ナイトクラブとゲイ友と幽霊👻80'sマンハッタン生活 #グリニッチ・ビレッジとゲイパレード
私が住んでいたのは、マンハッタンのダウンタウンにあるウエストサイド地区のグリニッチ・ビレッジ。
7番街(7th Avenue)のモートン・ストリートのアパートメントに一人暮らし。家賃は700ドル。広めのリビングとベッドルームにキッチン。バスルームも割と広くてお気に入りの部屋だ。当時は1ドルおよそ100円だった。
リスがたくさんいるワシントン・スクエア・ガーデンやブルーノートにも近く、「セックス・アンド・ザ・シティ」のキャリーのアパートには5ブロックほどのところだ。(80年代中頃なので当時はまだこの番組はなかった)
マンハッタンは、昔から多様性を受け入れる文化が根付いている。『人種の坩堝』と言われていたが、グリニッチ・ビレッジはとくにLGBTのコミュニティの聖地として知られていた。が、私はそんなことは知らずに街の雰囲気が気に入ってここに決めた。
しかし仲良しはゲイの子が多かった。私自身、男っぽい性格もあり彼らといるのはとても気がラクで楽しい。そして彼らは皆日本語が話せた。
私が東京広尾に住んでいた頃に居候していたパトリック、パトリックのパートナーのナオ、白人ゲイ専門のクラブで声をかけてきて仲良くなったマーク、そして日本人のゲイの男の子と同居していたユミちゃんと仲が良かった。
ある時、パトリックがゲイ・パレード(現在のNYC プライド・パレード)に参加するというので、私も一緒に参加することになった。
ゲイ・パレードはLGBTの文化と誇りを称え、愛の平等と彼らの人権を訴えるイベント。これは1960年代から始まったムーブメントだが、おそらくストレート(ゲイでない)の日本人女性がニューヨークのゲイ・パレードに参加したのは私が初めてかも?
当日、広場に多くの人々が集まってきた。「Boy bar」で知り合ったドラァグ・クイーンの子たちも目一杯おしゃれしてきている。
そして、スタートの合図もなく先頭が動き出したので歩き出した。最近のゲイ・パレード(プライド・パレード)では山車が出たり、レインボー色の大きなフラッグがたくさんあったり、人数もすごく多くまるでストリート・フェスティバルのようになっているが、当時はもっとシンプルだった。
とは言え、彼らの存在感や派手さ、パワーは大きかった。
何か掛け声を上げながら街を練り歩くのだが、何を言っていたかは覚えていない。ただ、私は彼らの理解者であり味方でありたいと思いながら歩いていたように思う。私は彼らに一切の偏見がなかったので、世界中の人たちにもそうなってほしいと願っていた。
彼らは、自分自身を偽らず、ありのままの姿で生きることの大切さを教えてくれた。
パトリックは英語ができない私のニューヨーク生活のヘルパーだった。そのお礼に私も毎日のようにお弁当を作って届けていた。
彼の勤務先にお昼時に迎えに行き、セントラル・パークでいろんな話をしながら一緒に昼食を食べたことは鮮明に覚えている。
あまり良いものを食べていなかったのか、「Save Patricね!(パトリックを救う)」と言ってお弁当を喜んでくれたのが心に残っている。(当時イースト・ヴィレッジにあったアンダーグラウンド・クラブ「Save the Robots ロボットを救え」にかけてそう言ったのだろう)
毎週金曜日には、パトリックのパートナーのナオがDJプレイしていた白人ゲイディスコで一緒に踊った。
ミッドタウンのアベニューで、イヤホンジャックが2つあって同じ曲が聴けるウォークマンで、ナオにもらった彼のMIXテープを聴きながら二人で踊りながら歩いたのもとても楽しかった。
後にパトリックはHIVポジティブ(エイズ)だったとわかった。
1990年代に日本に帰国してカミングアウトし、日本におけるHIV・AIDSの啓蒙活動の第一人者となり、本を書いたり、週刊誌に連載を持つなどちょっとした有名人になった。
しかし、彼は残念ながら若くして亡くなってしまった。死因はエイズではなく別の理由だった。日本で仕事がなく、生活に困窮して栄養失調で亡くなってしまったのだった。
私は当時パトリックとは疎遠になっていたので、何も知らなかった。本当のSave Patricできなかったことが残念でならない。
貴重な体験をさせてくれたパトリックに感謝と冥福を祈るばかりだ。
日刊SPA!より
実は、私もパトリックの連載のゲストとして登場している。