見出し画像

2024.9.16<新版統合版>第四部(下1)記紀の論理的歴史の概要∶645年以降の物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争い(4-8-1)

写真:ted hym (@ted_hym) • Instagram, Taamchai: Landscape of Flowers 花の風景 (xdomain.jp)


4-8.645年以降の物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争い

4-8-1.物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争いの概要と年表

 645年乙巳(イッシ)の変以後、新羅と同盟した渡来新勢力の「DNA匈奴金氏」である高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=第40代天武]の同盟と既存の「DNA縄文人」である物部氏同盟との覇権抗争が始まります。

渡来新勢力の高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)は、642年の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]を暗殺後、新羅・尾張氏が覇権を握る新羅金氏朝と同盟します。同盟の証として、新羅真骨正統第4代首主である新羅・文姫(ムニ)[=額田王=新羅王妃・文明王后文姫]と通婚同盟します。高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)、新羅・文姫(ムニ)、金春秋(603年生~661年歿)[=新羅第30代武烈王(在位:654~661年)]は、同じ新羅王族分国の金官加羅・金龍春一族です。

第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)(生年不詳~ 681年歿)が、663年の白村江の戦いに勝利し、そして、668年に三韓統一をしましたが、これは、第40代天武と新羅・尾張氏が主導したものです。更に、統一新羅と倭国を支配するのが第40代天武と新羅・尾張氏の次のステップです。これに気が付いた新羅の貴族達は、681年に新羅第30代文武王(在位:661~681年)と尾張氏を追放し、第40代天武とも同盟を解消します。
 第40代天武は、倭国・尾張氏、倭国・大伴氏、古くから倭国に居住していた「DNA源流匈奴」野族、「DNAスキタイ混血匈奴」坂族を結集しました。
  686年に第40代天武は子に殺害されますが、多分統一新羅が仕組んだ仕業です。
  しかし、これで、第40代天武同盟が終わるのではなく、尾張氏と「DNA匈奴」系の同盟勢力は倭国であなどれない力をもちます。

これに対し、既存勢力の物部氏側は、阿倍氏、巨勢(コセ)氏、大伴氏を入れた同盟群に、第38代天智の子の新羅和邇氏系藤原不比等を通婚同盟して入れます。

第40代天武の孫の第42代文武(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]が物部氏側の傘下に入るまで、激しい覇権争いが起こります。

 そして、701年の大宝律令後の物部宗本家第18代石上氏麻呂=物部麻呂(640年生~717年没)が704年に右大臣(704年~708年)に、708年に左大臣(708年∼717年)に就きます。右腕の通婚同盟した和邇氏系藤原不比等(659年頃生~720年歿)が708年に右大臣(708年~720年)に就きます。物部宗本家の政事統括体制が確立します。

物部宗本家第18代・左大臣石上氏麻呂(640年生~717年没)の高齢化によって、平城京遷都(710年~784年)、平安京遷都(784年~1869年)を通して右大臣藤原不比等が政事実権を握り、「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」である父系制の非政事為政者『天皇』と「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a系」である藤原氏を主軸とする父系制の政事統括者『左・右大臣』との共同為政体制に向かいます。

以下、相互に密接に関係して進んでいることを示す年譜です。

623年、淵蓋蘇文が高句麗で私通にて誕生します。母が宝皇女(589年生~661年歿)、母方および父方の祖母が額田部皇女(554年生~628年歿)、父が高句麗・高向玄理です。高向玄理は、父が第34代舒明(577年頃生~641年歿)=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)、母が額田部皇女(554年生~628年歿)です。

627年、新羅和邇氏系金善品[=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智]が、新羅で誕生します。母が宝皇女(589年生~661年歿)、父が廃位となった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の異父弟の金仇輪です。
 新羅・宝公主が、百済武王の後王妃となった時に、金善品は共に百済に移り、百済第31代義慈王の養子の第二王子・翹岐(ギョウキ)を称します。百済には、和邇氏のもう一つの拠点がありました。金善品は、「DNA匈奴金氏」である新羅王統とは「DNA種族」が違うので、身の危険があるからです。
 金仇輪の母は新羅・朴氏思道夫人[新羅第24代真興王(在位:540~576年)の王妃]=手白香皇女、母の父は新羅和邇氏の新羅王族・朴英失[=第21代雄略]です。
 朴英失、金仇輪、金善品[=第38代天智]の本貫は金官加羅で、新羅系和邇氏です。

640年、物部氏宗本家第18代・物部麻呂=石上氏麻呂が誕生します。父母は未詳、曾祖父は蘇我馬子です。母は、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后が推測されます。父は物部氏宗本家第16代・蘇我蝦夷か蝦夷の弟の蘇我倉麻呂などの子が考えられます。
   物部宗本家第18代・石上氏麻呂(640年生~717年歿)の父は物部宗本家第15代・蘇我馬子(551年生~628年歿)[=物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)=第31代用明(ヨウメイ)]の伝承もありますが、年代からみて、蘇我馬子は曾祖父です。石上氏麻呂は、物部氏宗本家第17代・蘇我入鹿の子の世代です。

