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2024.10.16改訂:四部(下)記紀の論理的歴史の通史概要∶4-8.645年以降の物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争い

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4-8.645年以降の物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争い

4-8-1.物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争いの概要と年表

 645年乙巳(イッシ)の変以後、新羅と同盟した渡来新勢力の「DNA匈奴金氏」である高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=第40代天武]の同盟と既存の「DNA縄文人」である物部氏同盟との覇権抗争が始まります。

渡来新勢力の高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)は、642年の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]を暗殺後、新羅・尾張氏が覇権を握る新羅金氏朝と同盟します。同盟の証として、(姉)新羅・宝姫娘主=(幼名)阿之=(推測)宝皇女(593年生~661年歿)の妹の新羅真骨正統第4代首主である(妹)額田王[=新羅・文姫娘主=新羅王妃・文明王后=(幼名)新羅・阿海=(推測)賀茂媛]
と通婚同盟します。高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)、(姉)新羅・宝姫娘主、新羅・文姫(ムニ)娘主、金春秋(603年生~661年歿)[=新羅第30代武烈王(在位:654~661年)]は、同じ新羅王族分国の金官加羅・金龍春一族です。

第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)(生年不詳~ 681年歿)が、663年の白村江の戦いに勝利し、そして、668年に三韓統一をしましたが、これは、第40代天武と新羅・尾張氏が主導したものです。更に、統一新羅と倭国を支配するのが第40代天武と新羅・尾張氏の次のステップです。これに気が付いた新羅の貴族達は、681年に新羅第30代文武王(在位:661~681年)と新羅・尾張氏を追放し、第40代天武とも同盟を解消します。
 第40代天武は、倭国・尾張氏、倭国・大伴氏、古くから倭国に居住していた「DNA源流匈奴」野族、「DNAスキタイ混血匈奴」坂族を結集しました。
 686年、第40代天武は子に殺害されますが、多分統一新羅が仕組んだ仕業です。しかし、これで、第40代天武同盟が終わるのではなく、尾張氏と「DNA匈奴」系の同盟勢力は倭国であなどれない力をもちます。

これに対し、既存勢力の物部氏側は、阿倍氏、巨勢(コセ)氏、大伴氏を入れた同盟群に、第38代天智の子の新羅和邇氏系藤原不比等を通婚同盟して入れます。

第40代天武の孫の第42代文武(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]が物部氏側の傘下に入るまで、激しい覇権争いが起こります。

 そして、701年の大宝律令後の物部宗本家第18代石上氏麻呂=物部麻呂(640年生~717年没)が704年に右大臣(704年~708年)に、708年に左大臣(708年∼717年)に就きます。708年に右腕の通婚同盟した和邇氏系藤原不比等(659年頃生~720年歿)が右大臣(708年~720年)に就きます。物部宗本家の政事統括体制が確立します。

物部宗本家第18代・左大臣石上氏麻呂(640年生~717年没)の高齢化によって、平城京遷都(710年~784年)、平安京遷都(784年~1869年)を通して右大臣藤原不比等が政事実権を握り、「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」である父系制の非政事為政者『天皇』と「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a系」である藤原氏を主軸とする父系制の政事統括者『左・右大臣』との共同為政体制に向かいます。

以下、相互に密接に関係して進んでいることを示す年譜です。

623年、淵蓋蘇文が高句麗で私通にて誕生します。母が宝皇女(589年生~661年歿)、母方および父方の祖母が額田部皇女(554年生~628年歿)、父が高句麗・高向玄理です。高向玄理は、父が第34代舒明(577年頃生~641年歿)=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)、母が額田部皇女(554年生~628年歿)です。

627年、新羅和邇氏系金善品[=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智]が、新羅で誕生します。母が宝皇女(589年生~661年歿)、父が廃位となった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の異父弟の金仇輪です。
 新羅・宝公主が、百済武王の後王妃となった時に、金善品は共に百済に移り、百済第31代義慈王の養子の第二王子・翹岐(ギョウキ)を称します。百済には、和邇氏のもう一つの拠点がありました。金善品は、「DNA匈奴金氏」である新羅王統とは「DNA種族」が違うので、身の危険があるからです。
 金仇輪の母は新羅・朴氏思道夫人[新羅第24代真興王(在位:540~576年)の王妃]=手白香皇女、母の父は新羅和邇氏の新羅王族・朴英失[=第21代雄略=重祚第24代仁賢(ジンケン)(新羅・花郎世紀)]です。
 朴英失、金仇輪、金善品[=第38代天智]の本貫は金官加羅で、新羅系和邇氏です。

640年、物部氏宗本家第18代・物部麻呂=石上氏麻呂が誕生します。父母は未詳、曾祖父は蘇我馬子です。母は、(推測)(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)(仮推測:608年生~665年歿)=間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后[(推測)=百済王妃・木恩古(百済第31代義慈王の王妃)=新羅・瑶石公主]です。
 父は物部氏宗本家第16代・蘇我蝦夷か蝦夷の弟の蘇我倉麻呂などの子が考えられます。物部宗本家第18代・石上氏麻呂(640年生~717年歿)の父は物部宗本家第15代・蘇我馬子(551年生~628年歿)[=物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)=第31代用明(ヨウメイ)]の伝承もありますが、年代からみて、蘇我馬子は曾祖父です。石上氏麻呂は、物部氏宗本家第17代・蘇我入鹿の子の世代です。

641年、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=高句麗・大陽王=第36代孝徳(コウトク)]が即位します。父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)]、母が宝皇女(593年生~661年歿)[=百済王妃・宝公主=百済王妃・沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝姫(ボヒ)娘主=(幼名)阿之=新羅王妃・涓花夫人]です。百済第30代武王(在位:600~641年)の先王妃は百済・宝公主=沙宅(サテク、倭名は中臣氏)ヨン[=新羅・宝姫(ボヒ)娘主=新羅第29代武烈王(在位∶602~661年)の新羅王妃・涓花夫人]、後王妃は百済王妃・木恩古(ウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)=間人(ハシヒト)皇女[(推測)(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)(仮推測:608年生~665年歿)=中宮皇后[(推測)=新羅・瑶石公主]]です。
 間人(ハシヒト)皇女は、父が百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明]、母が宝皇女(593年生~661年歿)です。間人(ハシヒト)皇女は、百済佐平・木氏の養女となり、百済王妃になります。 「間人(ハシヒト)」は、波斯(ハシ)人=ペルシア人と同意で、母・宝皇女は中央アジアで生まれています。

642年(蝦夷は56歳頃歿、淵蓋蘇文は19歳)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部氏宗本家第16代・第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]が「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A=重祚第40代天武]により暗殺されました。 
 日本書記は、物部(蘇我)蝦夷が645年に倭国で戦わないで翌日自死したと改ざんし、殺害者を淵蓋蘇文から中大兄皇子[=第38代天智]の責に変えています。物部(蘇我)蝦夷は倭国、三韓の覇者であり、戦わずして自死するなどありえません。
    淵蓋蘇文は、曾祖父が達頭=上宮法王=聖徳太子、祖父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明=百済第30代武王(在位:600~641年)]、父が高句麗・高向玄理、母が宝皇女です。

645年乙巳(イッシ)(中大兄皇子は18歳、淵蓋蘇文は22歳)、中大兄皇子[=第38代天智]、中臣鎌足(百済名は百済大佐平・沙宅(サテク)智積)等が高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺し、物部(蘇我)宗家が終焉したとされています。しかし、物部(蘇我)宗家は分家に継承されています。

645年、蘇我蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子である物部宗本家分家17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)が倭国政事統括者を継承します。
 蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)の娘の(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=(推測)間人(ハシヒト)皇女(仮推測:608年生~665年歿)と(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)[娘は第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)(661年生~721年歿)=新羅王妃・慈儀王后]が、次の時代の『皇后』の系譜となります。
 645年乙巳(イッシ)直後に(石上氏麻呂5歳頃)、母系(推測:祖母・宝皇女)により物部麻呂(640年生~717年歿)[=石上氏麻呂]が物部宗本家を継承します。

649年、物部宗本家分家17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)が讒言(ザンゲン)により自死します。日本書記は、蘇我倉山田石川麻呂は、645年に中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿を暗殺した際(乙巳の変)、共に計画に賛同したとしています。
 649年に、右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言(ザンゲン)され、妻子8人と共に山田寺で自害したとされています。しかし、妻子8人が共に自害は日本書記の常套記載で、生きているとみた方がよいです。

蘇我馬子の子には、継嗣の蘇我蝦夷、蝦夷没後に承継した弟の物部宗本家分家16世代・蘇我倉麻呂がいました。蘇我倉麻呂の子が物部宗本家分家17代・右大臣蘇我倉山田石川麻呂、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)が右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄がいます。
 蘇我倉山田石川麻呂の子には、次の時代の『皇后』の系譜となる(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)と(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)がいます。倭国『皇后』と新羅「王妃」とは同体で、かつ、母系制の群婚ですので、倭国側の社会的父は蘇我倉山田石川麻呂、新羅側の社会的父は新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)となります。
 また、蘇我連子の娘は、藤原不比等の嫡妻となる蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)です。

655年、高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は高句麗を出国し、親新羅の倭国亡命政権を樹立し、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)に就きます。新羅との同盟の証に、倭国『大后』は、新羅の最高血統の新羅真骨正統4代・額田王[=新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)の先王妃・文明王后]です。ただし、額田王は、新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)と第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)との伴侶時期が重複しています。第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文と新羅真骨正統4代・額田王は、単なる同盟通婚です。
 日本書記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)の不都合な出来事を隠蔽するために、『大后』額田王=(妹)新羅・文姫娘主の代わりに姉の宝皇女(593年生~661年歿)=(姉)新羅・宝姫娘主を重祚第37代斉明B宝皇女に改ざんしました。

659年、藤原不比等(659年生~720年歿)が誕生します。父は第38代天智(627年生~672年歿)、母は未詳(推測:(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=間人(ハシヒト)皇女(仮推測:608年生~665年歿)=百済王妃・木恩古(百済第31代義慈王の王妃)=中宮皇后=新羅・瑶石公主)です。

660年(天武は37歳、天智は33歳)、百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳]、百済太子・が降伏して、妻子、多くの臣下等58人が唐都・洛陽に強制連行されます。同年義慈王は唐で病死したとされています。百済第31代義慈王の百済王妃・間人(ハシヒト)皇女(665年歿)=百済王妃・木恩古(ウンゴ)=(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=間人(ハシヒト)皇女(仮推測:608年生~665年歿)=中宮皇后=新羅・瑶石公主はどうなったのでしょうか。 

660年、百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅和邇氏系金善品=第38代天智]は、一端高句麗に行きます。避難移動ではありません。百済・翹岐(ギョウキ)王子は、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)と新羅との密約を知っていたと思われます。その後、母・宝皇女と共に新羅、その後倭国に避難移動しました。

661年(母・宝皇女が68歳歿)、宝皇女が、記紀では倭国前線基地の九州筑紫で歿したとされています。因みに、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅後王妃・涓花夫人]の歿年は、伴侶の新羅第29代武烈王(在位:602~661年)と同年です。したがって、宝皇女は、新羅で歿した可能性が大きいです。宝皇女は、初の火葬とされていますが、当時火葬の慣習はなく、いわんや皇族・王族の火葬は先ずありえません。宝皇女は、新羅に本陵があると考えられます。「火葬」とされた他の例も、埋葬陵でない可能性が強いです。「火葬」は、昭和前期までの日本の埋葬形式ではありません。皇族が「火葬」の埋葬形式に変えたのであれば、日本の一般埋葬形式がその頃から変わっている筈です。歴史研究者であれば、事実を疑い、真実を追及しないのでしょうか。

