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政策論集3 君は多様性に耐えられるか(HSYFの時代)

 世の中、多様性という言葉があふれている。
 特にSDGsという言葉が好きな人は多様性という言葉が大好きだし、最近私も行ってみた「ウェルビーイング」という横文字を並べている人たちの中にも「多様性のある町づくり」などを訴えている。
 しかしながら、そういった人たちの「多様性」というと、たいてい出てくるのは「女性」・「高齢者」・「若者」・「外国人」(しかも想定しているのは留学で日本に来るようなまあまあの金持ち)あとは「LGBT」くらいである。

 じゃあなにか?「限界中年男性」はいらんのか?

 とまあ個人的なルサンチマンっぽいものは置いといて、実際問題並んでいる「属性」はどれも「快適」か「不快でも脅威でもないもの」に過ぎない。

 

 極端なことを言えば、上記の記事で出てくるような「明らかに異常な国立大学元名誉教授」や、その他もろもろの「やばいやつ」もまた、(少なくとも犯罪者として服役したり保護という名のもとに精神病院に入院していたりしないかぎり)存在する。
 特に、いるだけで不快だったり脅威だったり思われそうな存在として、私は以下の4者を掲げる。(順番にも意味がある。)

H(非モテ男)
S(障碍者)
Y(ヤクザ)
F(風俗)

 まず、非モテ男はなぜかいるだけで「不快」とされる存在である。実際脅威なことはまずないのだが、なぜかなかったことにされたり、(先日のウェルビーイングでも「なんとかモテるほうに」持っていこうとしていたり、そもそも問題を定義したときに「女性の意向」を聴き、揶揄するかのような「ノーコメント」という意見を垂れ流していた。重大な人権侵害である。)これを受け入れられるかどうかこそ、「多様性の一丁目1番地」である。

 次に出てくるのは障害者、特にそれなりの部分の精神障碍者や発達障碍者などの「コミュニケーション弱者」である。最近は「コミュニケーション能力」というものがやたらと重視されるせいで、彼らコミュニケーション弱者がその努力や献身に比して「割を食う」ことが多い。特に性的魅力というコミュニケーションに必須ともいえる資源に乏しく、うっすら嫌われている男性にとっては大きな問題になりやすい。これをどこまで受容するかも大きな問題になる。

 次に出てくる問題は「ヤクザ」である。このあたりから「不快」だけでまく「脅威」を受け入れられるかが問題になってくる。これは弱者男性の「もう一つの終着駅」といってもいい場所であると同時に「危険な連中」だが、同時にどうやっても「その存在を消すことはできない」ものである。かりにヤクザをやめさせるにしても、絶滅戦争でもしない限り「そこに生きている人間」を消滅させることはできないのだ。そして、ヤクザそのものは(しのぎが根本的に違法であることが多いのはおいといて)とにかく「暴力しかない」弱者男性をどうにかコントロールしている組織であるともいえる。(こういうと大抵「ヤクザとか暴力団を肯定するのか!」と言い出すやつがいるが、そいつらには「じゃあ消せるか?」と言い返す。)

 最後に、上記3つの問題がすべて絡む上、さらに難易度の高い利権が絡む「風俗」の世界である。もちろん、「風俗」の世界には意欲的でガッツリ稼ぐタイプの女性もいたり、相応のサービス水準と相応の料金でやり取りしているケースも多々あり、そういうケースはあまり問題にならないのだが、一方でまともは「昼職」が務まらなかったり、精神や知能に何らかの「特異性」があったり、人間関係上の失敗があったりとあらゆる「問題」が集約される「風俗」を受け入れるかどうかが大きな問題となる。これも「違法風俗に近いモノ」を「消滅」させることは不可能だろう。

 そして、重要なのはこれら「多様性に伴う不快あるいは脅威となる人」の包摂を「行政」に丸投げせずに地域社会全員で「リスクはあるけど受け入れる」と覚悟を決め、公共空間に存在したらきちんと「自分で対処する」ことである。行政に任せてしまうということは、すなわち「分断」しているのと同じことであり、多様な社会とは言えなくなる。そうなれば、先の記事のように「公共空間」を管理できなくなった行政が「公共空間を消滅させる」という決断をすることになるだろう。

 「SDGs」や「ウェルビーイング」のような「キラキラした人たちのキラキラした世界」を作ろうという「ワーディング」に対抗するため、「HSYF」という」言葉を作らせていただいた。願わくば、この言葉が差別の象徴ではなく、「HSYF」の延長にある、私の想像も及ばないような様々な人を受容する地域社会へのスローガンとして、使われることを願うものである。さもなくば、「不快なものを排除した結果不快なものに耐えられなくなる社会」が出来上がるであろう。