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彼女の一周忌

目覚ましより10分早く目が覚めた。意識がハッキリすると共に激しい雨音がボリュームを増す。雷雨。曇天の夜明けのブルーグレーの室内を白亜の光が神経質そうにピカピカっと照らした。数秒後には空が割れるような轟音。眠っていながらも雷鳴に怯えたのか、息子が隣で「ふえっ」と小さく泣いて寝返りをした。完璧な雷雨。
涙雨、というには激しすぎる。淑やかで隙のない美貌の内側に、こういう気性を秘めていたよね。
今日は、彼女の一周忌だった。

この空と同じくらい、気は重かった。行きたくない…というのが本音ではあった。
「息子君連れで良いから、一周忌の法要には出てあげてください」
彼女のお姉さんからそう申し出を受けたのは、7月の終わり。彼女の新盆に伺おうとしたのだが彼女の家族に感染症の疑いがあるため断られた時である。その代わりと言っては難だけど、一周忌には是非、ということだった。
馬鹿だと思うが、それとも、置いていかれた人間は皆そうなのか、私は彼女を完全に失った今になって、彼女のためなら何でもしたいと思っている。生前は、誕生日などにプレゼントを貰うばかりであげることは滅多になかった私なのに。もう受け取ってもらえているかなど確かめようがないのに、花やら線香やら置物やら、この1年送り続けた。
こんな調子なので、一周忌に出られるというのは望外の喜びであった。彼女が喜ぶかなんてわからない。ただの贖罪にしかならない。それでも私は一生、後悔したり懐かしんだりしながら彼女を手放したくない。
が、前日の台風が近づいているという報せ、そして当日のこの雷雨に、私は一気に憂鬱になった。誰かと遊ぶ約束をしていても、そしてその行き先がショッピングモールやカラオケであったとしても、雨天中止にする根性なしの私である。慌てて買った、セールで5,000円しなかった黒のドレス…昨日コンビニでこれもまた慌てて買ったギッチギチの黒いストッキング…そして久しく履いてない黒のお上品なパンプス(最後に履いた時から10㎏は太っている)……これらを身に付けて、大抵の子育て経験者も絶句するレベルのヤンチャ男児を連れて出掛けるのだ。この雨の中。そんな装備で大丈夫か?大丈夫じゃない、問題しかない。
息子を連れていくということについて、煩雑さ以上に私は怒りを抱いていた。元を辿れば31にもなって無免許であったり、何だかんだ言い訳をしてファミリーサポートやらの公的支援を利用していなかったりするズボラな私が悪い。でも、1年に……いや、数年に一度の、誰より特別な友人の法事に行くのに、母も夫も叔母も誰も息子を預かろうとしてくれなかったという非情さに私は怒りを覚えていた。良くないことだとはわかっているが、私にはどうしても病気になってから家族に対して「いつ死ぬかわからない私の願いを叶えてくれないなんて!」という悲劇のヒロイン的な傲慢さがある。
そしてこんなとき私は、彼女が昔話したことを思い出す。
「お父さんもお母さんもね、実家に帰っておいでっていうの。お金なんか気にしなくて良いから、って。インドもね、全額出すから行ってみたら?って言う」
そしてわからなくなる。母に「手術なんてしなきゃ良かった」と言われ、父に「死んじゃえば?」と言われた私が何故今も一日でも長く生きたいと願いながら癌と戦っていて、何故こんなにも愛された彼女が、自分からこの人生を降りてしまったのか。私なんかよりずっと、生きていて喜ばれるはずの彼女が。
このような息子を連れていくということへの憤りの他にもう1つ、私の気持ちをぎゅっと重くしていたのは、お経だった。私はまだ、見たことがないのである。彼女の遺影が微笑んでいて、その真下で僧侶が読経しているという、こういった儀式にお決まりの光景を。
そう、私は、彼女の葬儀に出ていない。