641年、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=高句麗・大陽王=第36代孝徳(コウトク)]が即位します。父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)]、母が宝皇女[=百済王妃・宝公主=百済王妃・沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=新羅王妃・涓花夫人]です。百済先王妃は百済・宝公主=沙宅(サテク、倭名は中臣氏)ヨン[=新羅・宝公主=新羅第29代武烈王(在位∶602~661年)の新羅王妃・涓花夫人]、後王妃は百済王妃・(生年不詳~665年歿)=百済・木恩古(ウンゴ)]です。間人(ハシヒト)皇女は、父が百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明]、母が宝皇女(593年生~661年歿)です。間人(ハシヒト)皇女は、百済佐平・木氏の養女となり、百済王妃になります。 「間人(ハシヒト)」は、波斯(ハシ)人=ペルシア人と同意で、母・宝皇女は中央アジアで生まれています。

642年(蝦夷は56歳頃歿、淵蓋蘇文は19歳)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部氏宗本家第16代・第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]が「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A=重祚第40代天武]により暗殺されました。 
 日本書記は、物部(蘇我)蝦夷が645年に倭国で戦わないで翌日自死したと改ざんし、殺害者を淵蓋蘇文から中大兄皇子[=第38代天智]の責に変えています。物部(蘇我)蝦夷は倭国、三韓の覇者であり、戦わずして自死するなどありえません。
    淵蓋蘇文は、曾祖父が達頭=上宮法王=聖徳太子、祖父が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明=百済第30代武王(在位:600~641年)]、父が高句麗・高向玄理、母が宝皇女です。

645年乙巳(イッシ)(中大兄皇子は18歳、淵蓋蘇文は22歳)、中大兄皇子[=第38代天智]、中臣鎌足(百済名は百済大佐平・沙宅(サテク)智積)等が高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺し、物部(蘇我)宗家が終焉したとされています。しかし、物部(蘇我)宗家は分家に継承されています。

645年、蘇我蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子である物部宗本家分家17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)が倭国政事統括者を継承します。
 蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)の娘の(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)と(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)が、次の時代の『皇后』の系譜となります。
 645年乙巳(イッシ)直後に(石上氏麻呂5歳頃)、母系(推測:祖母・宝皇女)により物部麻呂(640年生~717年歿)[=石上氏麻呂]が物部宗本家を継承します。

649年、物部宗本家分家17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂(649年歿)が讒言(ザンゲン)により自死します。日本書記は、蘇我倉山田石川麻呂は、645年に中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿を暗殺した際(乙巳の変)、共に計画に賛同したとしています。
 649年に、右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言(ザンゲン)され、妻子8人と共に山田寺で自害したとされています。しかし、妻子8人が共に自害は日本書記の常套記載で、生きているとみた方がよいです。

蘇我馬子の子には、継嗣の蘇我蝦夷、蝦夷没後に承継した弟の物部宗本家分家16世代・蘇我倉麻呂がいました。蘇我倉麻呂の子が物部宗本家分家17代・右大臣蘇我倉山田石川麻呂、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)が右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄がいます。
 蘇我倉山田石川麻呂の子には、次の時代の『皇后』の系譜となる(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)と(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)がいます。
 また、蘇我連子の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)がいます。

655年、高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は高句麗を出国し、親新羅の倭国亡命政権を樹立し、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)に就きます。新羅との同盟の証に、倭国『大后』は、新羅の最高血統の新羅真骨正統4代・額田王[=新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)の先王妃・文明王后]です。ただし、額田王は、新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)と第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)との伴侶時期が重複しています。第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文と新羅真骨正統4代・額田王は、単なる同盟通婚かもしれません。
 日本書記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)の不都合な出来事を隠蔽するために、『大后』額田王の代わりに母の宝皇女を重祚第37代斉明B宝皇女に改ざんしました。倭国『大后』額田王は、新羅真骨正統第4代首主であったので、記紀は身代わり女帝を避けました。

659年、藤原不比等(659年生~720年歿)が誕生します。父は第38代天智(627年生~672年歿)、母は未詳(推測:間人皇女)です。

660年(天武は37歳、天智は33歳)、百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳]、百済太子・が降伏して、妻子、多くの臣下等58人が唐都・洛陽に強制連行されます。同年義慈王は唐で病死したとされています。百済王妃・間人(ハシヒト)皇女(665年歿)=木恩古(ウンゴ)はどうなったのでしょうか。 

660年、百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅和邇氏系金善品=第38代天智]は、一端高句麗に行きます。避難移動ではありません。百済・翹岐(ギョウキ)王子は、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)と新羅との密約を知っていたと思われます。その後、母・宝皇女と共に新羅、その後倭国に避難移動しました。

661年(母・宝皇女が68歳歿)、宝皇女が、記紀では倭国前線基地の九州筑紫で歿したとされています。因みに、宝皇女(593年生~661年歿)[=新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の新羅後王妃・涓花夫人]の歿年は、伴侶の新羅第29代武烈王(在位:602~661年)と同年です。したがって、宝皇女は、新羅で歿した可能性が大きいです。宝皇女は、初の火葬とされていますが、当時火葬の慣習はなく、いわんや皇族・王族の火葬は先ずありえません。宝皇女は、新羅に本陵があると考えられます。「火葬」とされた他の例も、埋葬陵でない可能性が強いです。「火葬」は、昭和前期までの日本の埋葬形式ではありません。皇族が「火葬」の埋葬形式に変えたのであれば、日本の一般埋葬形式がその頃から変わっている筈です。歴史研究者であれば、事実を疑い、真実を追及しないのでしょうか。

