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ベルガモット

何かいいことないかな

ため息にも似た言葉は寒空に伸びる木立の枝のように拡がった。あるいはその言葉はコーヒーから昇り立つ湯気のように拡がりはみせたが僕を温めてはくれるものではなかった。平凡な毎日だけど割と不幸でもないのにそんな言葉を呼吸している。吐いては吸い。吐いては吸い。こんなことを言っても何も変わりっこない。僕に置かれた状況も、太陽が登る方角も。いいことってなんだろう。あまりにも漠然としている。それが僕を固定概念の箱に閉じ込めているのかもしれない。その箱にも小窓くらいはあってほしいと願う。外を見なければ僕の状況は把握できない。



ほんの少し海を見に行く。微かに青い空と冷たい潮風。開いてるか閉まっているか分からない海の家。鉛色した観光用望遠鏡。100円入れてもその位置だと海しか見えない。一つとして同じ波はないだろうけど100円を課金してみても僕には波の違いはわからないし楽しめないだろう。望遠鏡は覗かなかったけど、潮騒は僕の鬱蒼とした気持ちを掃き出してくれたような気がした。



ほんの少し気分が良くなってたどり着いたショッピングモール。行き交う人達とすれ違う。慌ただしさの中に感じるほんの少し柔らかな時の流れ。年末感。一年で一番好きな時間と風景。今年は失うものが多くてなんだか満喫出来ないな。すれ違う人達の幸せな光景が理由もなく僕を締め付ける。僕は雑踏の中で、あの海で見かけた鉛色した観光用望遠鏡のようにぽつんとひとりぼっちになってしまった。いてもたってもいられなくなって必要なものだけを買って帰途に着く。



今の僕に本当に必要なもの。

無印のエッセンシャルオイル。

おやすみブレンド。



オイルを何滴かアロマポッドに垂らしてみる。ベルガモットの爽やかな香りが鉛色した僕の感情に炭酸水を注いだように弾けてゆく。目を閉じれば僕は写真でしか見たことのないイタリアのレッジョカラブリアの丘に立ち、メッシーナ海峡からの潮風に吹かれながら、あの鉛色した観光用望遠鏡を覗いている空想に浸る。海峡を隔てた向こうにシチリア島が見える。さらに眺めているとコーザ・ノストラが銃撃戦を始めていた。パンパンと渇いた銃の音がして、何発かが跳弾した。回転を伴いながら僕の方へスローモーションで流れてくる。僕の鉛色した心臓が撃ち抜かれて、黄緑色の鮮血が溢れてゆく。僕は目を閉じながら、いい香りだと思った。



「悪く思うなよ。おやすみ。」
白いボルサリーノを被った黒いスーツ姿の男が言った。

「うん、悪くないよ。」
僕は本当にそう思った。

「おやすみなさい。」

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