朝の支度は戦争だった。アウトドアブランドのTシャツとUNIQLOのレギパンが常の私が見慣れぬブラックのドレスを着ていることで息子は興奮し、安物のサリサリ鳴る生地を思い切り引っ張った。私は私で基本緊張しいなので約束の時間まで腹を壊し続け、トイレに行く度にトイレのスッポン(ラバーカップ)やトイレットペーパーを弄りたがる息子と激しい攻防を繰り広げた。
9:30頃、彼女の家族が迎えに現れた。彼女のお墓があるのは隣町の著名で広大な霊園である。遠方にあるため、車の免許を持たない私はご家族の車に同乗させていただくのだ。車に着くと、彼女のお父さん、お姉さん、そしてその息子である彼女の甥が乗っていた。私と息子が乗るせいで、彼女のお祖母さんとお母さん、そして叔母さんは別の車で向かうことになったらしい。
車が走り出してすぐ、お父さんが世間話のように口を開いた。
「RONIちゃんはお葬式には来れなかったのは当然として…四十九日にも来れなかったんだっけか?」
何故四十九日に出られなかったのか私自身よく覚えておらず、その頃の記憶を引っ張り出すより早く後部座席からお姉さんの声が飛んできた。
「それはアイツが意地悪したからでしょー」
やれやれという笑いを含んだお姉さんの声に、私も彼女の薄く細長く行儀よく並んだ形の良い筆跡を思い出した。
「アイツって誰?」
「ゆっちゃんだよー」
彼女はご家族からゆっちゃんと呼ばれていた。それは彼女の名前に付くニックネームとしては珍しいものだった。
「ゆっちゃんが変な意地張ってRONIちゃんのこと旧姓で書いてたし電話番号も何か違うの書いてあったんじゃん!だから連絡付かなかったんじゃん」
「そう、実家の番号でした。もう繋がらないやつ」
私も言い添えた。
彼女は遺書に、自身の死を知らせてほしい相手として私ともう一人高校時代からの友人の名とその連絡先を書いていた。しかし遺書にある私の名前は旧姓で、電話番号はもう繋がるはずもない解散した実家のものだった。結婚したことも、私には帰る実家がなくなったことも、彼女は当然知っていたのに。

私と彼女とは、喧嘩別れだったのである。
どうしても生きたい私と、どうしても死にたい彼女は、私の癌をきっかけに波長が合わなくなった。10代半ばから強い希死念慮を訴え始めた彼女を、10年以上宥めてきた。どんなに私にとって彼女が大切か、何度も説いてきた。でも癌になり、抗いようもなく死ぬかもしれない未来が見えたとき、彼女の「死にたい」という言葉は、ただ羨ましく腹立たしい愚痴にしか聞こえなくなったのだった。「病の貴女ですら私からしたら羨ましい」と言われたとき、私の中で何かが音を立てて切れた。
22年間、何となく皮肉ることはあっても正面から怒りをぶつけたことはなかった。
「今の貴女とはわかり合えないと思う。生きるも死ぬも自由に選べる健康体を大事にね」
これが私が、22年間で初めて彼女にぶつけた怒りだった。そして、それは最初で最後にぶつけた怒りになってしまった。
去年の9月の終わり、彼女の恋人だと名乗る男から、彼女の訃報を聞いた。上記の理由で連絡が付かず、報せを受けたのは亡くなった日から10日以上後だった。22年で初めての正面切った仲違いから、2ヶ月が過ぎた頃だった。
だから私は、彼女のお葬式には出られなかった。
そう、つまり私が、「彼女の死」を突き付ける儀式に出るのは今日が初めてなのである。

霊園に付くと、お母さん、お祖母さん、叔母さんが既に待っていた。三者三様に「いつもありがとね~」「小さい子居るのにありがとね~」などと私を歓迎し労る言葉で迎えてくれた。彼女の死から、彼女の家族との交流が濃くなった。いつも思う。愛に溢れた、全うな家族に生まれて何故、と。
礼拝堂が開く10:30まで待合室で待機した。息子は2つ歳上の彼女の甥に遊んでもらって上機嫌だった。
「ちょっとお手洗い行ってきます」
私は緊張から頻尿になっていた。トイレは離れの庵に作られていた。息子の手を引いて出ようとすると、ご家族が口々に引き留めた。
「え?RONI坊くんも行くの??」
「もうおトイレできるの?」
「あ、いや、この子はまだしないです、オムツです」
私は今後の展開が読めるだけにシドロモドロになった。そして案の定、「見てるから置いていきなよ!」と皆さんが口を揃えた。少しトイレに行くだけで、まったく他人の子供を見ていてくれる。全員が。快く。私はまた、ここに来るのに息子を預かってくれなかった母や、息子には一度しか会いに来たことがない父を思い出した。このご家族と一緒にいればいるほど、何故彼女が、そして何故私は、の問いは増えていく。

