【小説】人欲(5/10)
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週末は実家に帰り、特に何もせず寝て過ごした。それでもたまには帰って来いという両親は奇特だと思う。わたしは大学生のときに自分がレズビアンなんだと思うと親に言った。ウチの両親は「理解のある親」になろうと努めてくれているようだが、結局七歳下の大学生の弟の悠人に期待を全振りしただけだった。正真正銘のレズビアンだとわかったが、わたしの性的指向について両親にもうこれ以上話すのはやめた。
夕飯を食べながら「お姉ちゃんはもう生きているだけでいい」という謎のことを言われた。親も親で、景雪に負けたわたしのことを案じているのかもしれないが、それに関しては悲しみよりも恨みのほうが深いなんて知ったら、我が子の浅ましい考えに嘆き悲しむだろう。
そのまま月曜日も実家で仕事をしようと思ったが、新しい企画の意見交換会は顔を合わせて行ったほうがいいという課長の声で会社の会議室で面と向かって行うことになった。渋々日曜の夜に帰宅し、月曜は出社した。
今回の参加者は営業一課のメンバーだけなので七名。きょうはただのアイディア出しだから気分が楽だ。新しいことを始めるというのは気分が上がる。取引先でもないのに本高が震えているのが分かった。だけど、彼の出すアイディアは悪くないと思う。
たとえば病院と患者のマッチングアプリ。ホームページの無い小さい規模の病院に登録を促し、利用はすべて無料。広告収入で利益を得るモデルなど。粗削りだがブラッシュアップすればいいものになりそうなものはいくつかあった。
会議を終えてオフィスに入るとなんだか空気が重かった。総務は女性三名だ。四十代の蒲池さん、わたしの同期の前沢、二年目の加瀬さん。二十席ほどあるオフィスの左側の隅に三人固まっている。彼女たちはフリーアドレスではなく固定の席だ。
前沢はわたしの顔を見るなり「松倉さん、ウェビナーの動画観ましたか?」と強い口調で叫ぶように訊いてきた。
「あ、はい。観ました」
「テストの結果送られてきてないんですけど」
動画は観た。動画を観て嫌気が差してテストを受けていないことをすっかり忘れていた。
「すみません。後でやりますね」
「お忙しいのはわかるんですけど。よろしくお願いします」
新人研修のときからそうだが、前沢はひとの気分を落とす天才だ。話すだけで気が滅入る。そのままオフィスで仕事をしようと思ったが、このまま帰宅して家で続きをすることにした。
スマホから会社の共有カレンダーを操作し、「松倉 十四時から自宅勤務」と入力した。
席に座り、ノートパソコンに向き合っていた本高の真横に立った。
「わたしこれから帰って家で仕事するね」
「あ、はい」
わたしが「お疲れ様です」と言いながらオフィスを出ると、本高が追いかけてきた。
「なに」
「オフィスの空気やばいっすね」
彼が顔を真っ青にしながら言うので「空気清浄機壊れてるんじゃないの?」と鼻で笑った。
「またまた、ご冗談を」
エレベーターホールで下行のボタンを押した。
「本高くんも帰れば?」
「そうしようかなぁ、はあ」
「ウチの総務は大変だよね。在宅勤務が許可されててもなんやかんや出社しないといけない理由があってさ。営業は逃げれるんだから」
「逃げるだなんて」
エレベーターが来ても本高がオフィスに帰る気配がなく、昼食時だったということもありそのまま定食屋に連れて行った。
本高はアジフライ定食、わたしはサバの塩焼き定食にした。
「前は在宅勤務の環境がいまほど整ってなくてほとんどのひとが出社してたからもっと前沢もピリピリしてたよね」
「そうですねぇ」
「何ピリついてるんだろ。謎」
「でも、松倉さんが取り合ってくれてぼく嬉しいです。ほかの先輩はきいてくれないですから」
「前も話したけど研修のときから仲が悪かったから。お互いもう五年目か。そんなに不満があるなら転職すればいいと思うけどきっとどこに行っても不満が出るようなタイプだからさ、もうそういうひとは起業するしかないよね」
「やっぱ仕事できるひとは言うことが違いますね」
それは違う。わたしは、自分の欠陥を自覚して生きてきたからだ。
「松倉さんって女性っぽいネチっこさがないですよね」
女性っぽいネチっこさとはなんだ。言わんとしていることはわかる。だけど、わたしが可愛がっている本高にはこういうわけのわからない形容はしないで欲しかった。
「まあ、陰険・陰湿なのは性格であって男にもいるよね。樫木とか」
わたしはつくづく同期に恵まれなかった。
「前沢さんは松倉さんが羨ましいんだと思います。同期でバリバリ業績上げてるから」
「まあ、わたしは総務の仕事できないよ。マメさがないし。適材適所っていうか、わたしに営業が向いているかはさておき、総務には向いてない。でも、そういう自分を肯定できないひとがいるっていうのもわかるよ」
えらそうに講釈垂れているが、まるで自分に言い聞かせているようだ。
「ぼくも、松倉さんを見習います」
