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2024.9.16<新版統合版>第四部(下2)記紀の論理的歴史の概要∶ 645年以降の物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争い(4-8-2~4-8-7)

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4-8-2.645年以降の物部氏同盟群による倭国政事統括体制

 倭国政事統括者である物部宗本家『大連』側は、642年に物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)が暗殺され、左大臣(645~649年)阿倍内麻呂と物部宗本家第16代・蘇我蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子の物部宗本家分家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が継承しました。
 645年当時では、飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)や大宝律令の位階制はまだ導入されていませんから、後世『大連』を『左・右大臣』に置き換えたものです。

649年に右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言(ザンゲン)され、妻子八人と共に山田寺で自害したとされています。日本書記は、右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂は、645年に中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿を暗殺した際(乙巳の変)、共に計画に賛同したとしています。記紀の常套記載の可能性があります。少なくとも、娘は生きています。

649年に右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が死亡した後、左大臣(649~658年)巨勢(コセ)徳多(トコタ/トクタ)、右大臣(649~651年)大伴長徳、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、蘇我倉山田石川麻呂の弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄が継承します。

倭国政事統括者である物部宗本家『大連』側の『皇后』の女系継嗣者は、額田部皇女(554年生~628年歿)、その娘の宝皇女(593年生~661年歿)、その娘の間人(ハシヒト)皇女(仮推測生年・608年~665年歿)=中宮皇后です。
 その次は、父は物部宗本家16代・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)]、母は未詳とする(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)、その娘の第40代天武の先大后の(姉)大田皇女、第40代天武の後大后の(妹)鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)です。
 (姉)蘇我遠智娘は、宝皇女の娘の百済王妃・間人(ハシヒト)皇女と同一人と比定され、660年の百済滅亡、659年の父の物部宗本家16代・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の変を隠蔽するための系譜のぼかしです。
 日本書記では、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)は、父が第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)[=百済第30代武王(在位:600~641年)]、母が第35代皇極B宝皇女(593年生~661年歿)[=第37代斉明(サイメイ)B宝皇女]としていますが、百済第30代武王[先王妃は額田部皇女]の後王妃・宝皇女の子が百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳]です。したがって、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)の王統系譜上の父が第34代舒明(ジョメイ)(577年頃生~641年歿)で、実父は蘇我倉山田石川麻呂であると推察されます。

額田部皇女(554年生~628年歿)は、物部宗本家15代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明の第一伴侶です。額田部皇女[=(推測)ペルシア王妃・マリア]の子は、竹田皇子(587年歿)[父は第30代敏達]、586年頃生の蘇我蝦夷[父は蘇我馬子(551年生)]、590年生まれのペルシア帝国カワード2世(在位:628年)[父は蘇我馬子=ペルシア帝国ホスロー二世(在位:590~628年)]、593年生の宝皇女[父は達頭(553年頃生)]、山背大兄王=ペルシア帝国(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)[父は達頭(553年頃生)]です。

宝皇女(593年生~661年歿)は、父が金官加羅出自の新羅金氏14世代・達頭(553年頃生~630年歿)[=上宮法王=聖徳太子]で、中央アジア生まれです。物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)の第一伴侶です。 
 宝皇女(593年生~661年歿)の子は、仮想生年が608年頃の蘇我入鹿[父は蘇我蝦夷(586年頃生)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)]、仮想生年が610年頃の百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=第36代孝徳(コウトク) [父は高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年、577年頃生)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]、私通の623年生まれの高句麗・淵蓋蘇文[=第37代斉明A淵蓋蘇文=第40代天武][父は高句麗・高向玄理]、627年生まれの新羅波珍飡(4等官)金善品第38代天智(テンジ)[父は新羅・金仇輪]です。

間人(ハシヒト)皇女=中宮皇后=(姉)蘇我遠智娘の女系継嗣者は、(第40代天武の先大后)(姉)大田皇女[早逝。父は第38代天智]、(第40代天武の後大后) (妹)鸕野讚良皇女(645年生~702年歿)=称制・第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)[父は第38代天智]です。

物部氏側は、阿倍氏、巨勢(コセ)氏、大伴氏を入れた同盟群に、新羅和邇氏系から藤原不比等を取り込みます。
 藤原不比等(659年生~720年歿)は、実父が新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品(627年生~672年歿)=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智(推定在位:668~672年)、母が額田王=新羅第29代武烈王(在位∶654~661年)の新羅王妃・文明王后です。
 678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、物部宗本家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の物部宗本家第17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎え、通婚同盟します。
藤原不比等蘇我娼子との子は、長男の南家祖・藤原武智麻呂 (680年生~737年歿) 、次男の北家祖・藤原房前(681年生~737年歿)、三男の式家祖・藤原宇合(694年生~737年歿)。四男の京家祖・藤原麻呂(695年生~737年歿)です。

その後、父母未詳とされる物部宗本家第18代・右大臣(704年~708年)左大臣(708年~717年)物部麻呂=石上氏麻呂(640年生~717年歿)が継承しています。
 石上氏麻呂の子孫は、第19代中納言・石上乙麻呂(750年歿)、第20代正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)、第21代従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)と継承され、いずれも母は未詳とされています。そして、第21代従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)が父が未詳とされる第50代桓武(在位:781~806年)(739年生~806年歿)に比定され、その後裔は現在の『天皇』まで続いています。