新羅金氏第15世代・新羅第29代武烈王(在位:654~661年)は、実父が金官加羅・金龍樹(金龍春の兄)、継父が金官加羅・金龍春、母が新羅金氏天明公主です。新羅金氏天明公主は、母が新羅・萬呼(マノ)太后(555年生まれ~?年)、祖母が新羅・金珍娘主=蘇我堅塩媛、曾祖母が新羅摂政只召(チソ)太后=尾張目子媛です。
 新羅第29代武烈王(在位:654~661年)の本陣での病気死亡は本当でしょうか?武烈王の後継は、不思議なことに、第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)です。

661年、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)[=第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)]が即位します。文武(ブンブ)王は、(推測)父が第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)[=第40代天武(在位:673~686年)]の子の草壁皇子(662年生~689年歿)、母が鸕野讃良皇女(後に持統天皇)です。淵蓋蘇文の統一新羅乗っ取り陰謀の始まりです。

663年(天武は40歳、天智は37歳)、百済王族や遺臣達と倭国は、百済復興を目指し白村江の戦いをしましたが敗れました。倭国側の勢力には、最大武力の物部氏は入っていず、また尾張氏も入っていません。主力は、伽耶と九州に根拠地をもつ大伴氏と推測されます。その後、唐は旧百済領の経営に乗り出しましたが、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられました。
 百済が白村江の戦いに敗れた時、後宮の3000人の官女が身を投げたと伝えられている落花岩の伝説がありますが、後世の作り話です。義慈王、太子・隆が降伏して捕虜となっているのに、官女が捕虜後を支えないで身投げしたりする行動パターンは、朝鮮半島の文化にはありません。高麗、李氏朝鮮の時代、女性は国のためには貢女とされるのが普通です。身投げしたとされる落花岩の場所は、河に落ちるのではなく、下の岩に当ります。人数も伝統的な誇大数字です。多数の貢女を隠蔽するための後世の儒教の作り話とみてよいです。百済王妃・間人(ハシヒト)皇女(660年歿)や宝皇女の行方を隠すための作り話でもあります。

666年、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、671年まで唐の捕虜になりました。日本書記では、淵蓋蘇文は一時中国の捕虜となったため筑紫君(=九州・倭国王)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬(推定在位:655~661/666年)と記載されています。
 
唐に捕虜中とはいえ、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(在位:655~666年)が存命であったので、中大兄皇子(=第38代天智)は、倭国『大王』に簡単に即位できませんでした。 

668年、高句麗の国都平壌は、唐と新羅の連合軍により陥落します。尾張氏外戚系新羅が三韓統一をしました。
 [架空末王]高句麗第28代宝蔵王(在位:642~668年)は唐に連行され、淵蓋蘇文が擁立した偽装高句麗王と認定され、以後唐の王族待遇を受けます。宝蔵王には倭王『大王』の称号がないことは、偽装高句麗王を裏付けています。

668年(天智は41歳)、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第38代天智(在位:668~672年)[=百済第二王子・翹岐(ギョウキ)王子=新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品]は、「DNA匈奴金氏」である第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)の唐の捕虜中を利用して、皇位を簒奪しました。天智の主なバックは、伽耶の「DNA源流鮮卑族」和邇氏、伽耶の「DNA縄文人混血呉系倭人」の中臣氏、倭国の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族ですが、尾張氏に比べまだ弱いことは、後の壬申(ジンシン)の変でも分かります。

671年(天武は48歳)、淵蓋蘇文(623年生~686年歿)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)[=大海人皇子]等4人は、同じく捕虜として連行されていた筑後国上陽咩(カミツヤメ)郡(現福岡県八女市上陽町)出身の大伴部博麻(ハカマ)が自分を「奴隷」として売ったお金で帰国します。倭国に帰国した淵蓋蘇文は大海人(オオアマ)皇子と名を変え、天智天皇の皇太弟となります。大伴氏が九州に拠点をもち、古来より伽耶で金官加羅系金氏と和邇氏と親密な関係があったことを裏付けています。
   690年に称制した第41代持統B鸕野讚良(ウノサララ)皇女(在位:690~697年)は、天皇から一般個人に向けられた愛国者を記した唯一の勅語を大伴部博麻に与えました。
 九州は借用昔氏大国朝を祖とする金官加羅国系の「DNA匈奴金氏」族の拠点地域で、筑紫君は九州・倭王の称号です。いわゆる九州王朝は、倭国末期まで続いていることになります。淵蓋蘇文が筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬の別名をもっていることは、金官加羅系であることの証しです。
 因みに、東倭国の畿内は、「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏と「DNA源流鮮卑族」和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と「DNA源流匈奴」野族の拠点地域です。