新羅金氏第15世代・新羅第29代武烈王(在位:654~661年)は、実父が金官加羅・金龍樹(金龍春の兄)、継父が金官加羅・金龍春、母が新羅金氏天明公主[=額田部皇女(554年生~628年歿)]です。新羅金氏天明公主は、母が新羅・萬呼(マノ)太后[=(姉)皇太夫人・蘇我堅塩(キタシ)媛(仮推測:525年頃生)=新羅・阿陽公主]、祖母が新羅・金珍娘主=蘇我堅塩)キタシ)媛、曾祖母が新羅摂政只召(チソ)太后=尾張目子媛です。
 新羅第29代武烈王(在位:654~661年)の本陣での病気死亡は本当でしょうか?武烈王の後継は、不思議なことに、第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)です。

661年、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)=法敏殿君(626生~681年歿)が即位します。新羅・文武(ブンブ)王は、父が新羅第29代武烈王(在位:654~661年)、母が鸕野讃良皇女(後に持統天皇)です。
 第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)は新羅第30代金氏文武(ブンブ)王とは別人で、父は第40代天武(627年生~686年歿)の子の草壁皇子(662年生~689年歿)です。

663年(天武は40歳、天智は37歳)、百済王族や遺臣達と倭国は、百済復興を目指し白村江の戦いをしましたが敗れました。倭国側の勢力には、最大武力の物部氏は入っていず、また尾張氏も入っていません。主力は、伽耶と九州に根拠地をもつ大伴氏と推測されます。その後、唐は旧百済領の経営に乗り出しましたが、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられました。
 百済が白村江の戦いに敗れた時、後宮の3000人の官女が身を投げたと伝えられている落花岩の伝説がありますが、後世の作り話です。義慈王、太子・隆が降伏して捕虜となっているのに、官女が捕虜後を支えないで身投げしたりする行動パターンは、朝鮮半島の文化にはありません。高麗、李氏朝鮮の時代、女性は国のためには貢女とされるのが普通です。身投げしたとされる落花岩の場所は、河に落ちるのではなく、下の岩に当ります。人数も伝統的な誇大数字です。多数の貢女を隠蔽するための後世の儒教の作り話とみてよいです。百済王妃・間人(ハシヒト)皇女(660年歿)や宝皇女の行方を隠すための作り話でもあります。

666年、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、671年まで唐の捕虜になりました。日本書記では、淵蓋蘇文は一時中国の捕虜となったため筑紫君(=九州・倭国王)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬(推定在位:655~661/666年)と記載されています。
 
唐に捕虜中とはいえ、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(在位:655~666年)が存命であったので、中大兄皇子(=第38代天智)は、倭国『大王』に簡単に即位できませんでした。 

668年、高句麗の国都平壌は、唐と新羅の連合軍により陥落します。尾張氏外戚系新羅が三韓統一をしました。
 [架空末王]高句麗第28代宝蔵王(在位:642~668年)は唐に連行され、淵蓋蘇文が擁立した偽装高句麗王と認定され、以後唐の王族待遇を受けます。宝蔵王には倭王『大王』の称号がないことは、偽装高句麗王を裏付けています。

668年(天智は41歳)、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第38代天智(在位:668~672年)[=百済第二王子・翹岐(ギョウキ)王子=新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品]は、「DNA匈奴金氏」である第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)の唐の捕虜中を利用して、皇位を簒奪しました。天智の主なバックは、伽耶の「DNA源流鮮卑族」和邇氏、伽耶の「DNA縄文人混血呉系倭人」の中臣氏、倭国の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族ですが、尾張氏に比べまだ弱いことは、後の壬申(ジンシン)の変でも分かります。

671年(天武は48歳)、淵蓋蘇文(623年生~686年歿)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)[=大海人皇子]等4人は、同じく捕虜として連行されていた筑後国上陽咩(カミツヤメ)郡(現福岡県八女市上陽町)出身の大伴部博麻(ハカマ)が自分を「奴隷」として売ったお金で帰国します。倭国に帰国した淵蓋蘇文は大海人(オオアマ)皇子と名を変え、天智天皇の皇太弟となります。大伴氏が九州に拠点をもち、古来より伽耶で金官加羅系金氏と和邇氏と親密な関係があったことを裏付けています。
   690年に称制した第41代持統B鸕野讚良(ウノサララ)皇女(在位:690~697年)は、天皇から一般個人に向けられた愛国者を記した唯一の勅語を大伴部博麻に与えました。
 九州は借用昔氏大国朝を祖とする金官加羅国系の「DNA匈奴金氏」族の拠点地域で、筑紫君は九州・倭王の称号です。いわゆる九州王朝は、倭国末期まで続いていることになります。淵蓋蘇文が筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬の別名をもっていることは、金官加羅系であることの証しです。
 因みに、東倭国の畿内は、「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏と「DNA源流鮮卑族」和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と「DNA源流匈奴」野族の拠点地域です。

672年(不比等は13歳頃)、倭国に帰国した淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、留守中に皇位を簒奪した第38代天智(在位:668~672年)(=中大兄皇子)を1月7日京都・山科で暗殺し、その後、後継の大友皇子を滅ぼしました。第38代天智の山城行きに同行していた新羅貴族を祖とする「DNA縄文人混血呉系倭人」である中臣鎌足(614~669年)[=藤原鎌足=百済大佐平・沙宅(サテク)智積=新羅・沙吒昭明/ 紹明]は、昭和初期に発見された高槻市阿武(アブ))山古墳の遺体からこの時とみられる落馬した背骨跡とDNAが確認されています。
 日本書記は、同行していた藤原不比等の養父・中臣鎌足[=百済大佐平・沙宅(サタク)智積]は、670年に歿したと改ざんしています。大阪府高槻市奈佐原の阿武山(アブヤマ)古墳の遺体が、1934年に京都帝国大学地震観測所の地下から発見され、被葬者を藤原鎌足=中臣鎌足に比定する説が知られています。棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。1982年、遺体の全身エックス線写真の原板が地震観測所から見つかり、被葬者は京都・山科の地と考えられる腰などを骨折する大けがをしていました。Y-DNA解析もされ、非公式に「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O2a1系」が流布しています。

672年、673年の壬申(ジンシン)の変での大海人皇子=淵蓋蘇文の倭国での政権取りは、倭国の尾張氏と大伴氏の支援によるものです。
   672年(天武天皇元年)七月、壬申の変での大友皇子の最後に物部麻呂[=石上氏麻呂]だけが付き添いました。物部麻呂が、史書に最初に登場します。
    大友皇子は、明治3年第39代弘文(コウブン)天皇(在位:672~672年)と追増されました。これは、大友皇子は、藤原氏と同じ「DNA源流鮮卑族和邇氏」で、藤原不比等と同父兄弟であるからです。

673年(天武は50歳、石上氏麻呂は34歳、不比等は14歳頃)、大海人皇子[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~667年)]が、第40代天武(在位:673~686年)に復権重祚しました。

676年、新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が朝鮮半島を統一しました。主導したのは、第40代天武と新羅・尾張氏です。  
 676年(天武天皇五年)十月、大乙上(19番目の階位)物部麻呂が新羅大使に任命されます。大乙中・山背直百足が新羅小使に任命されます。翌年の677年(天武天皇六年)二月、新羅より帰国します。

678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、蘇我連子(父は蘇我倉麻呂)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻(=正室)として迎えました。和邇氏と物部宗本家・分家との通婚同盟です。

681年(天武天皇十年)十二月、物部連麻呂は、粟田臣眞人、石動神社(石上麻呂の命日に開かれた)の智徳上人と共に小錦下位に昇級します。
 
681年から第40代天武(在位:673~686年)は、「飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)」の編纂を始めました。ただし、内容は残っていません。

681年、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が歿し、新羅・尾張氏が新羅から追放され、帰化人と区別されます。新羅第30代金氏文武(ブンブ)王の海中墳陵は、新羅の創作です。
 新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)の新羅王妃・慈儀王后(661年生~721年歿)は、新羅第30代文武王の長子の5歳で即位した新羅第31代神文(シンブン)王(在位:681年~692年、676年生)、新羅第30代文武王の第二子の5歳で即位した新羅第32代金氏孝昭(コウショウ)王(在位:692年~702年、687年生~702年歿)の事実上の摂政をします。
 三国史記新羅本記は、新羅第32代金氏孝昭(コウショウ)王(687年生~702年歿)は、新羅第31代金氏神文(シンブン)王(676年生)の長子としていますが、父が11歳の時の子となります。

686年、63歳の第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。次直廣參・石上朝臣麻呂が、法官事として誄(ルイ、しのびごと)に携わりました。
   
天武陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)は、『大后』鸕野讚良(ウノノサララ)(645年生~703年歿)と合葬されたと見られています。1235年に盗掘されましたが、第40代天武の頭骸骨と白髪と『大后』と見られる銀製骨臓器が残っていました。当時、夫婦が合葬されるのは異例のことです。百済第25代武寧王陵は、『王妃、皇夫人』の代理人との合葬でした。合葬されたのが鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(703年歿)であれば、同年の686年歿となっている筈です。合葬された『大后』は斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)の『大后』額田王(歿年不詳)とすれば、形式骨壺に理ができます。

689年、次期天皇に即位させるつもりだった草壁皇子が急死しました。草壁皇子は、父が第40代天武、母が鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)の第二皇子として662年に誕生しました。

689年頃(不比等は30歳頃)、日本書紀に不比等の名前が出る初出で、判事に任命されました。

689年、第40代天武(在位:673~686年)の称制を経た皇后・鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)が、飛鳥浄御原令を発布しました。残っていません。

689年(持統三年)九月、直廣參・石上朝臣麿が、筑紫に赴いて新城の監督などを行います。

690年(持統四年)春正月、石上朝臣麿は、称制した(女帝)第41代持統天皇鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)の即位の儀式に関わります。第40代天武の孫の第42代文武(在位:697~707年)(生年不詳)への一時繋ぎです。

<飛鳥・藤原京(694年~710年)時代>
   694年(石上氏麻呂は54歳、不比等は35歳)、第41代持統B鸕野讚良皇女が、藤原京(694年~710年)遷都をしました。藤原京(694年~710年)遷都は、「DNA匈奴金氏」である第40代天武の後裔の復権を賭けたものといえます。藤原京(694年~710年)遷都の時の『大臣』は、第28代宣化[=新羅第24代真興王(在位:540~576年)(534生~576年歿)=高句麗第23代安原王(在位:531~545年)]の直系子孫である「DNA匈奴金氏」である右大臣(690年~700年)左大臣(700年~701年)多治比島(タジヒノシマ)(624年生~701年歿)です。
 因みに、多治比島は、竹取物語に登場する、かぐや姫に求婚する貴族達の一人、石作皇子のモデルと言われています。
 小林恵子は、第40代天武と宗形徳善の娘の尼子娘との子の高市皇子(タケチノミコ)を第41代持統(ジトウ)A高市(推定在位:694~697年)とします。

696年(持統十年)十月、持統天皇の時代に直廣壹・石上朝臣麿、直廣貳・藤原朝臣不比等並五十人、の記述があります。藤原不比等が「不比等」という名前で登場するのはここが初めてです。

697年(不比等は38歳、石上氏麻呂は57歳)、第40代天武の孫の第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)が即位します。第42代文武(モンム)(在位:697~707年)と新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)(626生~681年歿)とは別人ですが、同じ名前にしたのには何か意図があるかもしれません。
 藤原不比等は、第42代文武(モンム)が即位するのに際し功績(第42代文武が物部宗本家の傘下に入ることを受け入れたことか)があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。また、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている県犬養三千代=橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、第42代文武の即位直後には娘の藤原宮子が第42代文武の『夫人』となります。

