『調べる技術 書く技術 誰でも本物の教養が身につく知的アウトプットの極意』を読んで。
書名:『調べる技術 書く技術 誰でも本物の教養が身につく知的アウトプットの極意』
著者名:佐藤優
出版社:SBクリエイティブ
発刊年:2019年4月6日発売
読了日:2022年12月22日
■はじめに
タイトルに標榜している以上に幅広く有意義な情報が詰まっている一冊だ。
ノウハウとして具体的な書名や方法を挙げている上に、知的アウトプットのインフラ作りと称して生き方やマインドセットにまで具体的なアドバイスを行っている。これは凄い。
個人的に気になったポイントをいくつか挙げてみる。
■AIが人間の労働を完全に開放することはないか
まず「人間が労働から解放されることはない」の項で、
「AI技術はあくまで技術。人間の最新の補助ツールの1つでしかない。」と佐藤氏は断言し、
労働とは、人間が自然界に働きかけて、何かしらの成果物を得ることである。
その原理原則がある限り、労働のすべてをAIが担うようになることはない。
という旨を述べている。
ここにはやや違和感あり。前後の主張の関連性がいまいち見えない。
「人間が」自然界に働きかける、というのが労働の定義であるのなら、確かにAIによって置き換えられた仕事はもはや「労働」とは呼ばなくなるだろう。
ただそのことを言っているわけではないような気がする。
人間が自然界に働きかけて何らかの成果物を得る、というのは、
例えば畑で作物を作る、畜産で食肉を得る、食品を加工、流通する、天候を予測し、天候に左右されずに過ごせる建物を作ることなどがまず考えられる。また綿を育てたり、石油を掘ってエネルギーを生産したり、石油を加工して化学繊維を作ることも当然含まれるだろう。
つまり衣食住の基本は自然界への働きかけに他ならない。
これらはAIで代替可能ではないのだろうか?
AIで代替可能な作業は年々広がっている。
定形、反復なものから、クリエイティブなものまで出てきた。
もちろんAIだけで代替可能とは言えない。
例えば畑を耕し、ジャガイモを掘り出すためには、物理的な働きかけが必要なので、AIが頭脳だとすれば、身体となる道具、ロボットが必要になる。
そしてそのコラボレーション、社会実装は、コストさえ度外視すればかなりの部分が可能だろう。
このコストというのがまず一つ目のハードルで、ジャガイモを潰さずに丁寧に掘り出すとか、種まきから水やり、収穫、仕分け、梱包、運送の一連の流れをすべてシームレスにAIとロボットに置き換えるためのコストを考えると、
よほど人間が代替した方が安く済んでしまう。
汎用AIの実用化はまだ先と見積もられているし、汎用AIが出来たとして、汎用ロボットはさらに先になる。
2つ目のハードルはプロンプト部分、即ちAIに対して、何をしてほしいかを指示する点にある。
気まぐれで不完全な人間の気持ちや意図を完全に読み取るのは、人間でも不可能と言っていいと思う。
そう考えると、人間は勝手に動くAIに対して、今の自分の気持ちや意図を適宜与えて方針を変えさせるか、AIのやり方に完全に乗っかって人間がその意思や行動を変えるかのいずれかの関係性に落ち着くはずだ。
AIが人間の仕事を完全に代替するのはこの後者のパターンを指すわけだが、知識欲やクリエイティビティやフィードバックを求めての他者貢献といった根源的な欲求が人間にある以上、全ての人が後者のパターンに当てはまるとは考えにくい。
佐藤氏の主張がそういった意味合いであるかどうかは定かではないが、自分なりに行間を読めばそういう意味と受け止められる。
落合陽一はIT環境も踏まえて新しい「自然」と呼ぶ(デジタルネイチャー)。
その認識では、人間はデジタルネイチャーへの働きかけ(労働)からも成果物を得て、そして生きていく。
AIが発展すれば新たな仕事が生まれる。
そういった視点でも、仕事、労働に携わる人が新たに生まれるため、完全になくなるというのは非現実的だろう。