庵のような建物のトイレは薄暗かったがキレイな作りであった。電気を付けると、大理石の洗面台の大きな鏡の中に、黒のドレスを着て母に借りたパールを付けた私がいた。両袖がレースになった黒のワンピースは喪服にしては派手であった。しかし、彼女のご家族が一家で服飾関係の仕事をしていることや、彼女自身が着道楽だったことから敢えて華やかさを出してみた。結婚式に着ていけなくもないデザインである。
「何してるの。なんの式なの、これ」
心で鏡の中に問いかけた。とにかく痩身で、大きな幅広二重の目と小振りで形の良い高い鼻、半月形に色っぽく微笑む口もと─────そんな彼女とは似ても似つかないのに、私は鏡の中に私ではなく彼女が写っている気がした。
「こんな式に出るはずじゃなかったのよ」
私は鏡の中の自分に、彼女の面影を重ねて責めた。主役がいない待合室に、和気あいあいと集まる家族を思った。これが結婚式だったなら。この先に待っているのが、純白のドレスを着た世にも美しい彼女だったなら。ねぇほんとうは、そっちが正しい未来だったんじゃないの?ねぇ。答えなさいよ。
私は見慣れた自分の少し釣ったキツイ目元に、憤りが燃えているのを認めた。

礼拝堂のステンドグラスの下に、もう何度も目にしてきた彼女の遺影が据えられた。私の記憶の中の彼女は、ワンレンでウェーブのかかった黒髪ボブに鮮やかな緑のインナーカラーが映えた美人にしか似合わない髪型であったが、遺影の写真は彼女にしては驚くほど凡庸な黒いロングヘアだった。亡くなる半年くらい前の写真ということだった。妊娠や癌治療で、そもそも彼女とは2020年1月に会ったのが最後だったのである。彼女が結局、妻の私とも母の私とも癌患者の私とも会うことがなかったように、私にも会ったことがない彼女がたくさんいて、この遺影はそのうちの一人だと、そんな気がした。
愛想の良いベビーフェイスの僧侶が現れ、経典を配る。しめやかに式が始まる。
……が、2歳前の男児がしめやかな式にしめやかに参列するはずがなく、私は最後列で立ったり座ったり、揺すったり宥めたり叱ったりしながら息子が大人しくなった隙を見て読経に参加するという有り様であった。涼やかな礼拝堂で一人、滝汗をかいていた。
お焼香が始まった。私は育ちが悪く常識のない女なので、あの粉をどうするの?などと不安げにお父さんを見つめた。手を合わせ、振り返り、お辞儀をする。遠くて表情はわからないが、席に戻ったお父さんが目元に黒い何かを当てたのは見えた。
お母さんが終わり、お姉さんが終わり、お祖母さんの離席を待っていると、お祖母さんと叔母さんがこちらを振り返った。二人の手が揃って私が先に行くように促していた。先日会ったときのお父さんの言葉が思い出された。
「平日でごめんね。ほんとに身内だけでやる式なんだ」
友達だから、当然最後だと思っていた。ご両親がいて、お姉さんがいて、その後だと。このご家族が、身内として私を呼んでくれていることがわかった。そして、「お姉さんの次」というこの位置にいるのは、ほんとだったら、ねぇ、貴女なんじゃないの?そこで笑っていないでさ。
息子をしっかり抱いて、お焼香に向かった。例の粉をつまんで、自分の額と息子の額に当てた。遺影を見据えると、やっぱり彼女は気後れするほど美しかった。この笑顔の前で、お経が流れている。この式は、紛れもなく、彼女がもうこの世にいないことを意味している。
瞳は彼女の笑顔を捉えているのに、耳からは南無妙法蓮華経が入ってくる。何を言ってるんだかわからない異国の呪文のような言葉の羅列に不意に、彼女の名と、あの日の日付が混ざる。新しい、あちらでの彼女の名も聞こえる。初めてリアルに突き付けられた事実に、両目がカッと熱くなった。私が囁く「南無妙法蓮華経」が、頼りなく揺れる。やっぱりそうなんだね。ほんとうに、「そういうこと」なんだね。