698年(不比等は39歳)、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされました。不比等の養父系である従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することとされました。

700年(文武四年)、60歳の石上氏麻呂は、「筑紫総領(博多方面の軍事総督)」に任ぜられます。同時に関東地方にゆかりのある「小野朝臣毛野」「波多朝臣牟後」「上毛野朝臣小足」達も人事を受けています。

701年(大宝元年)に制定された大宝律令により、61歳の石上氏麻呂は、中納言直大壱から正三位・大納言に進みました。藤原不比等も、正三位・大納言に進みました。

702年(大宝二年)、62歳の石上氏麻呂は、大宰府長官に相当し、博多方面のトップ職である大宰師(ダザイソチ)に就きます。

<石上朝臣麻呂政権(704年~717年)>
704年(慶雲元年)、第42代文武(在位:683~707年)により、大納言従二位石上朝臣麻呂(640年生)は、64歳の時正二位右大臣に就任しました。「益封」という褒賞2170戸が与えられる。また、大納言従二位藤原不比等は800戸が与えられる。この人事は、第42代文武が、物部宗本家の傘下に入ることを意味します。
 物部宗本家宗主の石上朝臣麻呂が、64歳で右大臣に就いたのは、非常に遅いことで、驚きです。30歳で就いても不思議ではありません。いかに第40代天武系の匈奴族、同盟者の尾張氏の権勢が強く、また、藤原不比等の大きな貢献によるものであったと考えられます。

707年、第42代文武(在位:683~707年)が歿します。
 新羅王妃・慈儀王后が、新羅から急遽日本に帰り、子の新羅王のために倭国物部宗本家の傘下に入ることで、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に即位します。第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)は、母が蘇我倉山田石川麻呂の庶子・妹娘の蘇我姪娘(メイノイラツメ)、父が第38代天智、異母兄が藤原不比等です。
 藤原宮子は、淵蓋蘇文の孫の第42代文武(モンム)(在位:697~707年)の夫人となり首(オビト)皇太子[=第45代聖武(在位:724~749年)]を生みます。母が賀茂比売[=(推測)第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)(661年生~721年歿)=阿陪皇女/阿閇皇女=新羅王妃・慈儀王后藤原宮子(生年不詳~754年歿)は、史上初めて生前に正一位に叙されると同時に、史上初めて女性で正一位に叙され、皇后でも皇太后でもなかったのに史上初の太皇太后となりました。

708年(和銅元年)1月11日、擁立した(女帝)第43代元明(ゲンメイ)により従二位石上朝臣麻呂(68歳)は、藤原不比等(49歳)と共に正二位に叙せられます。
 708年(和銅元年)3月13日、擁立した(女帝)第43代元明(ゲンメイ)により、右大臣正二位石上朝臣麻呂は長く空席であった左大臣に、不比等が後を継いで正二位右大臣に就きます。大伴宿祢安麻呂が大納言、石上政権の樹立に活躍した東国人の小野朝臣毛野、平城京長官になる東国人の阿倍朝臣宿奈麻呂[後に左大臣(645年~649年)]が中納言などに就任して石上氏麻呂を支えます。
 石上朝臣麻呂(68歳)が高齢のため、実権は藤原不比等(49歳)と傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)にあります。

<奈良時代・平城京(710~794年)>
710年(和銅三年)、和邇氏地盤がある地の平城京(710~794年)への遷都は、右大臣(708年~720年)藤原不比等の建議で、藤原不比等の傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]が行います。平城京(710~794年)から集権制単都が始まります。
 平城京(710年~794年)の初期は、藤原京はまだあり、「留守(天皇代行の長官の意)」を物部宗本家18代・左大臣(708年~717年)石上氏麻呂が務めます。

712年、古事記(最古写本1371年)が第43代元明(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に献上されました。この賞味期限の切れた古事記は、国史から外され、本居宣長が探し出すまでは陽を見ることはありませんでした。古事記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)が、皇位の継承正統性を示し、倭国統治者である「DNA縄文人」に対抗するために、継承元とする第33代推古(スイコ)B額田部皇女(554年生~628年歿)までを編纂したもので、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)に即位した直後に編纂の構想を始めたと推測されます。第40代天武の存命中に古事記の編纂が終わっている筈で、第40代天武の686年没後の30年後に編纂を開始するのは不自然なことです。また、古事記編纂から50年ないし30年後に第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されたとすることも不自然です。この古事記献上の出来事は、第40代天武後裔系勢力の政治的な意図があってのことです。

715年、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]が即位します。父は、草壁皇子(第40代天武と大后・鸕野讚良との子)、母は第43代元明(ゲンメイ)天皇(721年歿)=新羅王妃・慈儀王后です。
 712年の古事記の第43代元明(在位:707~715年)に献上の政治的意図に対処するために、第40代天武系の系譜も入っている第44代元正への政治的譲位で、第40代天武後裔系勢力との妥協です。715年頃は、和邇氏系藤原不比等が政事実権者ですが、まだ第40代天武系後裔の匈奴金氏系の勢力は相当力を持っていました。

日本書記は、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と藤原不比等が編纂責任者です。712年の古事記献上の政治的意図と第44代元正への譲位に対処するために、編纂着手されます。第44代元正(ゲンショウ)の母・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)は庶子の妹娘である蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘であるので、皇位正統性の格を示すために『皇后』継嗣系の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元として編纂したものです。鸕野讚良は本来庶子の妹でしたが、姉が早逝して継嗣となりました。これが、第44代元正と類似した境遇であったこともあります
 姉の蘇我遠智娘は『皇后』継嗣で、妹の蘇我姪娘に対し各段に格上です。父系制では長男が、母系制では長女が、権力と財産のすべての相続権を持っていました。つい最近の戦前まで、長男のもつ家督相続権は、現在では想像ができないほどの家庭内差別が公然と認められていました。

715年(物部麻呂は75歳、不比等は56歳)、和邇氏系右大臣藤原不比等が、第44代元正天皇が即位した霊亀2年(715年)に、(国体に関することなので)勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる、直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。
 つまり、藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とし、日本の国体に鮮卑族和邇氏を追加します。これは、第40代天武後裔等の匈奴系勢力の復権に対抗するためです。
 「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏は、扶余族盟主の後裔であるだけでなく、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・「禹(ウ)」の父の東夷の盟主である鯀(コン)が始祖かもしれません。新羅和邇氏の象徴神の第17代履中の別名の和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の「莵(ウ)」は、夏王朝の始祖・「禹(ウ)」が原初かもしれません。扶余国は、鮮卑族系と匈奴系の二つがあったとの説があります。鮮卑族と匈奴は、中国漢族の二代勢力です。
 「羽山(ウサン)」の由緒は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(う)の父である鯀(コン)が、東夷として追放された地の羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)にあります。東夷の後裔は、烏桓、鮮卑、契丹といった民族であるといわれています。垂仁朝の鮮卑族慕容部が、日本列島を渡来征服しないで、前燕やその後の江南地域から満州に居住拠点を置いた由縁です。つまり、「羽山」は、東夷(鮮卑族)の原郷です。

717年(養老元年)三月、物部宗本家18代・左大臣正二位石上朝臣麻呂が歿します。後継者と考えられる弔った人が、長屋王[後に、右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)]、多治比眞人三宅麻呂、上毛野朝臣廣人でした。

720年5月21日(不比等62歳)、藤原不比等が病のため、第40代天武の第六皇子の一品(皇族品位)舎人(トネリ)親王(676年生~735年歿)が急いで日本書紀を編纂完成し、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)に撰上(センジョウ)しました。30巻に添えられた系図1巻は消失しています。

720年8月3日、藤原不比等(659年生~720年没)が62歳で歿します。

<第二期奈良時代・平城京(710~794年)>
 
奈良時代の後期は、和邇氏系藤原不比等から大伴氏系県犬養三千代/橘三千代の系統を軸にして為政体制は動きます。この時期、物部宗本家・分家から『左右大臣』はでませんでした。

721年、長屋王は、右大臣(721年~724年)に就きます。長屋王は、父が第40代天武の子の太政大臣・高市皇子(長男)で、母方の祖父が第38代天智です。

724年、第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)が即位します。『皇后』は、光明皇后(701年生~760年歿)=安宿(アスカベ)媛=光明子です。光明皇后は、母が大伴氏系県犬養三千代/橘三千代、父が藤原不比等、異母姉が藤原宮子です。
 第45代聖武は、藤原不比等と石上氏麻呂の傘下に下った第42代文武の子で、県犬養三千代/橘三千代が藤原氏と組んで、娘の安宿(アスカベ)媛=光明子(701年生~760年歿)を光明皇后にするために擁立したものです。『皇后』の系譜は、伝統的な物部宗本家でもなく、統一新羅の真骨正統でもない、大伴氏系に変わります。
 県犬養三千代/橘三千代の女系は不詳にされていますが、これには何か大きな理由があります。全く『皇后』の女系継嗣の系譜に無縁な人物ができることではありません。第一位「戸売」系統の行動様式に類似しており、東国にいた後裔かもしれません。

724年、長屋王は、左大臣(724年~729年)に就きます。
729年、左大臣(724年~729年)長屋王は、藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で死にます。
 右大臣は、734年の藤原不比等の長男・藤原武智麻呂(藤原南家の祖)まで空席となります。左大臣は、737年の藤原武智麻呂(藤原南家の祖)まで空席となります。

734年、藤原不比等の長男・藤原武智麻呂(藤原南家の祖)が右大臣に就きます。
 737年、藤原武智麻呂(藤原南家の祖)が、左大臣(737年)に就きます。

738年、橘三千代の先夫との子の橘諸兄(モロエ)が、右大臣(738年~743年)に就きます。橘諸兄は、第30代敏達天皇の後裔で、父が大宰帥・美努(ミヌ)王、母が橘三千代、異父妹が光明子(光明皇后)です。藤原氏と共に橘三千代の権勢が強くなります。
 743年、橘諸兄が、左大臣(743年~756年)に就きます。

749年、第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)(701年生~756年歿)と藤原氏出身の光明皇后(701年生~760年歿)との娘の(女帝)第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)[=重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)]が即位します。(女帝)第46代孝謙(コウケン)(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)は、父が第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)(701年生~756年歿)、母が藤原氏出身の光明皇后(701年生~760年歿)で、子女はいません。史上唯一の女性皇太子となりました。第45代聖武(ショウム)(756年歿)に譲位された(女帝)第46代孝謙(在位:749年~758年)は、橘三千代の野望と藤原氏の傀儡の『女帝』です。藤原『天皇』のための前ステップです。
 749年、藤原南家・藤原豊成が右大臣(749年~757年)に就きます。藤原豊成は、左大臣・藤原武智麻呂の長男です。  

758年、第47代淳仁(ジュンニン)天皇(在位:758年~764年)が即位します。後に廃帝となりました。父が天武天皇の皇子・舎人親王、母が当麻老の娘・当麻山背、『嬪(ヒン)』が和邇氏系統の粟田諸姉(モロネ)です。第40代天武系の巻き返し『天皇』です。
 758年、藤原南家・藤原恵美押勝(エミノオシカツ)[=藤原仲麻呂]が、右大臣(758年~760年)に就きます。藤原恵美押勝は、左大臣・藤原武智麻呂の次男です。

764年、重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)(718年生~770年歿)[=(女帝)第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)]が即位します。
 764年、藤原南家・藤原豊成が、右大臣(764年~766年)に還任します。
 766年、藤原北家・藤原永手(ナガテ)が、右大臣(766年)、左大臣(766年~771年)に就きます。父は藤原不比等の二男の参議・藤原房前です。