以上のように、「645年で蘇我宗本家は終焉」というのは、事実と違っています。

4-8-3.現在『天皇』の直祖の物部宗本家第18代・石上氏麻呂(640年生~717年歿)

 640年、物部麻呂(640年生~717年歿)[=石上氏麻呂]が誕生します。父母は、未詳とされます。曾祖父が蘇我馬子です。
   蘇我馬子の子には、継嗣の蘇我蝦夷、蝦夷没後に継承した弟の物部氏16世代・蘇我倉麻呂がいました。蘇我倉麻呂の子が物部宗本家分家17代・右大臣蘇我倉山田石川麻呂、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、同じく弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄がいます。

 642年、56歳頃の物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)が高句麗にて19歳の高句麗・淵蓋蘇文(エンガイソブン)(623年生~665年)により暗殺されます。この暗殺をそそのかした黒幕は、新羅・尾張氏かもしれません。
 645年、物部宗本家第17代・蘇我入鹿が日本で暗殺されます。母の宝皇女(589年生~661年歿)は、56歳です。その時、物部宗本家第18代・物部麻呂(640年生~717年歿)は、5歳です。

まだ石上氏麻呂(640年生まれ)が幼少のため、倭国政事統括者は、左大臣(645~649年)阿倍内麻呂、物部宗本家分家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が継承しました。

そして、尾張氏と組んだ匈奴金氏系の第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)や鮮卑族和邇氏系の第38代天智(在位:668~672年)や新羅・尾張氏が覇権を握ります。物部氏に対し、朝鮮半島はもとより倭国においても尾張氏の権勢が上回っていきます。

645年の直後に石上氏麻呂(640年生~717年歿)が物部宗本家を継承しましたが、父母が未詳とされます。そこまでして隠さないといけない石上氏麻呂の父母とは誰でしょうか。不都合な出来事と関係がある重要人物です。
   宝皇女は、593年に生まれ、661年歿しています。宝皇女の娘の間人皇女は、生年が未詳とされ、665年に歿しているとされています。
 石上氏麻呂(640年生~717年没)の母は、生年時代から推測すると、宝皇女の娘で、故意に生年未詳とされている百済王妃・間人(ハシヒト)皇女(生年未詳~665年歿)の可能性が考えられます。また、間人皇女は、父が物部宗本家17代・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)]である姉娘の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)と同一人と考えられます。
 蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の倭(ヤマト)姫王(627年生~672年歿)、(姉)大田皇女、(妹)鸕野讚良皇女(645年生~702年歿)は、第38代天智や第40代天武の『皇后』となります。蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘達は、『皇后』となれる継嗣の系譜者です。これは、蘇我遠智娘(オチノイラツメ)が、宝皇女⇒間人皇女の『皇后』継嗣の系譜であることを示しています。 
    蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の子は、627年生まれの倭(ヤマト)姫王[父は古人大兄皇子] 、生年未詳の(姉)大田皇女[父は第38代天智]、645年生まれの(妹)鸕野讚良皇女[父は第38代天智]がおり、640年生まれの物部麻呂は、時代的には矛盾しません。
   つまり、蘇我遠智娘(オチノイラツメ)は、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]の百済王妃・間人皇女に比定されます。

676年、第40代天武の孫の新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が朝鮮半島を統一しました。主導したのは、第40代天武と新羅・尾張氏です。  
   676年(天武天皇五年)十月、大乙上(19番目の階位)物部麻呂が新羅大使に任命されます。大乙中・山背直百足が新羅小使に任命されます。翌年の677年(天武天皇六年)二月、新羅より帰国します。

678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、物部宗本家分家17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎え、物部麻呂と姻戚関係になります。

681年(天武天皇十年)十二月、物部連麻呂は、粟田臣眞人、石動神社(石上麻呂の命日に開かれた)の智徳上人と共に小錦下位に昇級します。

681年から第40代天武(在位:673~686年)は、「飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)」の編纂を始めました。ただし、内容は残っていません。

681年、第40代天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が新羅から追放され、倭国に亡命しました。また、新羅・尾張氏も追放されます。

686年、63歳の第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。次直廣參・石上朝臣麻呂が、法官事として誄(ルイ、しのびごと)に携わりました。

689年、第40代天武(在位:673~686年)の称制を経た皇后・鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)が、飛鳥浄御原令を発布しました。残っていません。

689年(持統三年)九月、直廣參・石上朝臣麿が、筑紫に赴いて新城の監督などを行います。

690年(持統四年)春正月、石上朝臣麿は、称制した(女帝)第41代持統天皇鸕野讚良(ウノノサララ)皇女(645年生~703年歿)の即位の儀式に関わります。

694年(石上氏麻呂は54歳、不比等は35歳)、第41代持統B鸕野讚良皇女が、藤原京(694年~710年)遷都をしました。
 藤原京(694年~710年)遷都の時の『大臣』は、第28代宣化天皇の直系子孫である「DNA匈奴金氏」である右大臣(690年~700年)左大臣(700年~701年)多治比島(タジヒノシマ)(624年生~701年歿)です。