現実的にはコストを計算に入れて、AIが多くの仕事を奪ってもなお収入を得て生きていくためには、上記のような総合力が確かに必要となっていくだろう。
■語学を切り捨てること
「仕事に関するインプットだけ行う」と決める、の項について。
英語、ロシア語、ドイツ語、チェコ語など複数言語を高いレベルで習得している著者が断言するのだから説得力がある。
自分は英語とフィンランド語が日常会話レベル、ロシア語とスペイン語が旅行者レベルで話せる。
趣味としての楽しさや、コミュニケーションが取れることの喜びや、共通言語を使うことでより深く相手の心に近づくことができるというメリットは大きいが、
費用対効果を考えると確かに非常に低い。
多大な時間を割かれる割に金銭的なリターンは恐ろしく低いし、英語が使えれば大体の場合事足りてしまう。
中国語、アラビア語、フランス語など、自分が追加で身に着けたい(勉強してみたい)言語はほかにも多いが、
多忙な身としては勇気をもって切り捨てる決断が必要かもしれない。
■SNSとメッセージアプリを使わない生き方
『SNSと賢く付き合う』の項も興味深い。
「使うかどうかで、「生涯所得」と「出世」に関わる」において、佐藤氏は以下のように主張している。
これは中々悩ましい。
SNSによって時間が奪われるのはその通り。
そして多くの場合、SNSに費やす時間の大半が、不要な情報の閲覧になってしまっている。
情報発信し、集客やブランディングやマーケティングにSNSを活用する上でSNSは優秀なチャネルとなるが、一言つぶやこうとアプリを開いた瞬間に、他人の情報に目移りし本来の目的を忘れてしまうことが少なくない。
フィルターをかける、閲覧したくないユーザをブロックする、閲覧した医ユーザだけのグループを作るなど手間をかけることで余分な情報をそぎ落とすことは可能だが、そこまでの間に意識を奪われるため、リスクを考えると離れてしまった方が効率的なのかもしれない。
「メッセージツール」は使ってはいけない、と佐藤氏はまた主張する。
その理由は以下だ。
書き言葉が話し言葉に取って代わることで読解力が下がる
仕事に無駄話が入りやすい
通知により思考が中断される
スタンプの使用によってパターン思考に陥り、自分の頭で考え、アウトプットする力が衰える
なかなか普段他では聞かない主張なので新鮮だ。
IT業界においてはむしろ電話・メールこそ非効率で撲滅すべきものであり、
チャットを活用するのがベストプラクティスとなっている。
メリットと以下だ。
電話によって作業が中断されない
都合の良いタイミングで返答できる
送った情報の修正が瞬時に可能
余計な挨拶や枕詞を省くことが出来るため話が早い
LINEやメッセンジャーのようなメッセージアプリには確かにスタンプや顔文字が豊富で、それによって感情を文章よりも素早く、深く伝えやすくなっている。
確かにスピード重視しすぎて、文章力が下がるデメリットは大きいだろう。
普段、仕事においてもプライベートにおいても、話し相手のコミュニケーション能力の低さを強く感じる。
ただし、優秀な人とはそうとも限らない。
チャットやSNS状であっても的確だったりユーモアや独特の表現力や語彙力を駆使して質の高いコミュニケーションができる。
一方で、上司や親世代など年配である人ほど、
SNSでもメッセージアプリでもメールでも、
暗号のごとく意味不明な日本語を使ってくる。
結局のところ、以下の点を別途押さえておくことにより、無理にメッセージアプリを断つ必要がなくなる、と思う。
・きちんとした言葉で文章を書き、情報を人へ伝えるためのスキルを磨く
→アウトプットの機会を日常的に生み出す
・公私によって文章の使い方を分ける
→仕事のメッセージアプリでは無駄話やスタンプなどを控える
メッセージアプリはともかく、SNSは、控えよう。
以上
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