766年、学者参謀系の吉備真備(マキビ)が、右大臣(766年~771年)に就きます。第46代孝謙の傀儡『女帝』の苦悩からでた人事です。吉備真備は、備中国下道郡付近の下道(シモツミチ)国造であった皇別氏族の出で、右衛士少尉・下道圀勝の子です。元正朝の第9次遣唐使の留学生となり、717年に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐します。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。皇太子・阿倍内親王[=(女帝)第46代孝謙(コウケン)(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)]の指導・教育にあたります。764年に70歳となった真備は、藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画し、乱鎮圧の功を挙げます。766年、重祚第48代称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で従二位右大臣へ昇進して、左大臣藤原永手と並んで太政官を領導しました。770年に称徳天皇が崩じた際には、娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、右大臣(766年)、左大臣(766年~771年)藤原永手らと白壁王(後の第49代光仁天皇)の立太子を実現しました。後継の天皇候補として第40代天武天皇の孫で、一品・長親王の子の従二位大納言文室(ブンヤ)浄三(キヨミ)(770年歿)、次いで弟の正二位大納言文室大市(オオチ)(780年歿)を推しましたが敗れました。

770年、第49代光仁(コウニン)天皇(在位:770年~781年)が即位します。光仁(コウニン)天皇は、父が天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6皇子、母が贈・太政大臣紀諸人の娘・紀橡姫です。廃『皇后』井上内親王は、母が大伴氏夫人県犬養広刀自、父が第45代聖武天皇です。

781年、第50代桓武(カンム)天皇(在位:781年~806年)が即位します。『皇后』藤原乙牟漏(オトムロ)は、父が藤原式家の藤原良継、母が阿倍粳蟲の娘・阿倍古美奈です。
 781年、藤原北家・藤原魚名(ウオナ)が、左大臣(781年~782年)に就きます。藤原魚名は、参議・藤原房前の五男です。

782年、藤原式家・藤原田麻呂(タマロ)が、右大臣(782年~783年)に就きます。藤原田麻呂は、参議・藤原宇合の五男です。
以後、略します。

物部宗本家18代・石上氏麻呂の系譜は、母が未詳の19代・中納言石上乙麻呂(750年歿)、母が未詳の20代・正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)、母が未詳の21代・従五位下主税頭石上継足(生没年は未詳)です。
 石上継足は何故か突然歴史上から消えます。石上継足は、第50代桓武天皇(在位:781~806年)に比定されます。

奈良時代(710年~794年)の天皇は、
・(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[母が蘇我姪娘、父が第38代天智]、
・(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)[母が第43代元明、実父が藤原不比等、父が草壁皇子]。
第45代聖武(ショウム)天皇(在位:724~749年)[父が第42代文武(在位:697~707年)、母が藤原宮子、皇后が光明皇后=藤原安宿(アスカベ)媛]。
・(女帝)第46代孝謙(在位:749~758年)=重祚第48代称徳(在位:764~770年)[父が第45代聖武、母が光明皇后]。
・後に廃帝となる第47代淳仁(ジュンニン)(在位:758年~764年)[父が天武天皇の皇子・舎人親王、母が当麻老の娘・当麻山背、嬪(ヒン)が和邇氏系統の粟田諸姉(モロネ)]。
第49代光仁(在位:770~781年)[父が天智天皇皇子の志貴皇子、母が紀諸人の娘の紀橡(トチ)姫、皇后が県犬養三千代の娘の井上内親王]。
第50代桓武(在位:781~806年)[実父は未詳(推測:物部宗本家19代・正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)]、母は高野新笠、皇后は藤原式家・藤原良継の娘の藤原乙牟漏(オトムロ)]です。

720年以降の政事統括者である
は、藤原氏系を多数とする四系統が政事統括者『左・右大臣』となります。「DNA縄文人」物部氏系は誰も就いていません。
・右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)長屋王[第40代天武の孫]。
・右大臣(734年~737年)藤原武智麻呂[藤原不比等の後裔系]。
・右大臣(738年~743年)左大臣(743年~756年)橘諸兄(モロエ)[県犬養三千代の先夫との子]:第46代孝謙(在位:749~758年)。
・右大臣(749年~757年、764年~766年)藤原豊成:第46代孝謙(在位:749~758年)。
・右大臣(758年~760年)藤原恵美押勝(エミノオシカツ)/藤原仲麻呂
・右大臣(766年)左大臣(766年~771年)藤原永手:第48代重祚称徳(在位:764~770年)。
・右大臣(766年~771年)吉備(キビ)真備(マキビ)[称徳上皇の学者参謀系]:第48代重祚称徳(在位:764~770年)。
・右大臣(771年~781年)大中臣清麻呂[称徳上皇の学者参謀系]:第49代光仁(在位:770~781年)。
・左大臣(781年~782年)藤原魚名[称徳上皇の学者参謀系]。

結局、唯一専権制の文化である「DNA源流鮮卑族和邇氏」の藤原氏が、『天皇』になることは日本の歴史上ありませんでした。
    唯一専権制の文化である「DNA匈奴」は、記紀で架空の『天皇』になっただけで、実際の『天皇』になることはありませんでした。
    何万年と為政体制を続けた「DNA縄文人」には、どんな力があったのでしょうか。

4-8-2.645年以降の物部氏同盟群による倭国政事統括体制

 倭国政事統括者である物部宗本家『大連』側は、642年に物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)が暗殺され、左大臣(645~649年)阿倍内麻呂と物部宗本家第16代・蘇我蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子の物部宗本家分家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が継承しました。
 645年当時では、飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)や大宝律令の位階制はまだ導入されていませんから、後世『大連』を『左・右大臣』に置き換えたものです。

649年に右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言(ザンゲン)され、妻子八人と共に山田寺で自害したとされています。日本書記は、右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂は、645年に中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿を暗殺した際(乙巳の変)、共に計画に賛同したとしています。記紀の常套記載の可能性があります。少なくとも、娘は生きています。

649年に右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が死亡した後、左大臣(649~658年)巨勢(コセ)徳多(トコタ/トクタ)、右大臣(649~651年)大伴長徳、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、蘇我倉山田石川麻呂の弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄が継承します。

倭国政事統括者である物部宗本家『大連』側の『皇后』の女系継嗣者は、額田部皇女(554年生~628年歿)、その娘の宝皇女(593年生~661年歿)、その娘の間人(ハシヒト)皇女(仮推測生年・608年~665年歿)=中宮皇后=(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)、その娘の第40代天武の先大后の(姉)大田皇女、第40代天武の後大后の(妹)鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)です。
 (姉)蘇我遠智娘は、宝皇女の娘の百済王妃・間人(ハシヒト)皇女と同一人と比定され、660年の百済滅亡、659年の父の物部宗本家16代・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の変を隠蔽するための系譜のぼかしです。
 日本書記では、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)は、父が第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)[=百済第30代武王(在位:600~641年)]、母が第35代皇極B宝皇女(593年生~661年歿)[=第37代斉明(サイメイ)B宝皇女]としていますが、百済第30代武王[先王妃は額田部皇女]の後王妃・宝皇女の子が百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳]です。したがって、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)の新羅側からみた父が第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)で、倭国側からみた父が蘇我倉山田石川麻呂であると推察されます。これは、倭国『大后』と新羅「王妃」が同体家族であり、共に母系制の群婚であることに基づきます。本居宣長が、当時は「親と言えば母だけを指す」と言ったことに対応しています。

額田部皇女(554年生~628年歿)=(推測)新羅王妃・万明公主/天明公主(555年生~?)=(推測)ペルシア王妃・マリアは、物部宗本家15代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明の第一伴侶です。額田部皇女の子は、竹田皇子(587年歿)[父は第30代敏達]、586年頃生の蘇我蝦夷[父は蘇我馬子(551年生)]、590年生まれのペルシア帝国カワード2世(在位:628年)[父は蘇我馬子=ペルシア帝国ホスロー二世(在位:590~628年)]、593年生の宝皇女[父は達頭(553年頃生)]、山背大兄王=ペルシア帝国(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)[父は達頭(553年頃生)]です。三国史記新羅本記や新羅・「花郎世紀」は、額田部皇女の伴侶の「DNA縄文人」である物部(蘇我)馬子=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=ササン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)の経歴を隠蔽するために、別人に見せかけた新羅王妃・万明公主/天明公主としたり、実際には新羅第27代善徳女王徳曼公主(在位:632~647年)の伯母であるのに妹にしたりして、隠蔽・改ざんをしています。

宝皇女(593年生~661年歿)=(姉)新羅・宝姫娘主=(幼名)阿之=新羅王妃・涓花夫人は、母が額田部皇女(554年生~628年歿)、実父が金官加羅出自の新羅金氏14世代・達頭(553年頃生~630年歿)[=上宮法王=聖徳太子]で、中央アジア生まれです。系譜上父、あるいは、新羅側からみた父は、金舒玄=第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)です。物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)の第一伴侶です。 
宝皇女(593年生~661年歿)の子は、推測生年が608年頃の蘇我入鹿[父は蘇我蝦夷(586年頃生)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)]、推測生年が610年頃の百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳(コウトク) [父は高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年、577年頃生)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]、私通の623年生まれの高句麗・淵蓋蘇文[=第37代斉明A淵蓋蘇文=第40代天武][父は高句麗・高向玄理]、627年生まれの新羅波珍飡(4等官)金善品第38代天智(テンジ)[父は新羅・金仇輪]です。

間人(ハシヒト)皇女=中宮皇后=(姉)蘇我遠智娘の女系継嗣者は、(第40代天武の先大后)(姉)大田皇女(644年生~667年歿)[父は第38代天智]、(第40代天武の後大后) (妹)鸕野讚良皇女(645年生~702年歿)=称制・第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)[父は第38代天智]です。

物部氏側は、阿倍氏、巨勢(コセ)氏、大伴氏を入れた同盟群に、新羅和邇氏系から藤原不比等を取り込みます。
 藤原不比等(659年生~720年歿)は、実父が新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品(627年生~672年歿)=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智(推定在位:668~672年)、母が(推測)(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)です。 
 (妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)の母は宝皇女(593年生~661年歿)=第35代皇極B宝皇女=百済王妃・宝公主]、姉は(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=(推測)間人(ハシヒト)皇女(仮推測:608年生~665年歿)=(推測)百済王妃・木恩古(百済第31代義慈王の王妃)=新羅・瑶石公主です。
 678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、物部宗本家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の物部宗本家第17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎え、通婚同盟します。
 藤原不比等蘇我娼子との子は、長男の南家祖・藤原武智麻呂 (680年生~737年歿) 、次男の北家祖・藤原房前(681年生~737年歿)、三男の式家祖・藤原宇合(694年生~737年歿)。四男の京家祖・藤原麻呂(695年生~737年歿)です。

その後、父母未詳とされる物部宗本家第18代・右大臣(704年~708年)左大臣(708年~717年)物部麻呂=石上氏麻呂(640年生~717年歿)が継承しています。
 石上氏麻呂の子孫は、第19代中納言・石上乙麻呂(750年歿)、第20代正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)、第21代従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)と継承され、いずれも母は未詳とされています。そして、第21代従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)が父が未詳とされる第50代桓武(在位:781~806年)(739年生~806年歿)に比定され、その後裔は現在の『天皇』まで続いています。

以上のように、「645年で蘇我宗本家は終焉」というのは、事実と違っています。

4-8-3.現在『天皇』の直祖の物部宗本家第18代・石上氏麻呂(640年生~717年歿)