696年(持統十年)十月、持統天皇の時代に直廣壹・石上朝臣麿、直廣貳・藤原朝臣不比等並五十人、の記述があります。

697年(不比等は38歳、石上氏麻呂は57歳)、新羅王を追放されて倭国に亡命していた第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]が即位します。
 不比等は、第42代文武(モンム)が即位するのに際し功績(第42代文武が物部宗本家の傘下に入ることを受け入れたことか)があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。また、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている県犬養三千代=橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、第42代文武の即位直後には娘の藤原宮子が第42代文武の『夫人』となります。

700年(文武四年)、60歳の石上氏麻呂は、「筑紫総領(博多方面の軍事総督)」に任ぜられます。同時に関東地方にゆかりのある「小野朝臣毛野」「波多朝臣牟後」「上毛野朝臣小足」達も人事を受けています。石上氏麻呂は、地方に遠ざけられています。

701年(大宝元年)に制定された大宝律令により、61歳の石上氏麻呂は、中納言直大壱から正三位・大納言に進みました。藤原不比等も、正三位・大納言に進みました。

701年(大宝元年)に大宝律令が制定され、位階制に移り、『大連』に相当するのは左大臣、右大臣となります。大宝律令に関連する前の法典が、養老律令で、編纂(ヘンサン)は藤原不比等(659年生~720年歿)の主導で行われました。
 701年に発布された大宝律令は、第42代文武天皇によって701年に施行され、第40代天武(686年歿)の子の刑部(オサカベ)親王/忍壁(オサカベ)皇子藤原不比等の二人が編纂しました。

702年(大宝二年)、62歳の石上氏麻呂は、大宰府長官に相当し、博多方面のトップ職である大宰師(ダザイソチ)に就きます。

704、708年、石上氏麻呂=物部麻呂/物部磨(640年生まれ)は、704年(64歳の時)に右大臣、708年(68歳の時)に左大臣となり、政権を確立します。石上氏麻呂(640年生~717年歿)と右腕で、姻戚の和邇氏系右大臣(708年~720年)藤原不比等は、二人三脚の政権運営をします。
   石上氏麻呂が704年に右大臣に就いた時は64歳の高齢で、実権は45歳の藤原不比等がもちました。
 物部宗本家第18代石上氏麻呂(640年生~717年歿)が高齢まで右大臣に就けなかったことは不思議なことです。和邇氏系藤原不比等の功績が大きいです。

707年、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年、721年歿)[=新羅王妃・慈儀王后]が即位します。

710年(和銅三年)、和邇氏地盤がある地の平城京(710~794年)への遷都は、右大臣(708年~720年)藤原不比等の建議で、藤原不比等の傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]が行います。
 平城京(710年~794年)の初期は、藤原京はまだあり、「留守(天皇代行の長官の意)」を物部宗本家18代・左大臣(708年~717年)石上氏麻呂が務めます。

712年、古事記(最古写本1371年)が第43代元明(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に献上されました。この賞味期限の切れた古事記は、国史から外され、本居宣長が探し出すまでは陽を見ることはありませんでした。古事記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)が、皇位の継承正統性を示し、倭国統治者である「DNA縄文人」に対抗するために、継承元とする第33代推古(スイコ)B額田部皇女(554年生~628年歿)までを編纂したもので、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)に即位した直後に編纂の構想を始めたと推測されます。第40代天武の存命中に古事記の編纂が終わっている筈で、第40代天武の686年没後の30年後に編纂を開始するのは不自然なことです。また、古事記編纂から50年ないし30年後に第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されたとすることも不自然です。この古事記献上の出来事は、第40代天武後裔系勢力の政治的な巻き返しの意図があってのことです。

715年、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]が即位します。父は、草壁皇子(第40代天武と大后・鸕野讚良との子)、母は第43代元明(ゲンメイ)天皇(721年歿)=新羅王妃・慈儀王后です。
 712年の古事記の第43代元明(在位:707~715年)に献上の政治的意図に対処するために、第40代天武系の系譜も入っている第44代元正への政治的譲位で、第40代天武後裔系勢力との妥協です。715年頃は、和邇氏系藤原不比等が政事実権者ですが、まだ第40代天武後裔系の匈奴金氏系勢力は相当力を持っていました。

日本書記は、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と藤原不比等が編纂責任者です。712年の古事記献上の政治的意図と第44代元正への譲位に対処するために、編纂着手されます。第44代元正(ゲンショウ)の母・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)は庶子の妹娘である蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘であるので、第44代元正(ゲンショウ)は、皇位正統性の格を示すために、『皇后』継嗣系の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元として編纂したものです。鸕野讚良(ウノノサララ)は、姉が早逝したので継嗣となりますが、本来庶子の妹で、庶子系の娘である第44代元正と鸕野讚良は境遇が似ていたことも継承元とした理由でもあります。

715年(物部715呂は75歳、不比等は56歳)、和邇氏系右大臣藤原不比等が、第44代元正天皇が即位した霊亀2年(715年)に、(国体に関することなので)勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる、直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。
 つまり、藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とし、日本の国体に鮮卑族和邇氏を追加します。これは、第40代天武等の匈奴系勢力の復権に対抗するためです。