672年(不比等は13歳頃)、倭国に帰国した淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、留守中に皇位を簒奪した第38代天智(在位:668~672年)(=中大兄皇子)を1月7日京都・山科で暗殺し、その後、後継の大友皇子を滅ぼしました。第38代天智の山城行きに同行していた新羅貴族を祖とする「DNA縄文人混血呉系倭人」である中臣鎌足(614~669年)[=藤原鎌足=百済大佐平・沙宅(サテク)智積=新羅・沙吒昭明/ 紹明]は、昭和初期に発見された高槻市阿武(アブ))山古墳の遺体からこの時とみられる落馬した背骨跡とDNAが確認されています。
 日本書記は、同行していた藤原不比等の養父・中臣鎌足[=百済大佐平・沙宅(サタク)智積]は、670年に歿したと改ざんしています。大阪府高槻市奈佐原の阿武山(アブヤマ)古墳の遺体が、1934年に京都帝国大学地震観測所の地下から発見され、被葬者を藤原鎌足=中臣鎌足に比定する説が知られています。棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。1982年、遺体の全身エックス線写真の原板が地震観測所から見つかり、被葬者は京都・山科の地と考えられる腰などを骨折する大けがをしていました。Y-DNA解析もされ、非公式に「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O2a1系」が流布しています。

672年、673年の壬申(ジンシン)の変での大海人皇子=淵蓋蘇文の倭国での政権取りは、倭国の尾張氏と大伴氏の支援によるものです。
   672年(天武天皇元年)七月、壬申の変での大友皇子の最後に物部麻呂[=石上氏麻呂]だけが付き添いました。物部麻呂が、史書に最初に登場します。
    大友皇子は、明治3年第39代弘文(コウブン)天皇(在位:672~672年)と追増されました。これは、大友皇子は、藤原氏と同じ「DNA源流鮮卑族和邇氏」で、藤原不比等と同父兄弟であるからです。

673年(天武は50歳、石上氏麻呂は34歳、不比等は14歳頃)、大海人皇子[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~667年)]が、第40代天武(在位:673~686年)に復権重祚しました。

676年、第40代天武の孫の新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が朝鮮半島を統一しました。主導したのは、第40代天武と新羅・尾張氏です。  
 676年(天武天皇五年)十月、大乙上(19番目の階位)物部麻呂が新羅大使に任命されます。大乙中・山背直百足が新羅小使に任命されます。翌年の677年(天武天皇六年)二月、新羅より帰国します。

678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、蘇我連子(父は蘇我倉麻呂)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻(=正室)として迎えました。和邇氏と物部宗本家・分家との通婚同盟です。

681年(天武天皇十年)十二月、物部連麻呂は、粟田臣眞人、石動神社(石上麻呂の命日に開かれた)の智徳上人と共に小錦下位に昇級します。
 
681年から第40代天武(在位:673~686年)は、「飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)」の編纂を始めました。ただし、内容は残っていません。

681年、第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が新羅から追放され、倭国に亡命しました。また、新羅・尾張氏も追放され、帰化人と差別されます。新羅第30代金氏文武(ブンブ)王の海中墳陵は、新羅の創作です。
 新羅・慈儀王后は、新羅第30代文武(ブンブ)王が新羅を追放された後、新羅文武王の長子の5歳で即位した新羅第31代神文(シンブン)王(在位:681年~692年、676年生)、文部王の第二子の5歳で即位した新羅第32代金氏孝昭(コウショウ)王(在位:692年~702年、687年生~702年歿)の事実上の摂政をします。
 三国史記新羅本記は、新羅第32代金氏孝昭(コウショウ)王(687年生~702年歿)は、新羅第31代金氏神文(シンブン)王(676年生)の長子としていますが、父が11歳の時の子となります。

686年、63歳の第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。次直廣參・石上朝臣麻呂が、法官事として誄(ルイ、しのびごと)に携わりました。
   
天武陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)は、『大后』鸕野讚良(ウノノサララ)(645年生~703年歿)と合葬されたと見られています。1235年に盗掘されましたが、第40代天武の頭骸骨と白髪と『大后』と見られる銀製骨臓器が残っていました。当時、夫婦が合葬されるのは異例のことです。百済第25代武寧王陵は、『王妃、皇夫人』の代理人との合葬でした。合葬されたのが鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(703年歿)であれば、同年の686年歿となっている筈です。合葬された『大后』は斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)の『大后』額田王(歿年不詳)とすれば、形式骨壺に理ができます。

689年、次期天皇に即位させるつもりだった草壁皇子が急死しました。草壁皇子は、父が第40代天武、母が鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)の第二皇子として662年に誕生しました。

689年頃(不比等は30歳頃)、日本書紀に不比等の名前が出る初出で、判事に任命されました。

689年、第40代天武(在位:673~686年)の称制を経た皇后・鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)が、飛鳥浄御原令を発布しました。残っていません。

689年(持統三年)九月、直廣參・石上朝臣麿が、筑紫に赴いて新城の監督などを行います。

690年(持統四年)春正月、石上朝臣麿は、称制した(女帝)第41代持統天皇鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)の即位の儀式に関わります。新羅から追放された第40代天武の孫の第42代文武(在位:697~707年)(生年不詳)[=新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]への一時繋ぎです。

<飛鳥・藤原京(694年~710年)時代>
   694年(石上氏麻呂は54歳、不比等は35歳)、第41代持統B鸕野讚良皇女が、藤原京(694年~710年)遷都をしました。藤原京(694年~710年)遷都は、「DNA匈奴金氏」である第40代天武の後裔の復権を賭けたものといえます。藤原京(694年~710年)遷都の時の『大臣』は、第28代宣化天皇の直系子孫である「DNA匈奴金氏」である右大臣(690年~700年)左大臣(700年~701年)多治比島(タジヒノシマ)(624年生~701年歿)です。
 因みに、多治比島は、竹取物語に登場する、かぐや姫に求婚する貴族達の一人、石作皇子のモデルと言われています。
 小林恵子は、第40代天武と宗形徳善の娘の尼子娘との子の高市皇子(タケチノミコ)を第41代持統(ジトウ)A高市(推定在位:694~697年)とします。