 640年、物部麻呂(640年生~717年歿)[=石上氏麻呂]が誕生します。父母は、未詳とされます。曾祖父が蘇我馬子です。
   蘇我馬子の子には、継嗣の蘇我蝦夷、蝦夷没後に継承した弟の物部氏16世代・蘇我倉麻呂がいました。蘇我倉麻呂の子が物部宗本家分家17代・右大臣蘇我倉山田石川麻呂、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、同じく弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄がいます。

 642年、56歳頃の物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)が高句麗にて19歳の高句麗・淵蓋蘇文(エンガイソブン)(623年生~665年)により暗殺されます。この暗殺をそそのかした黒幕は、新羅・尾張氏かもしれません。
 645年、物部宗本家第17代・物部(蘇我)入鹿(推測:608年頃生)が(日本で)暗殺されます。母の宝皇女(589年生~661年歿)は、56歳です。その時、物部宗本家第18代・物部麻呂(640年生~717年歿)は、5歳です。

まだ石上氏麻呂(640年生まれ)が幼少のため、倭国政事統括者は、左大臣(645~649年)阿倍内麻呂、物部宗本家分家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が継承しました。

そして、尾張氏と組んだ匈奴金氏系の第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)や鮮卑族和邇氏系の第38代天智(在位:668~672年)や新羅・尾張氏が覇権を握ります。物部氏に対し、朝鮮半島はもとより倭国においても尾張氏の権勢が上回っていきます。

645年の直後に石上氏麻呂(640年生~717年歿)が物部宗本家を継承しましたが、父母が未詳とされます。そこまでして隠さないといけない石上氏麻呂の父母とは誰でしょうか。不都合な出来事と関係がある重要人物です。
   宝皇女は、593年に生まれ、661年歿しています。宝皇女の娘の間人皇女は、生年が未詳とされ、665年に歿しているとされています。
 石上氏麻呂(640年生~717年没)の母は、生年時代から推測すると、宝皇女の娘で、故意に生年未詳とされている(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=(推測)間人(ハシヒト)皇女(仮推測:608年生~665年歿)=(推測)百済王妃・木恩
古(百済第31代義慈王の王妃)=中宮皇后=新羅・瑶石公主が考えられます。また、間人皇女の父は、物部宗本家17代・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)]です。
 蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の倭(ヤマト)姫王(627年生~672年歿)=(推測)(姉)大田皇女、(妹)鸕野讚良皇女(645年生~702年歿)は、第38代天智や第40代天武の『皇后』となります。蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘達は、『皇后』となれる継嗣の系譜者です。これは、蘇我遠智娘(オチノイラツメ)が、宝皇女⇒間人皇女の『皇后』継嗣の系譜であることを示しています。 
    蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の子には、627年生まれの倭(ヤマト)姫王[父は古人大兄皇子] 、生年未詳の(姉)大田皇女[父は第38代天智]、645年生まれの(妹)鸕野讚良皇女[父は第38代天智]がおり、640年生まれの物部麻呂は時代的には矛盾しません。
   つまり、蘇我遠智娘(オチノイラツメ)は、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]の百済王妃・間人皇女に比定されます。

676年、新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が朝鮮半島を統一しました。実際主導したのは、第40代天武と新羅・尾張氏です。  
   676年(天武天皇五年)十月、大乙上(19番目の階位)物部麻呂が新羅大使に任命されます。大乙中・山背直百足が新羅小使に任命されます。翌年の677年(天武天皇六年)二月、新羅より帰国します。

678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、物部宗本家分家17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎え、物部麻呂と姻戚関係になります。

681年(天武天皇十年)十二月、物部連麻呂は、粟田臣眞人、石動神社(石上麻呂の命日に開かれた)の智徳上人と共に小錦下位に昇級します。

681年から第40代天武(在位:673~686年)は、「飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)」の編纂を始めました。ただし、内容は残っていません。

681年、第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)(626生まれ)が歿します。その後、新羅・尾張氏が新羅から新羅・貴族により追放されます。

686年、63歳の第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。次直廣參・石上朝臣麻呂が、法官事として誄(ルイ、しのびごと)に携わりました。

689年、第40代天武(在位:673~686年)の称制を経た皇后・鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)が、飛鳥浄御原令を発布しました。残っていません。

689年(持統三年)九月、直廣參・石上朝臣麿が、筑紫に赴いて新城の監督などを行います。

690年(持統四年)春正月、石上朝臣麿は、称制した(女帝)第41代持統天皇鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)の即位の儀式に関わります。

694年(石上氏麻呂は54歳、不比等は35歳)、第41代持統B鸕野讚良皇女が、藤原京(694年~710年)遷都をしました。
 藤原京(694年~710年)遷都の時の『大臣』は、第28代宣化の直系子孫である「DNA匈奴金氏」である右大臣(690年~700年)左大臣(700年~701年)多治比島(タジヒノシマ)(624年生~701年歿)です。

696年(持統十年)十月、持統天皇の時代に直廣壹・石上朝臣麿、直廣貳・藤原朝臣不比等並五十人、の記述があります。

697年(不比等は38歳、石上氏麻呂は57歳)、第40代天武の孫の第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)が即位します。
 不比等は、第42代文武(モンム)が即位するのに際し功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。また、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている県犬養三千代=橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、第42代文武の即位直後には娘の藤原宮子が第42代文武の『夫人』となります。

700年(文武四年)、60歳の石上氏麻呂は、「筑紫総領(博多方面の軍事総督)」に任ぜられます。同時に関東地方にゆかりのある「小野朝臣毛野」「波多朝臣牟後」「上毛野朝臣小足」達も人事を受けています。石上氏麻呂は、地方に遠ざけられています。

701年(大宝元年)に制定された大宝律令により、61歳の石上氏麻呂は、中納言直大壱から正三位・大納言に進みました。藤原不比等も、正三位・大納言に進みました。

701年(大宝元年)に大宝律令が制定され、位階制に移り、『大連』に相当するのは左大臣、右大臣となります。大宝律令に関連する前の法典が、養老律令で、編纂(ヘンサン)は藤原不比等(659年生~720年歿)の主導で行われました。
 701年に発布された大宝律令は、第42代文武天皇によって701年に施行され、第40代天武(686年歿)の子の刑部(オサカベ)親王/忍壁(オサカベ)皇子藤原不比等の二人が編纂しました。

702年(大宝二年)、62歳の石上氏麻呂は、大宰府長官に相当し、博多方面のトップ職である大宰師(ダザイソチ)に就きます。

704、708年、石上氏麻呂=物部麻呂/物部磨(640年生まれ)は、704年(64歳の時)に右大臣、708年(68歳の時)に左大臣となり、政権を確立します。石上氏麻呂(640年生~717年歿)と右腕で、姻戚の和邇氏系右大臣(708年~720年)藤原不比等は、二人三脚の政権運営をします。
   石上氏麻呂が704年に右大臣に就いた時は64歳の高齢で、実権は45歳の藤原不比等にありました。
 物部宗本家第18代石上氏麻呂(640年生~717年歿)が高齢まで右大臣に就けなかったことは不思議なことです。和邇氏系藤原不比等の功績が大きいです。

707年、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年、721年歿)(661年生~721年歿)[=新羅王妃・慈儀王后]が即位します。同母の兄が、藤原不比等(659年頃生~720年歿)です。

710年(和銅三年)、和邇氏地盤がある地の平城京(710~794年)への遷都は、右大臣(708年~720年)藤原不比等の建議で、藤原不比等の妹の(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]が行います。
 平城京(710年~794年)の初期は、藤原京はまだあり、「留守(天皇代行の長官の意)」を物部宗本家第18代・左大臣(708年~717年)石上氏麻呂が務めます。

712年、古事記(最古写本1371年)が第43代元明(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に献上されました。この賞味期限の切れた古事記は、国史から外され、本居宣長が探し出すまでは陽を見ることはありませんでした。古事記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)が、皇位の継承正統性を示して倭国統治者である「DNA縄文人」に対抗するために、継承元とする第33代推古(スイコ)B額田部皇女(554年生~628年歿)までを編纂したものです。第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)に即位した直後に編纂の構想を始めたと推測されます。第40代天武の存命中に古事記の編纂がほぼ終わっている筈で、第40代天武の686年没後の30年後に編纂を開始するのは不自然なことです。また、古事記編纂から30年ないし50年後に第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されたとすることも不自然です。この古事記献上の出来事は、第40代天武後裔系勢力の政治的な巻き返しの意図があってのことです。

715年、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]が即位します。父は、草壁皇子(第40代天武と大后・鸕野讚良との子)、母は第43代元明(ゲンメイ)天皇(721年歿)=新羅王妃・慈儀王后です。
 712年の古事記の第43代元明(在位:707~715年)に献上の政治的意図に対処するために、第40代天武の子が父である第44代元正への政治的譲位で、第40代天武後裔系勢力との妥協です。715年頃は、和邇氏系藤原不比等が政事実権者ですが、まだ第40代天武後裔系の匈奴系勢力は相当力を持っていました。

日本書記は、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と藤原不比等が編纂責任者です。712年の古事記献上の政治的意図と第44代元正への譲位に対処するために、編纂着手されます。第44代元正(ゲンショウ)の母・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)は庶子の妹娘である蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘であるので、第44代元正(ゲンショウ)は、皇位正統性の格を上げるために、『皇后』継嗣系の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元として編纂します。鸕野讚良(ウノノサララ)は、姉が早逝したので継嗣となりますが、本来庶子の妹で、庶子系の娘である第44代元正と鸕野讚良は境遇が似ていたことも継承元とした理由でもあります。

715年(石上氏麻呂は75歳、不比等は56歳)、和邇氏系右大臣藤原不比等が、第44代元正天皇が即位した霊亀2年(715年)に、(国体に関することなので)勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる、直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。
 つまり、藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とし、日本の国体に鮮卑族和邇氏を追加します。これは、第40代天武等の匈奴系勢力の復権に対抗するためです。

717年(養老元年)三月、物部宗本家18代・左大臣正二位石上朝臣麻呂が歿します。後継者と考えられる弔った人は、長屋王[後に、右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)]、多治比眞人三宅麻呂、上毛野朝臣廣人でした。

「DNA縄文人」が倭国統括者に本格的に復帰するのは、第50代桓武天皇[=石上氏七代・従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)=(推測)山部親王(母は高野新笠)]からです。和邇氏、秦氏のバックアップがありました。

以下は、石上氏四代・物部宗本家第18代『大連』石上氏麻呂の後裔系譜です。
①石上氏四代・物部宗本家18代『大連』石上氏麻呂(640年生~717年歿)
・父母未詳。
・曾祖父:物部宗本家第15代『大連』物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)。
・(推測)祖母:宝皇女(593年生~661年歿)。
・(推測)母:間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后。
・子:従四位上・豊庭、従三位中納言・乙麻呂(三男)、東人、国盛(長女、三男藤原宇合の正妻)。

②石上氏五代:中納言・石上乙麻呂(750年歿)
 ・父:石上氏麻呂。
 ・母:未詳。
 ・妻:久米若売。
 ・子:宅嗣、息嗣

*739年、石上乙麻呂を参議に登用させないための策謀(故藤原宇合の妻で女官であった久米若売との姦通の罪)により土佐国へ、若売は下総国に流罪されます。石上乙麻呂は、恩赦され、天平15年(743年)に従四位上に叙せられます。後の西海道巡察使・常陸守・治部卿・右大弁・中務卿などを経て、天平20年(748年)に従三位参議に叙任され公卿に列します。久米 若女は、740年に大赦によって京都に召し返され、従五位、累進して従四位下となりました。

