそれぞれペースがあるんだからそこさえ気づけば、周りを呪わずにやっていける。まあもともと絶対に僕のペースに簡単に乗ってくるような連中ではなかったんですが(笑)、大人になると、逆にそのことがとても、特に若手にとって大きなことなんじゃないかなと思います。そういう意味で、昨日も各自のペースで楽しそうでした^ ^。そんな会が終わってみれば、いちばん元気をもらったのはどうやら僕だったような気がします^ ^
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