696年(持統十年)十月、持統天皇の時代に直廣壹・石上朝臣麿、直廣貳・藤原朝臣不比等並五十人、の記述があります。藤原不比等が「不比等」という名前で登場するのはここが初めてです。

697年(不比等は38歳、石上氏麻呂は57歳)、新羅王を追放されて倭国に亡命していた第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]が即位します。第42代文武(モンム)(在位:697~707年、生年不詳)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]は、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)[=淵蓋蘇文=第40代天武(在位:673~686年)]と額田王[=金文姫(金庾信の妹)=新羅・文明王后]との子です。
 藤原不比等は、第42代文武(モンム)が即位するのに際し功績(第42代文武が物部宗本家の傘下に入ることを受け入れたことか)があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。また、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている県犬養三千代=橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、第42代文武の即位直後には娘の藤原宮子が第42代文武の『夫人』となります。『皇后』になれなかったのは、第42代文武[=新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]の先王妃の新羅・慈儀王后[=第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)]がまだ生きているからです。

698年(不比等は39歳)、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされました。不比等の養父系である従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することとされました。

700年(文武四年)、60歳の石上氏麻呂は、「筑紫総領(博多方面の軍事総督)」に任ぜられます。同時に関東地方にゆかりのある「小野朝臣毛野」「波多朝臣牟後」「上毛野朝臣小足」達も人事を受けています。

701年(大宝元年)に制定された大宝律令により、61歳の石上氏麻呂は、中納言直大壱から正三位・大納言に進みました。藤原不比等も、正三位・大納言に進みました。

702年(大宝二年)、62歳の石上氏麻呂は、大宰府長官に相当し、博多方面のトップ職である大宰師(ダザイソチ)に就きます。

<石上朝臣麻呂政権(704年~717年)>
704年(慶雲元年)、第42代文武(在位:683~707年)により、大納言従二位石上朝臣麻呂(640年生)は、64歳の時正二位右大臣に就任しました。「益封」という褒賞2170戸が与えられる。また、大納言従二位藤原不比等は800戸が与えられる。この人事は、第42代文武が、物部宗本家の傘下に入ることを意味します。
 物部宗本家宗主の石上朝臣麻呂が、64歳で右大臣に就いたのは、非常に遅いことで、驚きです。30歳で就いても不思議ではありません。いかに第40代天武系の匈奴族、同盟者の尾張氏の権勢が強く、また、藤原不比等の大きな貢献によるものであったと考えられます。

707年、第42代文武(在位:683~707年)が歿します。
 新羅王妃・慈儀王后が、新羅から急遽日本に帰り、子の新羅王のために倭国物部宗本家の傘下に入ることで、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に即位します。第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)は、母が蘇我倉山田石川麻呂の庶子・妹娘の蘇我姪娘(メイノイラツメ)、父が第38代天智、異母兄が藤原不比等です。
 藤原宮子は、淵蓋蘇文の孫の第42代文武(モンム)(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]の夫人となり首(オビト)皇太子[=第45代聖武(在位:724~749年)]を生みます。第42代文武(モンム)の先室は、新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661年~681年)の新羅・慈儀王后[=第43代(女帝)元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)(661年生~721年歿)]ですので、藤原宮子は『皇后』になれませんでした。
 しかし、母が賀茂比売[=額田王]の藤原宮子(生年不詳~754年歿)は、史上初めて生前に正一位に叙されると同時に、史上初めて女性で正一位に叙され、皇后でも皇太后でもなかったのに史上初の太皇太后となりました。新羅真骨正統第4代額田王の継嗣であるからです。『皇后』継嗣ではない庶子・蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘・第43代元正とは、格が非常に違います。戦前の日本でも、家督相続権のある長男と継嗣ではない次男は雲泥の処遇差がありました。

708年(和銅元年)1月11日、擁立した(女帝)第43代元明(ゲンメイ)により従二位石上朝臣麻呂(68歳)は、藤原不比等(49歳)と共に正二位に叙せられます。
 708年(和銅元年)3月13日、擁立した(女帝)第43代元明(ゲンメイ)により、右大臣正二位石上朝臣麻呂は長く空席であった左大臣に、不比等が後を継いで正二位右大臣に就きます。大伴宿祢安麻呂が大納言、石上政権の樹立に活躍した東国人の小野朝臣毛野、平城京長官になる東国人の阿倍朝臣宿奈麻呂[後に左大臣(645年~649年)]が中納言などに就任して石上氏麻呂を支えます。
 石上朝臣麻呂(68歳)が高齢のため、実権は藤原不比等(49歳)と傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)にあります。

<奈良時代・平城京(710~794年)>
710年(和銅三年)、和邇氏地盤がある地の平城京(710~794年)への遷都は、右大臣(708年~720年)藤原不比等の建議で、藤原不比等の傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]が行います。平城京(710~794年)から集権制単都が始まります。
 平城京(710年~794年)の初期は、藤原京はまだあり、「留守(天皇代行の長官の意)」を物部宗本家18代・左大臣(708年~717年)石上氏麻呂が務めます。