③石上氏六代:正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)
 ・父:石上乙麻呂。
 ・母:未詳[推測:故藤原宇合の妻で女官であった久米若売]。
 ・妻:未詳[推測:高野新笠]
 ・子:未詳[推測:石上継足]。
    ・弟:息嗣。
*道鏡政権時代、第49代光仁を擁立。

④石上氏七代:従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)
  =(推測)山部親王(母は高野新笠)
  =(推測)第50代桓武天皇(在位:781~806年)(739年生~806年歿)
 ・父:和史(ヤマトノフヒト)乙継(弟継)=(推測)石上宅嗣(729生~781年歿)の弟・石上息嗣。
 ・母:高野新笠。

 石上氏七代:従五位下主税頭・石上継足は、生没年は未詳とされ、突然消息が消えます。 

 和気清麻呂が、第50代桓武(在位:781~806年)(737年生~806年歿)の母・高野新笠=和史(ヤマトノフヒト)新笠(?~790年歿)の「和氏譜(ヤマトノウジフ)」を撰奏しました。高野新笠=和史(ヤマトノフヒト)新笠は、父が和史(ヤマトノフヒト)乙継(弟継)、母が土師宿禰真姝(真妹ではない)です。高野新笠の子(父は未詳)は、能登女王(能登内親王)、山部王(桓武天皇)、東大寺僧(親王禅師、早良親王)の三人です。
    和史乙継(弟継)は、石上氏六代:正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)の弟・石上息嗣と同一人と推察されます。しかし、石上宅嗣(729生まれ)と弟・石上息嗣は、第50代桓武(737年生まれ)は、二人共、父親年代が合いません。これら三人の生年は、変えられていると推測されます。
 高野新笠(?~790年歿)の祖は、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1系」である百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)(462年生~523年歿)の子の和氏(高野氏)の始祖・淳陀(ジュンダ)太子(?~513年歿)=法師君(『続日本紀』)の子孫とされていますが、正確には、淳陀(ジュンダ)太子の伴侶の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である女系の子孫です。

4-8-4.第40代天武と統一新羅、尾張氏との同盟

 朝鮮半島から倭国の政事統括者『大王』となるために渡来したのは、「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文が初めてです。高句麗物部王朝の仕返しですが、双方短命です。

高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)は、642年の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]暗殺により、物部氏のバックアップは閉ざされ、新羅・尾張氏が覇権を握る新羅金氏朝と強い同盟をします。倭国・尾張氏は近畿からは締め出されていましたが、尾張国、古志国、信濃国、東国に領国をもっていました。
 当時、淵蓋蘇文が、物部氏が倭国政事統括者である倭国の中枢地にどうして入り込むことができたのか、解明が必要なことです。淵蓋蘇文の実祖母の額田部皇女(554年生~628年歿)や実母の宝皇女(593年生~661年歿)の倭国での第一位『大后』の力は、想像以上であったと思われます。また、倭国の尾張氏の力も近畿外の周辺の古志国、尾張国、東国、等では大きな領国を支配していたので支援が得られました。

623年(天武が誕生、母・宝皇女は30歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅金氏16世代・高句麗・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~686年歿)[=第40代天武(在位:673~686年)=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬]が私通で高句麗にて誕生します。母が宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)娘主=百済後王妃・宝公主/沙宅(サテク)ヨン=新羅王妃・涓花夫人[新羅金氏15世代・新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の後王妃]、父が新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理/高向黒麻呂/高向王です。

父の高向玄理は、実父が新羅金氏14世代・達頭(553年頃生~630年歿)=上宮法王、母がペルシアから帰還した額田部皇女(554年生~628年歿)で、高句麗での子です。
 新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理の父を新羅金氏15世代・高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=金官加羅・金武力(576年頃生~641年歿)=第34代舒明の伝承がありますが、世代が合いません。第34代舒明は、義父です。

因みに、淵蓋蘇文が筑紫君薩夜麻(サチヤマ)の名をもつのは、九州筑紫は金官加羅国の庶子系領地があったことによります。また、京都・八坂神社に祀られている蘇民将来(ソミンショウライ)とは、淵蓋蘇文のことです。

532年、金官加羅国は新羅王族の分国[檐魯(タムロ)]から新羅に併合されて、独立支配権がなくなりました。新羅金氏15世代・金官加羅・金武力(577年頃生~641年歿)=第34代舒明も、統一新羅を実現した新羅金氏16世代・金庾信(ユシン)(595年生~ 673年歿)も、新羅金氏16世代・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)も、庶子系で新羅王の正統継承資格がありませんでした。

 新羅金氏15世代・新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の実父は、新羅金氏14世代・金官加羅の金龍樹(金龍春の兄)で、宝皇女(593年生~661年歿)[=百済後王妃・宝公主/沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)娘主]が新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)の後王妃・涓花夫人になったのが肯けます。

次に、627年(天智が誕生、母・宝皇女は34歳)、新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品第38代天智は、母が新羅・宝公主/宝姫娘主(593年生~661年歿)=宝皇女、父が新羅金氏14世代・新羅第25代真智(シンチ)王(在位:576~579年)の異父弟の和邇氏系金仇輪です。和邇氏系金善品は、新羅王子庶子の中でも異系統の「DNA源流鮮卑族和邇氏」であり、身の安全から百済和邇氏の拠点がある百済に母と共に移ります。因みに、新羅系和邇氏は、古代からの由緒ある血統から新羅王族待遇でした。

統一新羅の実権をもつ尾張氏と同盟した第40代天武の後継は、称制した第41代持統B鸕野讚良(ウノサララ)皇女(在位:690~697年)です。統一新羅との同盟は破綻し、鸕野讚良(ウノサララ)皇女は保護者の新羅・尾張氏を失いました。
 統一新羅の貴族達は、統一新羅の実権をもつ尾張氏と第40代天武の統一新羅乗っ取りの謀略に気が付き、統一新羅の尾張氏を統一新羅より追放しました。
 天武朝は、第40代天武(673年~686年)と『皇后』が称制した第41代持統B鸕野讃良皇女で実質終焉します。第40代天武は、後世脚色されており、在位中は尾張氏の支援が得られず、ほとんど何もできなかったという説の方が史実に合っています。それは、称制した第41代持統B鸕野讃良皇女の異常な高野山詣等にあらわれています。
 第40代天武の孫の第42代文武や(女帝)第44代元明や第45代聖武は、物部氏や藤原不比等の傘下に降っています。第40代天武の権力の継承者というよりは、倭国・尾張氏勢力の象徴的存在であります。この誤解が、後世の第40代天武の脚色と過大評価に繋がっています。
 日本列島全般に居住していた「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と「DNA源流匈奴」野族は、「DNA縄文人」と共存共生した初期からの渡来弥生人の二大勢力です。前(サキ)族は、鮮卑族和邇氏系藤原氏の同盟者であり、野族は尾張氏と同盟し、覇権抗争を度々起こします。

第40代天武の主な伴侶の子達です。
<第37代斉明B(推測在位:673年~686年)時代、母は新羅・万明皇后>
・皇后・額田王-新羅真骨正統第4代首主
  :第一皇女:十市皇女(653年頃生~678年歿)[大友皇子(第39代弘文)の妃の母]

<第37代斉明B(推測在位:673年~686年)時代>
・嬪・尼子娘-胸形徳善の娘
  :第一皇子:高市皇子(654年生~696年歿)- 長屋王の父。

<第40代天武(在位:673年~686年)時代:母は継嗣系の物部宗本家・蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=間人(ハシヒト)皇女
・先皇后・(姉)大田皇女- 天智天皇皇女
  :第二皇女:大来皇女(661年生~701年歿)-伊勢斎宮。
  :第三皇子:大津皇子(663年生~ 686年歿)-第40代天武を暗殺。
・後皇后:(妹)鸕野讃良皇女(後に持統天皇)- 天智天皇皇女
  :第二皇子:草壁皇子(662年生~689年歿) - 第42代文武・第44代元正の父。
・妃・新田部皇女 - 第38代天智の娘
  :第六皇子:舎人親王(676年生~735年歿)-日本書記編纂。 第49代淳仁の父。
· 嬪・宍人 媛娘(シシヒトノカジキイラツメ)-宍人大麻呂の娘
  :第四皇子:忍壁皇子(? - 705年) -大宝律令編纂。

4-8-5.和邇氏系藤原不比等の実権掌握

 「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」である藤原不比等は、「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である中臣鎌足の次男として生まれたとされていますが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、第38代天智の落胤(ラクイン)と実父が記されています。
 藤原不比等(659年頃生~720年歿)は、父が新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品(627年生~672年歿)[=第38代天智]、母が倭(ヤマト)姫王=(推測)(姉)大田皇女(644年生~667年歿)と推測されます。(姉)大田皇女の母は蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=瑶石公主=(推測)間人(ハシヒト)皇女(608年生~665年歿)=(推測)百済王妃・木恩古(百済第31代義慈王の王妃)=中宮皇后=新羅・瑶石公主です。 
 藤氏  (トウシ)家伝(760年に成立)は、鎌足伝、貞慧伝、史伝(消失)、武智麻呂伝より成り、史(=不比等)伝のみ消失しています。

 藤原不比等は、伽耶の熊成(クマナリ)を祖地とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏の象徴祖神の第17代履中=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の後裔です。新羅系和邇氏の藤原朝政権は、奈良時代平城京(710年~784年)と390年間続いた平安時代平城京(784年~1869年)です。

日本書記は、「DNA匈奴金氏」のみを主軸とする系譜から、「DNA源流鮮卑族和邇氏」も考慮した挿入・改竄を平安時代に行います。また、平安時代には日本各地の鮮卑族系と同盟する秦氏系の神社を軸として、神社の統治体制の整備も推進します。なお、記紀では、和邇氏には、宗主の「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」に「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」を含んでいるとして考えていく必要があります。

和邇氏は、朝鮮半島を本拠地とし、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖として、記紀には雄略朝まで君臨が記載されていました。しかし、「DNA匈奴金氏」である第26代継体以後、記紀からは突然消えました。和邇氏は、朝鮮半島に地盤を置いていたので、新羅と百済に存続していたのです。
    呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖は和邇氏で、記紀では第26代継体まで大きな影響力を持っていました。現在も和邇氏象徴神の第15代応神を祭神とし、同盟する秦氏を融合した八幡宮(宇佐八幡宮、筥崎宮、石清水八幡宮、鎌倉八幡宮、等)や住吉大社や宇治神社からもわかるように、日本の文化に大きな影響力をもっています。

678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等(659年生)は、物部宗本家分家17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎え、物部宗本家と通婚同盟をします。物部(蘇我)宗本家の血統は、女系を通して藤原氏に流れます。
 藤原不比等と嫡妻・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)の子は、長男・藤原武智麻呂(680年生~737年歿)、次男・藤原房前(681年生~737年歿)、三男・藤原宇合(694年生~737年歿)、五百重娘(子:藤原麻呂)です。藤原不比等(659年生)と通婚した蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)は、父が蘇我連子、ここでも母は未詳とされています。蘇我連子(ムラジコ)は、物部宗本家分家16代・蘇我倉麻呂/蘇我雄正の五男です。蘇我倉麻呂は、蘇我馬子の子です。つまり、蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)は、曾祖父が蘇我馬子、祖父が蘇我蝦夷です。

701年(大宝元年)に大宝律令が制定され、位階制により『大連』に相当するのは『左大臣、右大臣』となります。大宝律令依然の法典が残っていない養老律令の編纂(ヘンサン)は藤原不比等(659年生~720年歿)の主導で行われました。大宝律令は、第40代天武の庶子系皇子の刑部(オサカベ)親王/忍坂部(オサカベ)皇子/忍壁皇子(705年歿)と藤原不比等の二人が中心となり編纂し、第42代文武天皇によって701年に発布されました。