式典の後はお墓参りだった。
背の低いよく磨かれた御影石の前に、気高さすら感じる真っ白い百合の花束が2つ据えられた。彼女は青が好きだったから、私はよくお墓参りには青い花を選んだけど、その一点の斑もない純白の百合は、ヒリヒリするくらいの努力で美を守り、その美貌に絶対の自信と誇りを持っていた彼女によく似ていた。
お墓の前で、お祖母さんが甥っ子に話しかけているのが耳に入った。
「これがお墓。ほらこっちの石。ここにゆっちゃんの名前があるでしょう」
まだ漢字など読めるはずもない3歳の甥に、お祖母さんは言い聞かせるように示した。名前は確かにある。でもこれは石だ。遺影の前でお経を聴いた時に沸いた実感がまた薄れていった。石はあくまで石。たぶんここに彼女はいない。昔大流行した歌の歌詞が頭を過った。
ここでもまた、お姉さんの次にお線香をあげる順番が回ってきた。息子を抱え墓石の前にしゃがむと、息子は線香の先端を触りたがった。彼女にかける言葉を探す前に、息子の火傷を心配したお祖母さんがかけよってきて、私は誰にも聴こえない声で「なんか、ごめん」と囁いて雑な手付きで線香を詰めた。しっかり手を合わせる暇がないことを謝ったつもりだったのに、その謝罪に見合わぬくらい、私の声は震えて湿ってしまった。

なんとか、息子を抱えた法要が終わった。私は体育祭あとのようなジットリとした肌に安物の生地が張り付くのを感じながら再びお父さんとお姉さん、甥っ子の乗る車に乗った。
「次はどこ行くの?」
甥っ子がお姉さんに聞いた。
「ラーメン食べに行くよ!」
「ラーメン屋さん?」
「いや、中華屋さんかな」
そうか、皆さん今日は帰りに中華を食べるんだな…。私は帰ったら息子にご飯あげて……その後パンでも食べるか…。そんなことをぼんやり考えつつ眠気と戦っていると、お姉さんが慌てたように声をあげた。
「わー!寝ちゃう!RONI坊くんが寝ちゃう!」
振り返ると息子は半分白目のメンチ切ってる顔をしていた。
「あー、たぶん眠いです!寝ちゃいます!」
普段遅寝遅起きの我々親子は実はずいぶん無理をして早起きをしていたのである。お姉さんは「かわいいー」と笑いながら気を取り直したように
「でも寝ちゃってくれた方がRONIちゃんゆっくりご飯食べられるか!」
と私に声をかけた。
「え?あ、まぁ、はい、そうですね」
あれ?私も行くの?中華料理屋さんとやらに??
コミュ障著しい私は「私も行くんですか」とも「私たちは帰ります」とも言えず、「まだ外食したことないんですこの子!」とだけ言って慌てた。息子のあまりの腕白ぶりに、我々夫婦は外食などとうに諦めているのである。もしこの後本当に私と息子も行くとしたら、これは息子の外食デビューである。よりによって他所様からのお呼ばれがデビュー戦とは……
一人悶々と焦っているうちに、車は市内有数の高級中華料亭に入った。

結婚式の披露宴やマナー講座に使われるちゃんとしたお店の、ちゃんとした個室に通された。何年振りかに目にする回るテーブル。窓から見える中庭の大きな池には錦鯉が見えかくれしている。こんなお店、独身時代だって来たことがない。
ご家族だけかと思いきや、先程の僧侶も現れた。私はそこで初めて思い知った。そうか、法要は終わってなかったのだ…これも一周忌の一部だったのか……。全体的に若くてファンキーな家庭で育った私はこの手の行事に出たことがないのである。
ガチガチに身構える私に反し、息子は見るもの全てに手を伸ばし破壊しようと努めた。次々に出される高級中華をお母さんによそってもらい続け、そのお礼を言う暇もないほど私は息子の粗相を食い止めることに明け暮れた。お父さんは僧侶と世間話に花を咲かせていた。
しばらくすると、私が何も食べていないことを見かねたお姉さんが息子の相手をしてくれることになった。そうして甥っ子と遊ばせているうちに、3歳と1歳という小さい人同士の人間関係ができたのか、ひたすら円卓の回りを追いかけっこするという遊びに落ち着いた。
ようやく息子以外に意識が向くと、お父さんと僧侶の会話が耳に入った。ちょうどお父さんが私のことを僧侶に紹介していた。
「彼女は娘の親友なんですよ。小さいときから仲が良くて。だから身内として呼んだんです」
「それは娘さんもお喜びになるでしょう」
……ほんとうに?私は、中学の卒業式で彼女からもらった手紙を思い出した。
「この言葉を使うのは、私としても面映ゆいのだけれど、貴女は私の親友よ」
「友達」という言葉すら、恥ずべきものだと思っているような少女だった。たぶん彼女は、素直に喜んだりしないだろう。「子供連れって大変なのね」そんな皮肉を言ってから、フフッと美しく笑うんだ。私にはわかる。お父さんと僧侶の背後の飾り棚に据えられた遺影をチラリと見た。そう、そうやって得意気に笑うんだ。

