『認知科学』鏡映反転―高野vs多幡 論争
『認知科学』 2008 年 15 巻 3 号に「小特集-鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か?」という特集があった。https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jcss/15/3/_contents/-char/ja
その誌上討論で、高野陽太郎、多幡達夫、小亀淳の3氏による自説の紹介、他説への批判、批判への回答がなされた。
この記事では、高野説、多幡説それぞれについて、議論のやり取りを分析する。このやりとりは、次の論理的な順でなされた。
第2部:多幡説 → 多幡説への批判(高野)→ 高野氏への回答(多幡)
第3部:高野説 → 高野説への批判(多幡)→ 多幡氏への回答(高野)
(高野説の紹介は、田中章浩との共著)
分析にあたって、これらの記事以外の論文に言及があっても、参照していない。
筆者の関心は「どうして上下でなく左右が反転するのか」という謎、そのものの解決である。そのために、それぞれの関心や立場、主張を、そして互いのズレをきちんと分析し、謎を深く理解したいということである。
正直なところ、元々の筆者の立場が物理側あるため、公正とは言い難い分析になるだろう。しかし、この立場ゆえ多幡に厳しめに評価した部分もある。そのようなバイアスがあることを了解した上で読んでいただきたい。
全体的な印象
「鏡の中では左右が反対に見えるのは何故か」という問いに、心理学者(高野)と物理学者(多幡)が討論されているが、それぞれの関心、道具立てが異なるためかみ合わなさが伝わってくる。
また、強い言葉で批判しあっており、学問の厳しさというようなものを感じた。ただし、合意形成や創造性ということを、長い論争を経たこの時点では失いかけてるように思えた。その点は残念である。
しかし、批判に対する回答も丁寧になされ、全体として、物理学者と心理学者の持ち味が発揮されている印象をもった。
なお、高野は、自分の貢献を強調しがちで、やりとりの中ででてきた相手の応答をさも相手が高野説を採り入れて修正したように主張しているとの印象をもった。
このような自分の貢献を主張することは、不可避であって、多幡にもそのような面があるとの指摘も可能であろうが、筆者の関心である謎の解明から言うと他に時間(紙面)を割いて欲しいところである。
他方、自分の立場を物理的局面に限定しながらも、心理の関与はなく物理的に解決していると主張する多幡の態度については気になるところであり、以下、別に、物理と心理の関係について検討する。
さて、それぞれの説の特徴を見ておこう。
多幡説は、物理の立場から、一貫した枠組みで謎に答えを出している。おそらくこれまでの議論でも出された「左右反転しない」場合についても、(固有座標とともに)共用座標により説明されている。これらの種類の座標は、思いつきや相手の論を取り入れてということでなく、物理学ではごく自然に出てくる発想である。それを踏まえて、必要ないと信じつつも説明し、必要なら心理学として分析をしてくれということであろう。
高野説は、具体的な現象と心理学的なプロセスに関心があり、心理学実験と自力での考察を通じて謎に迫ろうとしている。
鏡と正対した時の反転という典型的な現象を梃にして考察したり、表象の重要性を強調したり、この謎の核心に迫ろうという姿勢を感じる。
謎の定義―状況設定―
「鏡の中では左右が反対に見える」という謎は、誰でも経験することであるが、議論するためには、「左右」の定義や状況・範囲を整理・設定する必要がある。
高野は、「左右が反転しない場合」など問いを広げようとされている。
一方で、考察では、鏡と正対する場面を取り上げており、謎の条件として考えているのか、あるいは、典型例として取り上げているだけなのか、その真意は推し量るしかない。
また、実験心理学の立場からだろうが「左右」を曖昧なまま実験されている。これで謎の解明に近づくということか。
多幡は、謎を固有座標系のみに絞り込んでいる。混乱を避けるため賢いやり方である。
ただ、これがコミュニティーでの了解事項なのか、提案なのかはともかく、謎がこの座標系での説明で十分であることについて説明はあったのだろうか。とくに高野がこだわった鏡に正対している状況をどのようにとらえているか、説明があってもよさそうに思えた。
どこまでが物理でどこからが心理か
多幡は、謎の原理は物理で説明がつき、そこまでは明快にしたとしてこう記す。
方向性としては正しく、それは高野も同意するだろうが、何が物理的局面で解明されたかについては、すれ違いのまま話は進み、結局、高野はこのように結論する。
多幡は、物理により原理で説明したという。しかし、そこには、反転は空間回転によってどこかの軸にしわ寄せがいくという原理であり、この空間回転が、物理的または心的なものでありうるということを言い添えてないように見える。(筆者は、とくに固有座標の場合には、実像と鏡像の照らしわせのための心的空間回転が必要となる、また、座標系の回転の数式と同じ構造であることから、文字の書いた紙を裏返すという動作もそのような空間回転と解釈できるとの理解である。)高野は、鏡が正対した場合に焦点をあて、鏡像が左右反転に見える心理の関与を理由に、物理的には解決できないと主張しかったものと推測する。