物部宗本家第18代・右大臣(704年~708年)左大臣(708年~717年)石上氏麻呂(640年生~717年歿)と右腕の和邇氏系右大臣(708年~720年)藤原不比等(659年生~720年歿)は姻戚関係となり、二人三脚の政権運営をします。石上氏麻呂が704年に右大臣(704年~708年)となった時は64歳の高齢で、実権は45歳の藤原不比等にあります。

710年、子の新羅王のために倭国に移った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年、721年歿)[=新羅王妃・慈儀王后]は、同母兄の藤原不比等の建議により和邇氏地盤の平城京(710年~784年)に遷都します。第43代元明の母は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)の庶子系の妹娘の蘇我姪娘(メイノイラツメ)です。

715年(物部麻呂は75歳、不比等は56歳)、和邇氏系右大臣藤原不比等が、第43代元明と草壁皇子との娘である第44代元正天皇(在位:715~724年)(680年生~748年歿)が即位した霊亀2年(715年)に、(国体に関することなので)勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とします。
 つまり、日本の国体に鮮卑族和邇氏を追加します。これは、第40代天武等の匈奴金氏系[注:扶余族盟主の後裔ではない]が成し遂げられなかったことです。
 「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏は、扶余族盟主の後裔であるだけでなく、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・(ウ)の父の東夷の盟主である(コン)が始祖かもしれません。新羅和邇氏の象徴神の第17代履中の別名の莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の「莵(ウ)」は、夏王朝の始祖・「禹(ウ)」が原初かもしれません。高句麗初代解(ヘ)氏東明聖王(在位:紀元前58~紀元前19年)は「DNA鮮卑族拓跋部」解氏/羽(于)氏、沸流(フツ)百済初代沸流(フル)王(在位:未詳)は「DNA鮮卑族拓跋部」真氏、沸流(フル)王の実弟の温祚(オンソ)百済初代温祚(オンソ)王(在位:紀元前18~28年、紀元前44年生まれ)は「DNA鮮卑族拓跋部」解氏です。
 「羽山(ウサン)」の由緒は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(ウ)の父である鯀(コン)が、東夷として追放された地の羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)にあります。東夷の後裔は、烏桓、鮮卑、契丹といった民族です。垂仁朝の鮮卑族慕容部が、日本列島を渡来征服しないで、前燕やその後の江南地域から満州に居住拠点を置いた由縁です。つまり、中国青島の近くの「羽山」は、東夷(鮮卑族)の原郷です。

以下は、不比等の主な妻と子です。
<嫡妻・蘇我娼子>
678年頃(不比等は19歳頃)、不比等は、蘇我連子[父は蘇我馬子の孫の蘇我倉山田石川麻呂]の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎えました。
:長男は南家祖・藤原武智麻呂 (680年生~737年歿)。
:次男は北家祖・藤原房前(681年生~737年歿)。
:三男は式家祖・藤原宇合(694年生~737年歿)。

妻が五百重娘 (藤原不比等の異母妹。第40代天武夫人)と不比等との子>
:四男の京家祖・藤原麻呂(695年生~737年歿) 。

<妻が賀茂比売 [=(推測)(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)]と不比等(659年生)との子>
:藤原宮子(683年?生~754年歿)[第42代文武天皇夫人。第45代聖武天皇の母]。  

4-8-6.物部宗本家と藤原氏の傘下に入った文武朝(42文武、43元明、44元正、45聖武)

 697年(不比等は38歳、石上氏麻呂は57歳)、藤原不比等(659年生~720年歿)は、第40代天武の庶子系孫の第42代文武(モンム)(在位:697~707年)が即位するのに際し功績がありました。第42代文武(モンム)(在位:697~707年)の妃は、藤原不比等(659年生~720年歿)と(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)(661年生~721年歿)との娘の藤原宮子(683年?生~754年歿)です。

また、藤原不比等は、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で第41代持統天皇時代の末頃に不比等と通婚関係になったと考えられている県犬養三千代橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、第42代文武の『妃』に額田王との娘の藤原宮子を送り込みます。
    藤原宮子は、第42代文武(モンム)(在位:697~707年)の夫人となり首(オビト)皇太子[=第45代聖武(在位:724~749年)]を生みます。
 しかし、母が賀茂比売[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)(661年生~721年歿)=阿陪皇女/阿閇皇女=新羅王妃・慈儀王后]の藤原宮子(683年?生~754年歿)は、史上初めて生前に正一位に叙されると同時に、史上初めて女性で正一位に叙され、皇后でも皇太后でもなかったのに史上初の太皇太后となりました。

707年、物部宗本家側の傘下に入った第42代文武(在位:683~707年)が歿します。
  新羅・慈儀王后[=(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)]は、統一新羅の幼少王を守るために707年に新羅から急きょ倭国に帰り、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に即位します。新羅・慈儀王后は、新羅第30代文武(ブンブ)王が新羅を追放された後、5歳で即位した新羅文武王の長子の新羅第31代神文(シンブン)王(在位:681年~692年、676年生)、神文王の子の5歳で即位した新羅第32代金氏孝昭(コウショウ)王(在位:692年~702年、687年生)、第31代神文王の子の新羅第33代聖徳(セイトク)王(在位:702年~737年、生年不詳)]の事実上の摂政をしていました。第43代元明は、母が蘇我宗本家分家16代右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)]の妹娘・蘇我姪娘(メイノイラツメ)、父が第38代天智、異母兄が藤原不比等です。
 (女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)は、第40代天武の路線を継ぐ後継天皇系ではなく、幼少の子の新羅王を守るために倭国に回帰します。

以上からもわかるように、統一新羅を実現した実際の主導者は、第40代天武(在位:673~686年)と新羅・尾張氏新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)です。そして、統一新羅は、興隆するどころか不安定な幼少の王権時代になります。

倭国・物部麻呂と藤原不比等の傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)の新羅・慈儀王后]は、異母兄の藤原不比等の建議によって飛鳥・藤原宮(690年~710年)から和邇氏地盤の平城京に遷都します。藤原政権の単一制国都です。

倭国・物部麻呂と藤原不比等の傘下に入った文武朝(42文武、43元明、44元正、45聖武)は、第40代天武の孫の第42代文武(在位:697~707年)が物部麻呂と藤原不比等の傘下に入り、新羅王妃であった第43代元明に継承させ、そして、第43代元明と草壁皇子[第40代天武の子]との子の(女帝)第44代元正(在位:715~724年)(680年生~748年歿)に譲位させ、更に、第42代文武(在位:697~707年)と藤原宮子との子の第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)(701年生~756年歿)に継承するという、藤原氏の傀儡皇朝です。そして、次は藤原不比等と美千代との娘・藤原光明子を光明皇后にするための皇位継承です。

したがって、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年、721年歿)、(女帝)第44代元正(在位:715~724年)(680年生~748年歿)は、第一位『天皇』でも第一位『皇后』でもある真の女帝ではありません。

次は、藤原氏『天皇』の実現であった筈ですが、実現できませんでした。藤原氏は、政事統括者に着位、藤原氏系『皇后』の輩出、和邇氏の国体の仲間入り、と着実に進み、<望月>の栄華を享受したのですが、「DNA縄文人」の『天皇』 との同位共同為政を越えて、その次の藤原氏『天皇』は今日まで成就できませんでした。何が厚い壁であったのでしょうか。

因みに、朝鮮半島は、唯一専権・覇権主義を根源文化とする鮮卑族系統の王朝が、部族系統の変更を経ながら、百済・王建[「DNA源流鮮卑族前(サキ)族、新羅昔氏」・Y-DNA「O2a2a1a1(M188, subclade-CTS201)」]が建国した高麗王朝(918年~1392年)、高麗の武将の李成桂[「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a2b(F743)」]が建国した李氏朝鮮王朝(1392年~1897年)、大韓帝国初代光武帝(1852-1919)[「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a2b(F743)」]と続きます。
 朝鮮半島の歴史は、「鮮卑族」を国体とする高句麗、百済、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国が続きます。扶余族盟主の属国を原初とする新羅は「匈奴金氏」の国体です。いずれも父系制男王の専権制の国体です。
 中国の漢族は、「DNA匈奴」と「DNA鮮卑族」が二大勢力で、父系制男王の専権制・覇権主義です。中国は、国体を堅持しない易姓革命を根源文化とする国です。現在の中国は、共産主義を国体とするも、唯一専権制・覇権主義の根源文化に変わりがありません。

4-8-7.和邇氏系藤原不比等と大伴氏系県犬養三千代の連携

県(アガタ)犬養(イヌカイ)三千代(後に橘三千代)(665年頃生~733年歿)は、父が県犬養東人、母が未詳です。県犬養三千代は、はじめ離別した第29代敏達天皇系皇親である美努(ミヌ)王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏(ムロ)女王を生みます。第43代元明天皇(在位:707~715年)(661年生~721年歿)と三千代は主従関係で、藤原不比等の栄達の陰には、第43代元明天皇の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられています。

不比等三千代が、娘・光明子正一位太皇太后・藤原宮子(683年?生~754年歿)の子の第45代聖武(在位:724~749年)(701年生~756年歿)の皇后に就かす尽力は、野望というよりは二人の祖はそれぞれ高貴な血統に起因しているのではと感じられます。当時の日本では、血統が皇位、皇后の必須条件であり、野望や覇権で就くことは皆が同意しないだけでなく、そのような考えを当事者がもちませんでした。中国とは違うのです。
  (女帝)第46代孝謙(在位:749~758年)(718年生~770年歿)が即位した時は、藤原不比等(720年歿)と橘三千代(733年歿)の 歿後です。即位できたのは、左大臣(743年~756年)橘諸兄(モロエ)[県犬養三千代の先夫との子]と右大臣(749年~757年、764年~766年)藤原豊成の尽力です。
 (女帝)第46代孝謙(在位:749~758年)(718年生~770年歿)、(女帝)第48代重祚称徳(ショウトク)(在位:764年~770年)は、第一位『女帝』ではなく、藤原氏の傀儡です。和邇氏系藤原氏は、「DNA縄文人」ではないので、いくら覇権を握っても日本統括為政者『天皇』に就く資格がありませんでした。
    橘三千代の行動様式には、第一位戸売に似たものが感じられます。東国の尾張氏に匿われていた後裔でしょうか。

この頃の『左・右大臣』は、以下のようです。物部宗本家・分家系は誰もいません。
・右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)長屋王[第40代天武の孫]:(女帝)第44代元正(在位:715~724年)の時代。
・右大臣(734年~737年)藤原武智麻呂[藤原不比等の後裔系]:第45代聖武(在位:724~749年)の時代。
・右大臣(738年~743年)左大臣(743年~756年)橘諸兄(モロエ)[県犬養三千代の先夫との子]:第45代聖武(在位:724~749年)、第46代孝謙(在位:749~758年)の時代。
・右大臣(749年~757年、764年~766年)藤原豊成:第46代孝謙(在位:749~758年)、(廃帝)第47代淳仁(在位:758年~764年)の時代。
・右大臣(758年~760年)藤原恵美押勝(エミノオシカツ)/藤原仲麻呂:(廃帝)第47代淳仁(在位:758年~764年)の時代。
・右大臣(766年)左大臣(766年~771年)藤原永手:第48代重祚称徳(在位:764~770年)の時代。
・右大臣(766年~771年)吉備(キビ)真備(マキビ)[称徳上皇の学者参謀系]:第48代重祚称徳(在位:764~770年)の時代。
・右大臣(771年~781年)大中臣清麻呂[称徳上皇の学者参謀系]:第49代光仁(在位:770~781年)の時代。
・左大臣(781年~782年)藤原魚名[称徳上皇の学者参謀系]:称徳上皇の時代。