宴も終盤、杏仁豆腐を息子の口に突っ込んでいる辺りで、お父さんが突然私に水を向けた。
「RONIちゃんがあの子に最後に会ったのはいつ?」
「2020年の……1月です」
「そんな前かぁ。そのときどんな話をしたの?」
「お互い、結婚するしないの時期で…」
お父さんの顔が曇った。そう、彼女の希死念慮が強くなったのはこの頃だった。彼女は将来を誓った相手に裏切られ、私はその1ヶ月後に結婚し、さらに1ヶ月後に妊娠した。私が妊娠した辺りから、彼女との歯車がズレ出した。妊娠を打ち明けたとき、「貴女は私の知ってる人の中で一番母親が似合わない」彼女はそう言った。でも、だけど、それでも。
「会ったのはそれが最後でしたけど、息子が生まれたときはお祝いを贈ってくれました。私がミッフィーが好きなので、ミッフィーのぬいぐるみとか、ボールペンとか、コースターとか。よだれ掛けもありましたけど、でも、ほとんど私への贈り物でした」
お母さんが涙を拭ってるのが視界の端に見えた。
「私の病気がわかったときも、乳癌なんで、受精卵凍結にもちょっとリスクがあって…ホルモンの関係で…。だけど私は息子に兄弟を作ってあげたかったので凍結するかしないか悩んでたんです。その話したら、『私としては、会ったこともない貴女の息子のためにとかより、とにかく貴女自身を大切にしてほしい。貴女が本当にしたいように決断してほしい』って言ってくれました」
そう、その時はそんな彼女の言葉に、親なら子供第一に考えるだろう、なんでそれがわからないんだ?私自身がどうかなんてどうでもいいんだよ、って頭に来たっけ……。だけど、でも、そうじゃなくて……
「思えばいつでも、私のことを、本当に大事に思ってくれていました」
そう言いながら、泣くこともできた。でも、それじゃダメだと思った。震えても良い、掠れても良い。伝えないと。彼女がどんなに大きな愛を与えられる人だったか、皆さんに伝えないと。
振り返ると、さっきまで凪いでいた中庭の池に、ものすごい量の雨粒が打ち付けていた。突然の豪雨。聞いていたの?遅かったよね、私。何もかもが……
湿っぽい空気を入れ換えるように、叔母さんが明るい声色を作って言った。
「それだけいろんなことを話せる相手ってさ、なかなかいないよ。なかなかそんな友達出会えないよね!」
「そうですね。ほんと、彼女だけです」
私はたった一人の、二度と出会えない人と、悔いが残る別れをしたのだ。それはどう頑張っても取り返しのつかないことなのだ。「彼女だけです」という私自身の言葉が、私の頭から爪先までを鋭く貫いた。