実際、物理が洗練されたやり方でこの謎の解明にギリギリまで迫っているのは確かである。高野は残念ながら、その議論の骨格を理解せず、「真正の物理的プロセス(光学的変換)」ということにとどまっている。
そうなると、この謎に対して、現象への統一的な視点を持てず、解明からは遠ざかることになる。
この点については、多幡が手を差し伸べられればよかったのかもしれない。
空間回転が心的あるいは物理的であったところで、多幡の原理の議論は揺るがないので、そうできれば話は少しかみ合ったかもしれない。
一方、多幡が物理で説明済みとしていることには、物体の上下・前後・左右が決まることや座標系の選択基準まで含むことについては、筆者には言い過ぎに見える。これら点は、後に検討する。
多幡説
鏡により一つの軸が反転することで、実像と鏡像は対掌体になるとして、謎の核心的な問いをこのようにしている。
そうして、おそらく文字にも適用できるよう慎重な言い方をしているが、要するに、物は、上下・前後・左右の中でもっとも対称性が大きい方向が左右であるとして、結局、その部分にしわ寄せがいくので、左右反転するという論を展開する。
この点、文脈が異なるので、的確な反論ではないのだが、高野は、上下をそろえたら、左右が逆になるのは当たり前ではないか、と言っている。
また、対称性の議論だけでは不十分なことも指摘している。
高野から受け継いだかはともかく、「左右軸の従属性」が核心であり、その点、多幡は、適用物体に無関係にそうであると締めくくる。
当初、文字通り、「左右軸は物体と無関係に」しかもはじめから決まっていると読みとり、悩んだ。ここは、「適用物体がなんであれ左右軸」の意味であろうか。他に時間(紙面)をとられたためであろうが、左右反転の核心部分であるだけに追加説明が不十分であろう。
本来、謎の解明には、物のどの面が上下・前後・左右となるかに時間(紙面)を割くべきなのではないか。そうして、それは、おそらく、物理的な原理とはいえない、心理的要素が強く関与している。想像するに、おそらく、これまでも、対称性以外も含めて議論がされてきたはずである。議論のすれ違い故、肝心のことがどこかに行ってしまっている。
左右軸の決定に、心理的な関与が不要であるかのような点ももったいない。
その部分は、不完全であり、心理的な補強の余地があることを認めてもよかったのではないか。
結局、この核心部分の解明には至ってないことは、残念ではあるが、物理により謎の解明への骨格が示され、左右軸を決める有力な案も示せているとみてよいだろう。
その点、先取りになるが、高野説のやりとりのなかで、表象が果たす役割はどうなのか(あるいは、議論には表れていないが、ジオン説まで拡張してもよいだろう)、鏡像の側の立場・視点に立つということは人以外にも及ぶのか、見慣れてない物の場合、上下・前後・左右は、理屈どおり決まるのか、議論されてもよかっただろう。
高野説
高野は、鏡映反転は心理現象であるとして、多重プロセス理論を提唱する。
全体像の説明がなく、3つの原理が導入される。そららの論理的な関係やこれら3つがすべての鏡映反転をカバーすることは説明がない。
それ以前に、高野の自説紹介では、謎ではどのような状況を想定しているのかといった説明はない。
以下、光学変換以外の視点変換と表象変換について見てみる。
視点変換
まず、視点変換について、具体的な説明がある。
これは、多幡の固有座標系で考えることに対応する。
その一部、自分や人の場合について、心理的プロセスとして説明していることになる。
視点反転では、乗り物や動物に対して適用という。正直、驚きだ。
表象反転
文字について、鏡が正対している場合に限っており、実物文字との直接比較はできないとして、具体的な物理操作が反転の原因としている。
表象でなく実像の文字でも、左右反転は起きるであろうが、表象のみが扱われているとみればよいのか。
高野は肝心のことについて舌足らずである。
表象があるために、文字の向きが決まるのだといいたいのだろうか。
また、人は鏡に文字を映す際、「通常、」上下軸で紙を回転するということは、人には文字の上下の向きを保持する傾向があるということであろうか。
高野説について批判と回答
これらについて、多幡は、物理的局面をきちんと理解してほしいとしながら、このように言う。
ここで、「物体固有の座標系で」と記しているが、これは「物体固有でない座標系で」の書き間違いではないか。そのような座標系でも「左右反転」は起きるので、まさにその座標系をどのように捉えるかを具体的に議論する必要があったと思われる。この点は、これまでみた通りである。
そうして視点変換について、
物理は、心的・物理的な空間回転など現実の具体性を捨象して記述するためパワフルなのではなかったか。物理・心理を切り分けてないということで切って捨てなくてもいいのではないか、と思う。これが高野をさらに頑なにする。
ここまでくると滑稽でさえある。
表象変換のやり取りがまたわかりにくい。
「左右軸を中心に回転」は、おそらく、高野の他の文献での記載であろう。長い論争という経緯があるから仕方がないのだろうが、議論の際、過去の資料について言及しあっているが、読んでる方としては、わけがわからない。
多幡が言いたいのは、回転軸を決めたらそれと直交する方向で逆転するのは当たり前ということと、物理的な原理により反転を「上下」や「左右」のどちらでもよいとみなせるのだが、その原理を無視した場合、どのように説明するのかというようなことだろうか。