717年(養老元年)三月、物部宗本家18代・左大臣正二位石上朝臣麻呂が歿します。後継者と考えられる弔った人は、長屋王[後に、右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)]、多治比眞人三宅麻呂、上毛野朝臣廣人でした。

「DNA縄文人」が倭国統括者に本格的に復帰するのは、第50代桓武天皇[=石上氏七代・従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)=(推測)山部親王(母は高野新笠)]からです。和邇氏、秦氏のバックアップがありました。

以下は、石上氏四代・物部宗本家18代『大連』石上氏麻呂の後裔系譜です。
①石上氏四代・物部宗本家18代『大連』石上氏麻呂(639年生~717年歿)
・父母未詳。
・曾祖父:物部氏15世代『大連』物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)。
・(推測)祖母:物部氏16世代相当・宝皇女(593年生~661年歿)。
・(推測)母:物部氏17世代相当・間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=
       中宮皇后。
・子:従四位上・豊庭、従三位中納言・乙麻呂(三男)、東人、国盛(長女、
   三男藤原宇合の正妻)。

②石上氏五代:中納言・石上乙麻呂(750年歿)
 ・父:石上氏麻呂。
 ・母:未詳。
 ・妻:久米若売。
 ・子:宅嗣、息嗣

*739年、石上乙麻呂を参議に登用させないための策謀(故藤原宇合の妻で女官であった久米若売との姦通の罪)により土佐国へ、若売は下総国に流罪されます。石上乙麻呂は、恩赦され、天平15年(743年)に従四位上に叙せられます。後の西海道巡察使・常陸守・治部卿・右大弁・中務卿などを経て、天平20年(748年)に従三位参議に叙任され公卿に列します。久米 若女は、740年に大赦によって京都に召し返され、従五位、累進して従四位下となりました。

③石上氏六代:正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)
 ・父:石上乙麻呂。
 ・母:未詳[推測:故藤原宇合の妻で女官であった久米若売]。
 ・妻:未詳[推測:高野新笠]
 ・子:未詳[推測:石上継足]。

*道鏡政権時代、第49代光仁を擁立。

④石上氏七代:従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)
  =(推測)山部親王(母は高野新笠)
  =(推測)第50代桓武天皇(在位:781~806年)(739年生~806年歿)
 ・父:未詳(推測:石上宅嗣)。
 ・母:高野新笠。

 石上氏七代:従五位下主税頭・石上継足は、生没年は未詳とされ、突然消息が消えます。

4-8-4.第40代天武と統一新羅、尾張氏との同盟

 朝鮮半島から倭国の政事統括者『大王』となるために渡来したのは、「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文が初めてです。高句麗物部王朝の返しですが、双方短命です。

高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)は、642年の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]暗殺により、物部氏のバックアップは閉ざされ、新羅・尾張氏が覇権を握る新羅金氏朝と強い同盟をします。倭国・尾張氏は近畿からは締め出されていましたが、尾張国、古志国、信濃国、東国に領国をもっていました。
 当時、淵蓋蘇文が、物部氏が倭国政事統括者である倭国の中枢地にどうして入り込むことができたのか、解明が必要なことです。淵蓋蘇文の実祖母の額田部皇女(554年生~628年歿)や実母の宝皇女(593年生~661年歿)の倭国での第一位『大后』の力は、想像以上であったと思われます。また、倭国の尾張氏の力も近畿外の周辺の古志国、尾張国、東国、等では大きな領国を支配していたので支援が得られました。

623年(天武が誕生、母・宝皇女は30歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅金氏16世代・高句麗・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~686年歿)[=第40代天武(在位:673~686年)=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬]が私通で高句麗にて誕生します。母が宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=百済後王妃・宝公主/沙宅(サテク)ヨン=新羅王妃・涓花夫人[新羅金氏15世代・新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の後王妃]、父が新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理/高向黒麻呂/高向王です。

父の高向玄理は、実父が新羅金氏14世代・達頭(553年頃生~630年歿)=上宮法王=聖徳太子、母がペルシアから帰還した額田部皇女(554年生~628年歿)で、高句麗での子です。
 新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理の父を新羅金氏15世代・高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=金官加羅・金武力(576年頃生~641年歿)=第34代舒明の伝承がありますが、世代が合いません。第34代舒明は、義父です。

因みに、淵蓋蘇文が筑紫君薩夜麻(サチヤマ)の名をもつのは、九州筑紫は金官加羅国の庶子系領地があったことによります。また、京都・八坂神社に祀られている蘇民将来(ソミンショウライ)とは、淵蓋蘇文のことです。

532年に金官加羅は新羅王族の分国[檐魯(タムロ)]から新羅に併合されて、独立支配権がなくなりました。新羅金氏15世代・金官加羅・金武力(577年頃生~641年歿)=第34代舒明も、統一新羅を実現した新羅金氏16世代・金庾信(ユシン)(595年生~ 673年歿)も、新羅金氏16世代・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)も、庶子系で新羅王の正統継承資格がありませんでした。