4-8-8.平安京(784年~1869年)への一都制遷都と日本為政体制の変更

 一都制の山城国長岡京(784年~794年)を経て一都制の平安京(794年~1869年)に遷都したのは、「DNA縄文人」である第50代桓武天皇(在位:781~806年)(737年生~806年歿)です。「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」である日本統括為政者は、物部宗本家第18代・右大臣(704年~708年)左大臣(708年~717年)石上氏麻呂(640年生~717年歿)以来のことです。現在の天皇まで「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1b2a1a1a(IMS-JST022457)」のDNAは変わっていません。
 第50代桓武以降の政事統括者の主軸は藤原氏であり、『皇后』はほとんど藤原氏出身です。
 この平安時代藤原朝は、「DNA縄文人」の国体を「DNA源流鮮卑族和邇氏」に置き換えようとして結局できなかった時代です。
 倭国と平安時代を源とする日本の統治体制の変化、文化の拮抗は、日本の源流宿縁となります。倭国の母系制女系非政事為政者『大后』と父系制男系政事統括者『大連』との同位共同統治体制は、第40代天武に端を発し、その後に父系制男系の非政事為政者『天皇』父系制男系の政事統括者『左・右大臣』との共同統治体制に変化します。これは、今日まで続いています。
 しかし、第一位『大后』は、現在の日本の日常性や家庭や組織の運営の底流に続いています。また、「DNA縄文人」の文化・思想は、現在の日本人の感情・感性・行動様式の中に容易に見出すことができます。
 
日本の源流文化
は、倭国時代の「DNA縄文人」の国体だけでなく、平安時代の「DNA鮮卑族和邇氏」の大きな影響を含む解析が必要です。この拮抗と混乱が現在まで尾を引いています。その主原因は、記紀に端を発した為政者の不都合な歴史事実の隠蔽(インペイ)と改竄(カイザン)にあります。

長岡京(784年~794年)遷都は、藤原式家・参議藤原宇合の孫の藤原種継(785年暗殺される)が建議しました。長岡は、藤原種継の実家があり、地盤がある場所でもありました。

平安京(794年~1869年)は、備前国出身の和気清麻呂(733年生~799年歿)の建議により第50代桓武(在位:781~806年)が再遷都します。秦氏の全面的財政支援で行われました。

第50代桓武(在位:781~806年)は、即位にあたって不明朗な出来事があり、国史では父母共に未詳とされています。称制(一時繋ぎ)した第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(在位:690~697年)以来、氏族譜の消滅が行われ、第50代桓武の時に天皇も含め全氏族譜が完全と言って良いほど消滅されました。
 しかし、第50代桓武の賜姓(シセイ)皇族である平氏や源氏の武家や皇族降下した公家の後裔等が「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」であることから、第50代桓武は「DNA縄文人」であると結論されます。第50代桓武(737年生まれ)は、父が石上宅嗣(729生まれ)の弟・和史(ヤマトノフヒト)乙継(弟継)=石上息嗣と推測され、母が高野新笠である従五位下主税頭・石上継足=山部親王(739年生まれ)と比定されます。

「DNA縄文人」である天皇の賜姓(シセイ)皇族が、第50代桓武の孫の桓武平氏から次々と誕生します。
 1192年からの鎌倉時代から1868年の江戸時代滅亡の約676年間の政事統括者『将軍』は、「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である織田信長とY-DNA「C1a1(M8)」を説とする豊臣秀吉の30年間を除いて、[平安時代末期の桓武平氏の太政大臣平清盛]、鎌倉時代の源氏八幡太郎義家が租の源頼朝、桓武平氏の執権・北条氏、室町時代の源氏八幡太郎義家が租の足利氏、徳川時代の源氏八幡太郎義家が租を説とする徳川氏[Y-DNA「 D1b1a2b1a1(Z1504, CTS8093)」]は、「DNA縄文人」系である武家政権です。
 このように、「DNA縄文人」である天皇の賜姓氏族の平氏や源氏が父系制政事統括者『将軍』となりますが、「DNA縄文人」宗主の『天皇』になることは意外ですがありませんでした。このことは、日本固有の源流アイデンティティを暗示しています。

また、和邇氏系藤原氏で占められた上級摂家は、一部「DNA縄文人」とする天皇の賜姓皇族の後裔のY-DNA「D1a2a1系」に変わっていきます。第107代後陽成天皇(在位:1571年~1617年)の男系12世子孫の近衞文麿(1891年生〜1945年歿)、伏見宮家(1409年創設〜1947年皇籍離脱)、旧武田宮出自の竹田 恒泰(1975年生まれ)です。近衛宮と伏見宮は、五摂家です。
   1428年、伏見宮は永代宮家・世襲親王家と定められました。伏見宮は11宮家:伏見宮(1456年創始、断絶見込み]、閑院宮(1718年創始、断絶)、山階宮(1864年創始、断絶)、北白川宮(1870年創始、断絶)、梨本宮(1871年創始、断絶)、久邇宮(1875年創始)、賀陽宮(1892年創始)、東伏見宮(1903年創始、断絶)、竹田宮(1906年創始)、朝香宮(1906年創始)、東久邇宮(1906年創始)。

 父系制男王『天皇』と母系制『大后』の同位共同統治体制を変えたのは、専権制の源流文化を「DNA鮮卑族」と同様にもつ「DNA匈奴金氏」である第40代天武が原初です。奈良時代の第40代天武の血統を引き継ぐ文武朝(第42代文武、第45代聖武)の『皇后、女帝』の第43代元明、第44代元正は、もはや非政事統括者の第一位ではなく第二位の伴侶的地位になっています。『女帝』といっても外見だけで、藤原氏の代理者・傀儡(カイライ)です。その後も、藤原氏『天皇』は日本の従来勢力の圧倒的な壁に遮られて実現できませんでした。後に日本の政事を牛耳った「DNA縄文人」である『将軍』でさえ、「DNA縄文人」である『天皇』になることができませんでした。

日本の共同為政体制は維持されますが、為政者と政事統括者の父系制男系のみの日本共同為政体制は、大伴氏系県(アガタ)犬養(イヌカイ)三千代の系統の奈良時代後期の孝謙朝(第46代孝謙、第47代淳仁、重祚第48代称徳、第49代光仁)を経て、平安時代の和邇氏系藤原朝で固定化し、現在まで続いています。
 
因みに、「狗(イヌ:もともとは子犬の意)」は、第一位女王、第二位男王の春秋時代越のトーテムです。「犬」は、印欧系白人のトーテムでもあり、越の為政者は白人系ペルシア人との混血と推察されます。東胡の後裔の鮮卑族は「犬」をトーテムとし、ペルシア系白人との混血であることがわかっています。

藤原氏は、和邇氏への『国体』変更を成就することができませんでしたが、『天皇』の外戚を1500年に渡って続け、日本の源流文化に多大な影響を与えます。これが、日本および日本人に、『国体』の源流を記した記紀の隠蔽と改ざんと相まって漠然とした不安・混迷を与えることになります。

日本の文化を歴史的にみると、時代の強弱はありますが、中国・朝鮮半島・欧米の文明や文化・思想の導入に最初は新奇性で積極ですが、導入が進むとある段階で日本の根源カルチャとの乖離にストレスを感じて、復古調の時代になります。日本文化の歴史は、この繰り返しです。外来の異文化導入に抵抗感がないのは、「DNA縄文人」気質の旺盛な好奇心と創造性によるものです。外来の異文化導入は、現在までほとんどが外観だけを理解することに長けた官僚知識人による留学を通してです。本質理解は国内の異端派が行います。日常的な典型例は、日本は、いろいろな外国料理が店だけでなく家庭でも食され、外国食器も家庭に備える珍しい国です。日本人でこれが世界的に珍しいことに気付いている人が珍しい位普通のことです。外国料理店の料理人はほぼ皆日本人であり、原国にはない料理品目もあります。多くの日本人は、日本のフランス料理やイタリア料理や中国料理が、本国よりも美味しいことに異存が無い筈です。豆腐、焼き餃子、天津丼、カレーライス、味噌汁、漬け物、懐石料理、茶室、茶の文化、和服等、多岐にわたります。

鮮卑族和邇氏の源流文化は、「DNA鮮卑族」を超歴史的に国体とする韓国・朝鮮王朝と比べてもわかるように日本で本来のものから変質します。これは、和邇氏に統合された先住の「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」が「DNA縄文人」と古来から共存共栄していたことにもよると推察されます。この過程の原初が平安時代に見られる筈です。倭国と平安時代を源とする日本の統治体制の変更、文化の拮抗は日本の源流宿縁となります。

世界で孤立した「DNA縄文人」の多元性原理に基づいた復古調と「DNA鮮卑族」や中国や欧米の単元性原理に基づいた外国文化・思想の導入の繰り返しを日本の歴史にみることができます。これが、「DNA鮮卑族」の単元性原理の文化を超歴史的に基軸とする隣国との違いです。端的に言えば、多元性原理は「柔軟性(又の名は、多神信仰、共存共生、創意工夫性、持続性、質実剛健、シンプル本質追及性、等)」で、単元性原理は「クリスタル(又の名は、唯一絶対神信仰、唯一専権制、覇権・差別主義、豪華絢爛性、パイオニア精神、等)」です。

また、第一位『皇后』でなくなったとはいえ、「日本は母の国」の文化は依然日本の日常性と組織の運営に生きています。また、「DNA縄文人」の源流文化・思想は、日本人の感情・感性・行動様式の中に容易に見出すことができます。

つまり、日本の源流文化は、記紀の時代だけでなく、平安時代も含めた解析が必要となります。この混乱が現在まで尾を引いています。

日本と朝鮮半島は、連枝した第一位非政事為政者である母を共に喪失してから近くて遠い国になります。
 しかし、室町時代から江戸時代にかけた片方から行われる朝鮮通信使は、一部の政治的野心家による中国への朝貢と同じ解釈ではなく、「倭国は母の国」の超歴史的名残を原初とするもので、世界的にも稀有な慣行です。祭りが、過去の大きな出来事を原初としているのと類似しています。

日本と朝鮮は、「DNA縄文人」と「DNA鮮卑族」の異父と「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」の同母の関係と称される由縁で、両国の文化・アイデンティティの比較は関心あるところです。

現在の天皇制を倭国的に言えば、男系『天皇』と女系『皇后』は同位共同非政事為政者で、一夫一妻制に伴って、いずれかの世襲制、あるいは、長子世襲制、あるいは、長寿化による末子世襲制とする、ということになるでしょうか。

因みに、「DNA鮮卑族」は、朝鮮半島および中国でいろいろな王朝を建国しています。
 朝鮮半島の鮮卑族[「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2系」]の王朝は、高句麗拓跋氏朝(初代~第5代)、百済の拓跋氏朝および和邇氏朝(初代~第18代)、新羅昔 氏、高麗王朝(936年~1392年)、李氏朝鮮王朝(1392年~1897年)、大韓帝国(1897年~1910年)です。戦前までの朝鮮半島の王朝は、超歴史的に「鮮卑族」を国体とした、世界的に稀有な国の一つでした。
 鮮卑族系の近国王朝は箕子朝鮮(古朝鮮)、漢(紀元前206年~紀元後8年、25年~220年)、北魏(386年~535年)、前燕(337年~370年)、隋(581年~618年)、唐(618年~907年)です。
<第4部(下)以上>