そんなに目を爛々と輝かせないでほしい。わたしはそんな大層な人間じゃない。
景雪という仮想敵のような存在が居なければずっと頑張って来られなかった。いつまでも何かが埋まらない。欠けている。だから、他人の、女性の体が必要で、欠乏感が発生したら誰かの温度を必死で求める。わたしの欠けた部分なんて一生、埋まらないかもしれない。少しだけ茫然として、なかば諦めながら生きている。誰かが思うほどいい人間ではない。でも、褒められることは慰められること、孤独から癒してくれることだ。ときには自分以外の誰かの価値観で讃えられたいことが、わたしにもある。そんな自分の弱さを憎みきれない。
自宅で「コスモス」のアップデート提案書を書いていると先輩の村田さんの企画を元に新プロジェクトを始める旨のメールが届いた。今回はあんまりいいものが出せなかったと思い、「承知しました。微力ながら協力いたします」と返した。
わたしは失敗することは恐くない。この仕事では何がどうなってもよかったから。景雪に潰されたものを考えれば、あれ以上に落ちることはない。
それから着替えてIT企業の交流会に行った。本高は体調不良で来なかった。嘘だと思う。そしてそんな彼をわたしは責めなかった。甘やかしすぎと樫木に言われた。これだから女は、とも思っているんだろう。
会場はホテルの大宴会場で、片っ端から挨拶をする樫木の後をついて挨拶をした。
あるニュースサイトの大柄の男性から「御社は若くて綺麗で華やかな女性営業が居ていいですね」と言われた。
わたしは淡く笑った。
帰りに「やっぱり松倉さんいるとこういうパーティーのとき便利でいいわ」と樫木に言われた。
水洗トイレのレバーを引くように、その軽口をききながす。わたしは樫木の無神経が特別とも思わない。どんなに動画教材でダイバーシティを学ぶよう会社が促進しても、知識を入れたとしても、遺伝子レベルで考えを矯正しないといけない人間は多いだろう。ニュースを見ても「なぜそんなばかなことを」という失言をし、地位を失うひとのことを何人か知っている。
気にしないふりをしても、やっぱり気分が落ちる。自分が頑丈にできていないことを自覚するのがしんどい。レズビアン風俗に予約を入れた。気分がいいときにレズビアン風俗を利用することはほとんどない。つまり、気分が落ちたからレズビアン風俗に行く、レズビアン風俗に行くと世界が輝いて見えるようになるという思考の流れになっている。あんまり上手にイケない日でも、誰かと触れ合えればそれでよかった。自分の体で、誰かの体温を感じることが幸せだった。
ホテルの前で樫木と別れ、わたしは銀座から有楽町駅まで歩いた。品川・渋谷方面の山手線に乗り、きょうは「アイ 二十五歳」を予約した。
いつものラブホテルを予約し、アイを待った。この前女性用風俗を利用した際、このホテルを指定しなくてほんとうによかったと思った。勝手がわかっているのでまるで自宅のような安心感がある。ここに嫌な思い出を刻みたくなかった。
インターホンが鳴り、扉を開けた。
「はじめまして、アイです。きょうはよろしくお願いします」
真っ黒なショートボブのヘアスタイル。二重瞼の瞳も、小高い鼻も、きっとどこかで見たことがある。だけど、すべてがいままで出会った女性と違った。
わたしはあんまり、他人を「好き」と思えないのだった。これも景雪のせいだとわたしは思っている。
いままで辞めたひとも含めて東京に存在する数少ないレズビアン風俗嬢と出会ってきたわたしだが、恋人にしたいと思ったことはない。わたしは恋人が欲しいわけじゃなかったから、恋人をつくるためにマッチングアプリを使用したり、レズビアンの集う場に行ったりするようなことはしなかった。
相手に自分の時間を取られたり、他人のために何かをしたりと、そういう生き方がわたしにはできないと思った。だから、気軽にひと肌を触れ合わせて、お金が間に入ってくれるおかげで面倒ごとが生まれないレズビアン風俗は、わたしにとっては好都合だった。
容姿端麗なひとはいたし、このひとと居ると自分の人生の淀みがなくなるんじゃないかだなんて期待してしまうような性格の聖人も居た。でも、それらすべて、間にお金があったから成り立つ関係だとはっきりと理解していた。
でも、この子はなんだろう。
アイが不思議そうにわたしを見つめ、瞬きしている。
目が好きなのだと思う。目の形というより、視線。彼女から送られてくる見えない光のようなもの。
「ごめんね、入って」
彼女を招き入れてベッドに座り、少し話をした。
「きょうはあったかいですねぇ」と笑った。公表しているのが実年齢であればわたしより年下だが、老猫のような愛らしさがある。何も話したくないし、シャワーもしないで抱きつきたいくらいだが、ギリギリの自制心で己を保った。
心臓が激しく上下する。
アイは愛の権化。
陳腐かもしれないが、そのことばが胸に落ちてきた。
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