 新羅金氏15世代・新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の実父は、新羅金氏14世代・金官加羅の金龍樹(金龍春の兄)で、宝皇女(593年生~661年歿)[=百済後王妃・宝公主/沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)]が新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)の後王妃・涓花夫人になったのが肯けます。

次に、627年(天智が誕生、母・宝皇女は34歳)、新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品第38代天智は、母が新羅・宝公主(593年生~661年歿)=宝皇女、父が新羅金氏14世代・新羅第25代真智(シンチ)王(在位:576~579年)の異父弟の和邇氏系金仇輪です。和邇氏系金善品は、新羅王子庶子の中で異系統の「DNA源流鮮卑族和邇氏」であり、身の安全から百済和邇氏の拠点がある百済に母と共に移ります。因みに、新羅系和邇氏は、古代からの由緒ある血統から新羅王族待遇でした。

統一新羅の実権をもつ尾張氏と同盟した第40代天武の後継は、繋ぎの称制した第41代持統B鸕野讚良(ウノサララ)皇女(在位:690~697年)です。統一新羅との同盟は破綻し、鸕野讚良(ウノサララ)皇女は保護者を失いました。
 統一新羅の貴族達は、統一新羅の実権をもつ尾張氏と第40代天武の統一新羅乗っ取りの謀略に気が付き、統一新羅の尾張氏と天武の孫の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)[=第42代文武天皇(在位:683~707年)]を追放しました。
 天武朝は、第40代天武(673年~686年)と『皇后』が称制した第41代持統B鸕野讃良皇女で実質終焉します。第40代天武は、後世脚色されており、在位中は尾張氏の支援が得られず、ほとんど何もできなかったという説の方が史実に合っています。それは、称制した第41代持統B鸕野讃良皇女の異常な高野山詣で等にあらわれています。
 第40代天武の父系血統を受け継ぐ第42代文武や(女帝)第44代元明や第45代聖武は、物部氏や藤原不比等の傘下に降っています。第40代天武の権力の継承者というよりは、倭国・尾張氏勢力の象徴的存在であります。この誤解が、後世の第40代天武の脚色と過大評価に繋がっています。
 日本列島全般に居住していた「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と「DNA源流匈奴」野族は、「DNA縄文人」と共存共生した初期からの渡来弥生人の二大勢力です。前(サキ)族は、鮮卑族和邇氏系藤原氏の同盟者であり、野族は尾張氏と同盟し、覇権抗争を度々起こします。

第40代天武の主な伴侶の子達です。
<第37代斉明B(推測在位:673年~686年)時代、母は新羅・万明皇后>
・皇后・額田王-新羅真骨正統第4代首主
  :第一皇女:十市皇女(653年?生~678年歿)-大友皇子(第39代弘
        文)妃の母

<第37代斉明B(推測在位:673年~686年)時代>
・嬪・尼子娘-胸形徳善の娘
  :第一皇子:高市皇子(654年生~696年歿)- 長屋王の父

<第40代天武(在位:673年~686年)時代:母は継嗣系の物部宗本家・蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=間人(ハシヒト)皇女
・先皇后・(姉)大田皇女- 天智天皇皇女
  :第二皇女:大来皇女(661年生~701年歿)-伊勢斎宮
  :第三皇子:大津皇子(663年生~ 686年歿)-第40代天武を暗殺
・後皇后:(妹)鸕野讃良皇女(後に持統天皇)- 天智天皇皇女
  :第二皇子:草壁皇子(662年生~689年歿) - 第42代文武・第44代元
        正の父
・妃・新田部皇女 - 第38代天智の娘
  :第六皇子:舎人親王(676年生~735年歿)-日本書記編纂。 第49代
        淳仁の父。
· 嬪・宍人 媛娘(シシヒトノカジキイラツメ)-宍人大麻呂の娘
  :第四皇子:忍壁皇子(? - 705年) -大宝律令編纂

4-8-5.和邇氏系藤原不比等の実権掌握

 「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」である藤原不比等は、「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である中臣鎌足の次男として生まれたとされていますが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、第38代天智の落胤(ラクイン)と実父が記されています。
 藤氏  (トウシ)家伝(760年に成立)は、鎌足伝、貞慧伝、史伝(消失)、武智麻呂伝より成り、史(=不比等)伝のみ消失しています。

 藤原不比等は、伽耶の熊成(クマナリ)を祖地とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏の象徴祖神の第17代履中=和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の後裔です。新羅系和邇氏の藤原朝政権は、奈良時代平城京(710年~784年)と390年間続いた平安時代平城京(784年~1869年)です。

日本書記は、「DNA匈奴金氏」のみを主軸とする系譜から、「DNA源流鮮卑族和邇氏」も考慮した挿入・改竄を平安時代に行います。また、平安時代には日本各地の鮮卑族系と同盟する秦氏系の神社を軸として、神社の統治体制の整備も推進します。なお、記紀では、和邇氏には、宗主の「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」に「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」を含んでいるとして、考えていく必要があります。