712年、古事記(最古写本1371年)が第43代元明(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に献上されました。この賞味期限の切れた古事記は、国史から外され、本居宣長が探し出すまでは陽を見ることはありませんでした。古事記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)が、皇位の継承正統性を示し、倭国統治者である「DNA縄文人」に対抗するために、継承元とする第33代推古(スイコ)B額田部皇女(554年生~628年歿)までを編纂したもので、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)に即位した直後に編纂の構想を始めたと推測されます。第40代天武の存命中に古事記の編纂が終わっている筈で、第40代天武の686年没後の30年後に編纂を開始するのは不自然なことです。また、古事記編纂から50年ないし30年後に第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されたとすることも不自然です。この古事記献上の出来事は、第40代天武後裔系勢力の政治的な意図があってのことです。

715年、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]が即位します。父は、草壁皇子(第40代天武と大后・鸕野讚良との子)、母は第43代元明(ゲンメイ)天皇(721年歿)=新羅王妃・慈儀王后です。
 712年の古事記の第43代元明(在位:707~715年)に献上の政治的意図に対処するために、第40代天武系の系譜も入っている第44代元正への政治的譲位で、第40代天武後裔系勢力との妥協です。715年頃は、和邇氏系藤原不比等が政事実権者ですが、まだ第40代天武系後裔の匈奴金氏系の勢力は相当力を持っていました。

日本書記は、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と藤原不比等が編纂責任者です。712年の古事記献上の政治的意図と第44代元正への譲位に対処するために、編纂着手されます。第44代元正(ゲンショウ)の母・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)は庶子の妹娘である蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘であるので、皇位正統性の格を示すために『皇后』継嗣系の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元として編纂したものです。鸕野讚良は本来庶子の妹でしたが、姉が早逝して継嗣となりました。これが、第44代元正と類似した境遇であったこともあります
 姉の蘇我遠智娘は『皇后』継嗣で、妹の蘇我姪娘に対し各段に格上です。父系制では長男が、母系制では長女が、権力と財産のすべての相続権を持っていました。つい最近の戦前まで、長男のもつ家督相続権は、現在では想像ができないほどの家庭内差別が公然と認められていました。

715年(物部麻呂は75歳、不比等は56歳)、和邇氏系右大臣藤原不比等が、第44代元正天皇が即位した霊亀2年(715年)に、(国体に関することなので)勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる、直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。つまり、藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とします。つまり、藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とし、日本の国体に鮮卑族和邇氏を追加します。これは、第40代天武後裔等の匈奴系勢力の復権に対抗するためです。
 「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏は、扶余族盟主の後裔であるだけでなく、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・「禹(ウ)」の父の東夷の盟主である鯀(コン)が始祖かもしれません。新羅和邇氏の象徴神の第17代履中の別名の和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の「莵(ウ)」は、夏王朝の始祖・「禹(ウ)」が原初かもしれません。扶余国は、鮮卑族系と匈奴系の二つがあったとの説があります。鮮卑族と匈奴は、中国漢族の二代勢力です。
 「羽山(ウサン)」の由緒は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(う)の父である鯀(コン)が、東夷として追放された地の羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)にあります。東夷の後裔は、烏桓、鮮卑、契丹といった民族であるといわれています。垂仁朝の鮮卑族慕容部が、日本列島を渡来征服しないで、前燕やその後の江南地域から満州に居住拠点を置いた由縁です。つまり、「羽山」は、東夷(鮮卑族)の原郷です。

717年(養老元年)三月、物部宗本家18代・左大臣正二位石上朝臣麻呂が歿します。後継者と考えられる弔った人が、長屋王[後に、右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)]、多治比眞人三宅麻呂、上毛野朝臣廣人でした。

720年5月21日(不比等62歳)、藤原不比等が病のため、第40代天武の第六皇子の一品(皇族品位)舎人(トネリ)親王(676年生~735年歿)が急いで日本書紀を編纂完成し、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)に撰上(センジョウ)しました。30巻に添えられた系図1巻は消失しています。

720年8月3日、藤原不比等(659年生~720年没)が62歳で歿します。

<第二期奈良時代・平城京(710~794年)>
 
奈良時代の後期は、和邇氏系藤原不比等から大伴氏系県犬養三千代/橘三千代の系統を軸にして為政体制は動きます。この時期、物部宗本家・分家から『左右大臣』はでませんでした。

721年、長屋王は、右大臣(721年~724年)に就きます。長屋王は、父が第40代天武の子の太政大臣・高市皇子(長男)で、母方の祖父が第38代天智です。

724年、第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)が即位します。『皇后』は、光明皇后(701年生~760年歿)=安宿(アスカベ)媛=光明子です。光明皇后は、母が大伴氏系県犬養三千代/橘三千代、父が藤原不比等、異母姉が藤原宮子です。
 第45代聖武は、藤原不比等と石上氏麻呂の傘下に下った第42代文武の子で、県犬養三千代/橘三千代が藤原氏と組んで、娘の安宿(アスカベ)媛=光明子(701年生~760年歿)を光明皇后にするために擁立したものです。『皇后』の系譜は、伝統的な物部宗本家でもなく、統一新羅の真骨正統でもない、大伴氏系に変わります。
 県犬養三千代/橘三千代の女系は不詳にされていますが、これには何か大きな理由があります。全く『皇后』の女系継嗣の系譜に無縁な人物ができることではありません。第一位「戸売」系統の行動様式に類似しており、東国にいた後裔かもしれません。