帰り支度をしていると、お祖母さんが小さな紙袋をくれた。
「こういうところに来てくれるのが嬉しくって。あげようと思って持ってきたの。ウチのお店のだから、あげるってのもおかしなもんだけど」
おばあさんは彼女の両親が経営する洋服屋さんの片隅で手芸用品とお化粧品のお店を開いていた。遊びに出掛ける前、彼女と二人、「ちょっと行ってくるねおばあちゃん」なんて一声かけに行ったものだった。あの時のあたたかみある毛糸とスタイリッシュな化粧品の小瓶が寄り添う、ちぐはぐだけどホッとする光景がよみがえってきた。
「小さい二人がよくテレビの前にずっと座ってたねぇ。何が楽しいんだかわかんないけど」
とお祖母さんが懐かしそうに言う。彼女の家の、ウチのテレビの3倍はありそうな大画面のテレビで、小学生の頃はセーラームーンを見ていた。小学生も十分子供なのに、「お子さまが観るものを敢えて観てる私たち」に酔ってた。中学生の頃は、『ティファニーで朝食を』を観ていた。いつかあんなちょっと擦れたオシャレで切ない恋をすると夢見てた。高校生の頃は、マイケル・ジャクソンのPVを観てた。「ここのマイケルがほんとに可愛いの!」と騒ぐ彼女を、ミーハーだなぁってからかった。そうしてテレビの横の時計が17時を告げると、私は迎えにきた母の車に乗って帰る。見送る彼女を見て母が、「すごい細いねぇ……ほんとにキレイになったよね」と溜め息交じりに感嘆していたのを今でも覚えている。
帰りたい。あのゴールデンウィーク、あの夏休み、あの冬休み、あの春休み、あの土曜日、あの日曜日に……

料亭を出ると、他の家族が先に車へ向かうのを見計らったかのように叔母さんが私を引き留めた。
「私ね、貴女の方が心配」
あー…。乳癌のことかな?私は身構えた。
「私の友達って言うか、前の会社の子の友達がね、やっぱり同じような理由で亡くなって…」
私は面食らった。これは癌患者あるあるの、癌で亡くなった人の話を突然振られるやつ……?
「そしたらそれからその子どんどんおかしくなっちゃって……だから私は貴女の方が心配。この後のこともずっと応援してる。親友を亡くすって、それだけ大きなことだから」
ああ、そっちか。「同じような理由」とは、乳癌じゃなくて、彼女と同じような理由、か。独身の叔母さんにとって、彼女は娘同然だったはずだ。そんな大事な存在を亡くしても、他所のウチの子である私のことを心配してくれるなんて。
……そう、ほんとにそう。私おかしくなったんです。朝まで寝られない日もありました。息子を抱えて泣き続けた日もありました。衝動買いで幾ら遣ったかもわかりません。お風呂で剃刀を手首に当てたこともあります。……そんなこと、叔母さんが見透かしているはずはないし、言うつもりもない。ただ私は、
「家族みたいなものでしたから……」
と答えた。
「家族以上でしょう?」
叔母さんの声はハッとするほど穏やかだった。
「……はい、そうですね、それは、本当に」
さっきまでの通り雨が黒々と濡らしたアスファルトに、妙に親しみを覚えた。

家に着き、私はお祖母さんにいただいた紙袋を開けた。Kaneboの包装紙にラッピングされた小箱が入っていた。パックかな?化粧水かな?コスメオタクで物欲まみれの私は不謹慎にもウキウキと小包を開けた。
現れたのはペールブルーの鏡のように輝く箱だった。それは、2019年のミラノコレクションだった。
ほしいと思いつつ、高価ゆえに手にしたことがないフェイスパウダー。
「来てくれるのが嬉しくって」
というお祖母さんの言葉を思い出す。こんな高価なものを選ぶほどに?私はそんな大したことはしてない。ただ私は、一生彼女への贖罪をしていたいだけ。そうして彼女と繋がっていたいだけ…
浮き上がる「2019」という飾り文字。2019年…私たちは28歳。私は高校3年生の担任で、婚約中で、癌ではなくて。彼女は愛する人と暮らし始めていて。どんな幸せを手に入れることも、私たちなら簡単だと思っていた、あの頃。
「こんなことになるなんてね?」ミラノコレクションの天使に笑われている気がした。それは意地悪な見えざるものの声か、それともペシミストな彼女の声か……

疲れ切った身体をベッドに放る。息子はいつもの澄ました顔でYouTubeを見ている。
そうだ……私たち親子は今日、外食デビューをしたんだった。
初めての外食が、まさか、彼女の遺影に見つめられながらだなんて。
生きたいな……と漠然と思った。
いつかこの子に、唯一無二の友ができて、その尊さを知る大人になったら、今日のこの外食デビューの話をしたい。
切なくて、哀しくて、悔しくて、だけど光栄な、どこのどんな親子とも違う、外食デビューの話を。









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