和邇氏は、朝鮮半島を本拠地とし、呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖として、記紀には雄略朝まで君臨が記載されていました。しかし、「DNA匈奴金氏」である第26代継体以後、記紀からは突然消えました。和邇氏は、朝鮮半島に地盤を置いていたので、新羅と百済に存続していたのです。
  呉系「トベ」系統の倭国『大后』の父系祖は、(前族)、和邇氏で、記紀では第26代継体まで大きな影響力を持っていました。現在も和邇氏象徴神の応神天皇を祭神とし、同盟する秦氏を融合した八幡宮(宇佐八幡宮、筥崎宮、石清水八幡宮、鎌倉八幡宮、等)や住吉大社や宇治神社からもわかるように、日本の文化に大きな影響力をもっています。

678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等(659年生)は、物部宗本家分家17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎え、物部宗本家と通婚同盟をします。物部(蘇我)宗本家の血統は、女系を通して藤原氏に流れます。
 藤原不比等と先室・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)の子は、長男・藤原武智麻呂(680年生~737年歿)、次男・藤原房前(681年生~737年歿)、三男・藤原宇合(694年生~737年歿)、五百重娘(子:藤原麻呂)です。藤原不比等(659年生)と通婚した蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)は、父が蘇我連子、ここでも母は未詳とされています。蘇我連子(ムラジコ)は、物部宗本家分家16代・蘇我倉麻呂/蘇我雄正の五男です。蘇我倉麻呂は、蘇我馬子の子です。つまり、蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)は、曾祖父が蘇我馬子、祖父が蘇我蝦夷です。

701年(大宝元年)に大宝律令が制定され、位階制により『大連』に相当するのは『左大臣、右大臣』となります。大宝律令依然の法典が残っていない養老律令の編纂(ヘンサン)は藤原不比等(659年生~720年歿)の主導で行われました。大宝律令は、第40代天武の庶子系皇子の刑部(オサカベ)親王/忍坂部(オサカベ)皇子/忍壁皇子(705年歿)と藤原不比等の二人が中心となり編纂し、第42代文武天皇によって701年に発布されました。

物部宗本家第18代・右大臣(704年~708年)左大臣(708年~717年)石上氏麻呂(640年生~717年歿)と右腕の和邇氏系右大臣(708年~720年)藤原不比等(659年生~720年歿)は、姻戚関係となり、二人三脚の政権運営をします。石上氏麻呂が704年に右大臣(704年~708年)となった時は、64歳の高齢で、実権は45歳の藤原不比等にあります。

710年、子の新羅王のために物部宗本家の傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年、721年歿)[=新羅王妃・慈儀王后]は、藤原不比等の建議により和邇氏地盤の平城京(710年~784年)に遷都します。第43代元明の母は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)の庶子系の妹娘の蘇我姪娘(メイノイラツメ)です。

715年(物部麻呂は75歳、不比等は56歳)、和邇氏系右大臣藤原不比等が、第43代元明と草壁皇子との娘である第44代元正天皇(在位:715~724年)(680年生~748年歿)が即位した霊亀2年(715年)に、(国体に関することなので)勅許を得て、自分の邸宅「佐保殿(現 狹岡(サオカ)神社:奈良県奈良市法蓮佐保田町604)」の丘に、迦毛(カモ)大御神につながる直近の系譜である羽山戸神[=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子=第17代履中]と大気都比賣(オオゲツヒメ)[注:第二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)ではなく、菟道稚(ウジノワキ)郎女=葉山媛命を指しています]との8人の子を天神八座「若山咋之神、若年之神、若沙那売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室綱根之神」として祀りました。藤原氏は、藤原氏の禊ぎ場として国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌りました。藤原不比等の祖は、新羅系和邇氏であることを公的事実とします。
 つまり、日本の国体に鮮卑族和邇氏を追加します。これは、第40代天武等の匈奴金氏系[注:扶余族盟主の後裔ではない]が成し遂げられなかったことです。
 「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅系和邇氏は、扶余族盟主の後裔であるだけでなく、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・(ウ)の父の東夷の盟主である(コン)が始祖かもしれません。新羅和邇氏の象徴神の第17代履中の別名の和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の「莵(ウ)」は、夏王朝の始祖・「禹(ウ)」が原初かもしれません。高句麗初代解(ヘ)氏東明聖王(在位:B.C.58~B.C.19年)は「DNA鮮卑族拓跋部」解氏/羽(于)氏、沸流(フツ)百済初代沸流(フル)王(在位:未詳)は「DNA鮮卑族拓跋部」真氏、沸流(フル)王の実弟の温祚(オンソ)百済初代温祚(オンソ)王(在位: B.C.18~AD28年、B.C.44年生まれ)は「DNA鮮卑族拓跋部」解氏です。
 「羽山(ウサン)」の由緒は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(う)の父である鯀(コン)が、東夷として追放された地の羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)にあります。東夷の後裔は、烏桓、鮮卑、契丹といった民族です。垂仁朝の鮮卑族慕容部が、日本列島を渡来征服しないで、前燕やその後の江南地域から満州に居住拠点を置いた由縁です。つまり、中国青島の近くの「羽山」は、東夷(鮮卑族)の原郷です。