724年、長屋王は、左大臣(724年~729年)に就きます。
729年、左大臣(724年~729年)長屋王は、藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で死にます。
 右大臣は、734年の藤原不比等の長男・藤原武智麻呂(藤原南家の祖)まで空席となります。左大臣は、737年の藤原武智麻呂(藤原南家の祖)まで空席となります。

734年、藤原不比等の長男・藤原武智麻呂(藤原南家の祖)が右大臣に就きます。
 737年、藤原武智麻呂(藤原南家の祖)が、左大臣(737年)に就きます。

738年、橘三千代の先夫との子の橘諸兄(モロエ)が、右大臣(738年~743年)に就きます。橘諸兄は、第30代敏達天皇の後裔で、父が大宰帥・美努(ミヌ)王、母が橘三千代、異父妹が光明子(光明皇后)です。藤原氏と共に橘三千代の権勢が強くなります。
 743年、橘諸兄が、左大臣(743年~756年)に就きます。

749年、第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)(701年生~756年歿)と藤原氏出身の光明皇后(701年生~760年歿)との娘の(女帝)第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)[=重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)]が即位します。(女帝)第46代孝謙(コウケン)(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)は、父が第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)(701年生~756年歿)、母が藤原氏出身の光明皇后(701年生~760年歿)で、子女はいません。史上唯一の女性皇太子となりました。第45代聖武(ショウム)(756年歿)に譲位された(女帝)第46代孝謙(在位:749年~758年)は、橘三千代の野望と藤原氏の傀儡の『女帝』です。藤原『天皇』のための前ステップです。
 749年、藤原南家・藤原豊成が右大臣(749年~757年)に就きます。藤原豊成は、左大臣・藤原武智麻呂の長男です。  

758年、第47代淳仁(ジュンニン)天皇(在位:758年~764年)が即位します。後に廃帝となりました。父が天武天皇の皇子・舎人親王、母が当麻老の娘・当麻山背、『嬪(ヒン)』が和邇氏系統の粟田諸姉(モロネ)です。第40代天武系の巻き返し『天皇』です。
 758年、藤原南家・藤原恵美押勝(エミノオシカツ)[=藤原仲麻呂]が、右大臣(758年~760年)に就きます。藤原恵美押勝は、左大臣・藤原武智麻呂の次男です。

764年、重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)(718年生~770年歿)[=(女帝)第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)]が即位します。
 764年、藤原南家・藤原豊成が、右大臣(764年~766年)に還任します。
 766年、藤原北家・藤原永手(ナガテ)が、右大臣(766年)、左大臣(766年~771年)に就きます。父は藤原不比等の二男の参議・藤原房前です。

766年、学者参謀系の吉備真備(マキビ)が、右大臣(766年~771年)に就きます。第46代孝謙の傀儡『女帝』の苦悩からでた人事です。吉備真備は、備中国下道郡付近の下道(シモツミチ)国造であった皇別氏族の出で、右衛士少尉・下道圀勝の子です。元正朝の第9次遣唐使の留学生となり、717年に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐します。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。皇太子・阿倍内親王[=(女帝)第46代孝謙(コウケン)(在位:749年~758年)(718年生~770年歿)]の指導・教育にあたります。764年に70歳となった真備は、藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画し、乱鎮圧の功を挙げます。766年、重祚第48代称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で従二位右大臣へ昇進して、左大臣藤原永手と並んで太政官を領導しました。770年に称徳天皇が崩じた際には、娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、右大臣(766年)、左大臣(766年~771年)藤原永手らと白壁王(後の第49代光仁天皇)の立太子を実現しました。後継の天皇候補として第40代天武天皇の孫で、一品・長親王の子の従二位大納言文室(ブンヤ)浄三(キヨミ)(770年歿)、次いで弟の正二位大納言文室大市(オオチ)(780年歿)を推しましたが敗れました。

770年、第49代光仁(コウニン)天皇(在位:770年~781年)が即位します。光仁(コウニン)天皇は、父が天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6皇子、母が贈・太政大臣紀諸人の娘・紀橡姫です。廃『皇后』井上内親王は、母が大伴氏夫人県犬養広刀自、父が第45代聖武天皇です。

781年、第50代桓武(カンム)天皇(在位:781年~806年)が即位します。『皇后』藤原乙牟漏(オトムロ)は、父が藤原式家の藤原良継、母が阿倍粳蟲の娘・阿倍古美奈です。
 781年、藤原北家・藤原魚名(ウオナ)が、左大臣(781年~782年)に就きます。藤原魚名は、参議・藤原房前の五男です。

782年、藤原式家・藤原田麻呂(タマロ)が、右大臣(782年~783年)に就きます。藤原田麻呂は、参議・藤原宇合の五男です。
以後、略します。

物部宗本家18代・石上氏麻呂の系譜は、母が未詳の19代・中納言石上乙麻呂(750年歿)、母が未詳の20代・正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)、母が未詳の21代・従五位下主税頭石上継足(生没年は未詳)です。
 石上継足は何故か突然歴史上から消えます。石上継足は、第50代桓武天皇(在位:781~806年)に比定されます。

奈良時代(710年~794年)の天皇は、
・(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[母が蘇我姪娘、父が第38代天智]、
・(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)[母が第43代元明、実父が藤原不比等、父が草壁皇子]。
第45代聖武(ショウム)天皇(在位:724~749年)[父が第42代文武(在位:697~707年)、母が藤原宮子、皇后が光明皇后=藤原安宿(アスカベ)媛]。
・(女帝)第46代孝謙(在位:749~758年)=重祚第48代称徳(在位:764~770年)[父が第45代聖武、母が光明皇后]。
・後に廃帝となる第47代淳仁(ジュンニン)(在位:758年~764年)[父が天武天皇の皇子・舎人親王、母が当麻老の娘・当麻山背、嬪(ヒン)が和邇氏系統の粟田諸姉(モロネ)]。
第49代光仁(在位:770~781年)[父が天智天皇皇子の志貴皇子、母が紀諸人の娘の紀橡(トチ)姫、皇后が県犬養三千代の娘の井上内親王]。
第50代桓武(在位:781~806年)[実父は未詳(推測:物部宗本家19代・正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)]、母は高野新笠、皇后は藤原式家・藤原良継の娘の藤原乙牟漏(オトムロ)]です。

『皇后』の三系統(県犬養三千代/橘三千代を含む)の継嗣系譜と準『皇后』(分家相当)の系譜です。
A系統:a⑭額田部皇女、a⑮宝皇女の継嗣系譜は、a⑯(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ) =(推測)間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)⇒a⑰(第40代天武の先大后)(姉)大田皇女[早逝。父は第38代天智]、a⑰(第40代天武の後大后) (妹)鸕野讚良皇女(645年生~702年歿)=称制・第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)[父は第38代天智]です。

B系統:新羅真骨正統首主のb⑯額田王の後裔継嗣は、b⑰十市皇女[早逝。父は第38代天智]、b⑰藤原宮子(生年未詳~754年歿)[父は藤原不比等]です。

C系統:c①県犬養三千代/橘三千代の後裔継嗣は、c②光明皇后(701年生~760年歿)=光明子=安宿(アスカベ)媛[父は藤原不比等]⇒c③(女帝)第46代孝謙(コウケン)天皇(在位:749年~758年)=(女帝)重祚第48代称徳(ショウトク)天皇(在位:764年~770年)[父は第45代聖武]です。   
準『皇后』(分家に相当)の継嗣系譜です。 

D系統:d⑯(妹)蘇我姪娘(メイノイラツメ)⇒d⑰(女帝)第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝(在位:707~715年)=新羅・慈儀王后[父は第38代天智]⇒⑱(女帝)第44代元正天皇)(在位:715~724年)[父は第40代天武の子の草壁皇子]です。      

720年以降の政事統括者である『左・右大臣』は、藤原氏系を多数とする四系統が政事統括者『左・右大臣』となります。「DNA縄文人」物部氏系は誰も就いていません。
・右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)長屋王[第40代天武の孫]。
・右大臣(734年~737年)藤原武智麻呂[藤原不比等の後裔系]。
・右大臣(738年~743年)左大臣(743年~756年)橘諸兄(モロエ)[県犬養三千代の先夫との子]:第46代孝謙(在位:749~758年)。
・右大臣(749年~757年、764年~766年)藤原豊成:第46代孝謙(在位:749~758年)。
・右大臣(758年~760年)藤原恵美押勝(エミノオシカツ)/藤原仲麻呂
・右大臣(766年)左大臣(766年~771年)藤原永手:第48代重祚称徳(在位:764~770年)。
・右大臣(766年~771年)吉備(キビ)真備(マキビ)[称徳上皇の学者参謀系]:第48代重祚称徳(在位:764~770年)。
・右大臣(771年~781年)大中臣清麻呂[称徳上皇の学者参謀系]:第49代光仁(在位:770~781年)。
・左大臣(781年~782年)藤原魚名[称徳上皇の学者参謀系]。
結局、唯一専権制の文化である「DNA源流鮮卑族和邇氏」の藤原氏が、『天皇』になることは日本の歴史上ありませんでした。
唯一専権制の文化である「DNA匈奴」は、記紀で架空の『天皇』になっただけで、実際の『天皇』になることはありませんでした。
何万年と為政体制を続けた「DNA縄文人」には、どんな力があったのでしょうか。
<以上>

(投稿予定)
4-8-2.645年以降の物部氏同盟群による倭国政事統括体制
4-8-3.現在『天皇』の直祖の物部宗本家第18代・石上氏麻呂(640年生~717年歿)
4-8-4.第40代天武と統一新羅、尾張氏との同盟
4-8-5.和邇氏系藤原不比等の実権掌握
4-8-6.物部宗本家と藤原氏の傘下に入った文武朝(42文武、43元明、44元正、45聖武)
4-8-7.和邇氏系藤原不比等と大伴氏系県犬養三千代の連携
4-8-8.平安京(784年~1869年)の一都制遷都
 
5.「DNA縄文人」である倭国部族同盟統括者の通史概要