以下は、不比等の主な妻と子です。
<嫡妻・蘇我娼子>
・678年頃(不比等は19歳頃)、不比等は、蘇我連子[父は蘇我馬子の孫の蘇我倉山田石川麻呂]の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎えました。
:長男は南家祖・藤原武智麻呂 (680年生~737年歿)。
:次男は北家祖・藤原房前(681年生~737年歿)。
:三男は式家祖・藤原宇合(694年生~737年歿)。

妻が五百重娘 (藤原不比等の異母妹。第40代天武夫人)と不比等との子>
:四男の京家祖・藤原麻呂(695年生~737年歿) 。

<妻が賀茂比売 [=(推測)額田王]と不比等との子>
:藤原宮子(683年?生~754年歿)[第42代文武天皇夫人。第45代聖武天皇の母]。  

4-8-6.物部宗本家と藤原氏の傘下に入った文武朝(42文武、43元明、44元正、45聖武)

 697年(不比等は38歳、石上氏麻呂は57歳)、藤原不比等は、新羅王を追放されて倭国に亡命していた第40代天武の庶子系孫の第42代文武(モンム)(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]が即位するのに際し功績がありました。第42代文武(モンム)(在位:697~707年)の妃は、藤原不比等と額田王との娘の藤原宮子です。この功績とは、第42代文武(モンム)が物部宗本家の傘下に入ることを受け入れたことが推察されます。
 三国史記新羅本記は、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)は、遺詔によって、新羅では初めて火葬された王となり、骨壷は日本海の浜辺の大石の上に葬られた海中王陵と改ざんしました。実際には、新羅第30代文武(ブンブ)王は、新羅王を追放され、倭国に避難移動しています。追放王故に、王陵が建造されませんでした。

また、藤原不比等は、阿閇(アヘ)皇女[=第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)]付き女官で第41代持統天皇時代の末頃に不比等と通婚関係になったと考えられている県犬養三千代橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、第42代文武の『妃』に額田王との娘の藤原宮子を送り込みます。
  藤原宮子は、第42代文武(モンム)(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]の夫人となり首(オビト)皇太子[=第45代聖武(在位:724~749年)]を生みます。第42代文武(モンム)には先室である新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661年~681年)の新羅・慈儀王后[=第43代(女帝)元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)(661年生~721年歿)]がいるので、藤原宮子は『皇后』になれませんでした。
 しかし、母が賀茂比売[=額田王]の藤原宮子(生年不詳~754年歿)は、史上初めて生前に正一位に叙されると同時に、史上初めて女性で正一位に叙され、皇后でも皇太后でもなかったのに史上初の太皇太后となりました。新羅真骨正統第4代首主・額田王の継嗣であるからです。『皇后』継嗣の長女・藤原宮子と庶子である次女の蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘・第43代元正とは、格が非常に違います。戦前までの日本でも、家督相続権のある長男と庶子の次男以下は雲泥の処遇差がありました。今でも、上流階層はこの文化が生きています。

707年、物部宗本家側の傘下に入った第42代文武(在位:683~707年)[=新羅第30代文武(ブンブ)王]が歿します。
  新羅・慈儀王后[=(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)]は、統一新羅の幼少王を守るために707年に新羅から急遽帰り、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に即位します。新羅・慈儀王后は、新羅第30代文武(ブンブ)王が新羅を追放された後、5歳で即位した新羅文武王の長子の新羅第31代神文(シンブン)王(在位:681年~692年、676年生)、神文王の子の5歳で即位した新羅第32代金氏孝昭(コウショウ)王(在位:692年~702年、687年生)、第31代神文王の子の新羅第33代聖徳(セイトク)王(在位:702年~737年、生年不詳)]の事実上の摂政をしていました。第43代元明は、母が蘇我宗本家分家16代右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(659年歿)]の庶子の妹娘・蘇我姪娘(メイノイラツメ)、父が第38代天智、異母兄が藤原不比等です。
 (女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)は、第40代天武の路線を継ぐ後継天皇系ではなく、幼少の子の新羅王を守るために倭国物部宗本家の傘下に入ったのです。

以上からもわかるように、統一新羅を実現した実際の主導者は、第40代天武(在位:673~686年)と孫の新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)です。そして、新羅第30代文武(ブンブ)王を追放した後の統一新羅は、興隆するどころか不安定な幼少の王権時代になります。

倭国・物部麻呂と藤原不比等の傘下に入った(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)の新羅・慈儀王后]は、藤原不比等の建議によって飛鳥・藤原宮(690年~710年)から和邇氏地盤の平城京に遷都します。藤原政権の単一制国都です。

倭国・物部麻呂と藤原不比等の傘下に入った文武朝(42文武、43元明、44元正、45聖武)は、第40代天武の孫の第42代文武(在位:697~707年)が統一新羅から追放されて物部麻呂と藤原不比等の傘下に入り、新羅王妃であった第43代元明に傘下を条件に継承させ、そして、第43代元明と草壁皇子[第40代天武の子]との子の(女帝)第44代元正(在位:715~724年)(680年生~748年歿)に譲位させ、更に、第42代文武(在位:697~707年)と藤原宮子との子の第45代聖武(ショウム)天皇(在位:724~749年)(701年生~756年歿)に継承するという、藤原氏の傀儡皇朝です。藤原不比等と美千代との娘・藤原光明子を光明皇后にするための皇位継承です。

したがって、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年、721年歿)、(女帝)第44代元正(在位:715~724年)(680年生~748年歿)は、第一位『天皇』でも第一位『皇后』でもある真の女帝ではありません。

次は、藤原氏『天皇』の実現であった筈ですが、実現できませんでした。藤原氏の政事統括者手中、藤原氏系『皇后』の輩出、和邇氏の国体の仲間入り、と着実に進み、<望月>の栄華を享受したのですが、「DNA縄文人」の『天皇』 との同位共同為政を越えて、その次の藤原氏『天皇』は今日まで成就できませんでした。何が厚い壁であったのでしょうか。

因みに、朝鮮半島は、唯一専権・覇権主義を根源文化とする鮮卑族系統の王朝が、部族系統の変更を経ながら、百済・王建[「DNA源流鮮卑族前(サキ)族、新羅昔氏」・Y-DNA「O2a2a1a1(M188, subclade-CTS201)」]が建国した高麗王朝(918年~1392年)、高麗の武将の李成桂[「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a2b(F743)」]が建国した李氏朝鮮王朝(1392年~1897年)、大韓帝国初代光武帝(1852-1919)[「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a2b(F743)」]と続きます。
 朝鮮半島の歴史は、高句麗、百済、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国は「鮮卑族」を国体とし、扶余族盟主の属国を原初とする新羅は「匈奴金氏」の国体を堅持してきました。いずれも父系制男王の専権制の国体です。
 中国の漢族は、「DNA匈奴」と「DNA鮮卑族」が二大勢力で、父系制男王の専権制・覇権主義です。中国は、国体を堅持しない易姓革命を根源文化とする国です。現在の中国は、共産主義を国体とする、唯一専権制・覇権主義の根源文化に変わりがありません。

4-8-7.和邇氏系藤原不比等と大伴氏系県犬養三千代の連携

県(アガタ)犬養(イヌカイ)三千代(後に橘三千代)(665年頃生~733年歿)は、父が県犬養東人、母が未詳です。県犬養三千代は、はじめ離別した第29代敏達天皇系皇親である美努(ミヌ)王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏(ムロ)女王を生みます。第43代元明天皇(在位:707~715年)(661年生~721年歿)と三千代は主従関係で、藤原不比等の栄達の陰には、第43代元明天皇の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられています。

不比等三千代が、娘・光明子を第43代元明天皇の子の第45代聖武の皇后に就かす尽力は、野望というよりは二人の祖はそれぞれ高貴な血統に起因しているのではと感じられます。当時の日本では、血統が皇位、皇后の必須条件であり、野望や覇権で就くことは皆が同意しないだけでなく、そのような考えを当事者がもちませんでした。中国とは違うのです。
  (女帝)第46代孝謙(在位:749~758年)が即位した時は、藤原不比等(720年歿)と三千代(733年歿)の 歿後です。即位できたのは、左大臣(743年~756年)橘諸兄(モロエ)[県犬養三千代の先夫との子]によるのでしょうか、右大臣(749年~757年、764年~766年)藤原豊成によるものでしょうか。
 (女帝)第46代孝謙、(女帝)第48代重祚称徳は、第一位『女帝』ではなく、藤原氏の傀儡です。和邇氏系藤原氏は、「DNA縄文人」ではないので、いくら覇権を握っても日本統括為政者『天皇』に就く資格がありませんでした。
    三千代の行動様式には、第一位戸売に似たものが感じられます。東国の尾張氏に匿われていた後裔でしょうか。

この頃の『左・右大臣』は、以下のようです。物部宗本家・分家系は誰もいません。
・右大臣(721年~724年)左大臣(724年~729年)長屋王[第40代天武の孫]:(女帝)第44代元正(在位:715~724年)。
・右大臣(734年~737年)藤原武智麻呂[藤原不比等の後裔系]:第45代聖武(在位:724~749年)。
・右大臣(738年~743年)左大臣(743年~756年)橘諸兄(モロエ)[県犬養三千代の先夫との子]:第45代聖武(在位:724~749年)、第46代孝謙(在位:749~758年)。
・右大臣(749年~757年、764年~766年)藤原豊成:第46代孝謙(在位:749~758年)、(廃帝)第47代淳仁(在位:758年~764年)。
・右大臣(758年~760年)藤原恵美押勝(エミノオシカツ)/藤原仲麻呂:(廃帝)第47代淳仁(在位:758年~764年)。
・右大臣(766年)左大臣(766年~771年)藤原永手:第48代重祚称徳(在位:764~770年)。
・右大臣(766年~771年)吉備(キビ)真備(マキビ)[称徳上皇の学者参謀系]:第48代重祚称徳(在位:764~770年)。
・右大臣(771年~781年)大中臣清麻呂[称徳上皇の学者参謀系]:第49代光仁(在位:770~781年)。
・左大臣(781年~782年)藤原魚名[称徳上皇の学者参謀系]:称徳上皇。
<以上>

<投稿予定>
4-8-8.平安京(784年~1869年)の一都制遷都