それに対して、高野は、こう締めくくる。
これは、高野自身が、文字の書いた紙を上下軸で180度回転したことが左右反転の理由になることを、否定している。戻るが、多幡はこう言っていたのである。
ここで、「左右軸の従属性がもと」かはわからない。しかし、そもそも高野は、どのような理由で軸が選択されるかという肝心な点は説明していない。(ただし、筆者は、好意的にだが、視点反転については、同じ向きで見る―これにより上下軸がそろう―ということが含意されていると見ている。)
実験
質問に使われる「左右」が曖昧でそのような質問に意味があるのか、また
視点変換と表象変換の実験の際、表象変換の方はなぜか実像を見せないということで比較しており、筆者としても理解に苦しむ程度のもので、無視したいところである。前者については、実際、多幡により的確に指摘されている。
小括
筆者には、個々の議論や実験について、心理学的な評価はできないが、こう理解した。
視点変換は、多幡の固有座標の一局面に対する心理プロセスの存在の指摘。
表象方向の乖離は、鏡像を、実像とではなく表象と比較する場合の存在の指摘。ここで、表象の存在により文字の向きが決まることがポイントである。
いずれも、実際の鏡映反転において、とくに重要な自分の身体、および文字について、重要な心理的側面についての研究だと思うが、謎の解明という意味では、部分的で、肝心の回転軸方向の決定についてを含めて、説明としては不十分と言わざるをえない。
反論の技術面
印象として、多幡も高野も、相手の自説紹介に沿って、その流れで反論するということはできておらず、反論の際に「自説では」という説明になりがちである。
それでも、どちらかというと高野の反論は、相手の自説紹介に対して反論するということができている。しかし、それは、多幡の自説紹介の構成がしっかり論理的にできているが故であると言える。
他方、多幡の反論は、高野の自説紹介が論理的に不十分な構成であるがゆえにポイントが絞り込めないで苦労しているように見える。
もっとも、個々ばらばらなプロセスが必要なのだということであれば、論理構成が不十分なことを指摘したところで無駄であろうことは察しがつく。
たとえば、一般的な図形については、視点反転でも表象反転でもないがどうなるのかなどの反論が考えられる。視点反転で、乗り物や動物を説明する点の不自然さや、視点反転や表象を持ち出すことと反転の軸を決めることの無関係さを指摘できるかもしれない。
議論すべきポイントとしては、まず、本来、左右軸がどうして従属なのかという点にこそ時間(紙面)を割くべきなのである。それらの必要性や有効性、それらの関係など手持ちの材料だけでも十分議論すべきことが残っているはずである。
座標の選択基準について、多幡が心理的な面があるとしたのに、高野は「ならばランダムであり」という藁人形論法と言われかねない反論があり、それに対して、「座標選択基準の付加は容易である」というようなやりとりがあった。このような追加説明は必要であっただろうか。固有座標での議論で十分だという説明があれば、議論する範囲が絞り込まれてよかったのではないかと思う。あるいは、実際的な場面では、人がどのような関心により鏡をみるのかを心理面から議論し、核心である「左右軸の従属性」が働く場合に迫ることができそうなところなだけに非常に残念である。
ところで、高野は、「座標系」は「視点」と同じではないか、ということを指摘している。実際には、座標系により3軸の方向を数式で議論できるので座標系の方がパワフルなのであるが、同じ言葉・概念だと合意していこうという姿勢ならば議論を進める上で有益だろう。
そうして、次のことに気が付くことになろう。高野は、座標の選択基準がないならばランダムだと反論しているが、左右という言葉をどの視点から見たかを指定せずに行った高野の実験そのものが意味がないことを自身で指摘したことになる。さらに、高野の複合的プロセスの発動はどのような機構がどのような順で働くのかといった議論の必要性にも思い至ることになろう。
ところで、具体的な箇所の指摘をするのは控えるが、あの場合がある、この場合があると言って話を広げすぎるのを、筆者は好まない。肝心の話ができなかったり、内容が全体に薄くなったりするからである。むしろ、絞り込んで話を深めてほしい。
このような話を広げるような指摘に、いちいち対応しないで、別の機会にとして、何度もいうが、肝心の議論に時間(紙面)を割くことを奨めたい。
なお、個別の議論についてではなく、企画面においては、「他説への批判」は、自説を持ち出すのではなく、相手の論への反論に集中した方がよいかもしれない。
全体を振り返って
丁寧にやりとりを追ったが、高野と多幡の議論はどこまでもすれ違っており、この企画を通じてあらたな成果や洞察は得られていなさそうであった。
物理を用いた多幡の議論からは、鏡映反転により物体の固有座標系で一つの軸で反転すること、それに加えて、物体が上下・前後が特徴的であり左右がそれに従って決められることを考慮すると、左右軸が反転することがわかった。一方、高野の議論からは、限定的であるが典型的で重要と思われる自分自身と文字について、前者は視点反転という心理プロセスがあること、後者は表象の存在が向きを決めていることがわかった。
今後きちんと知りたいこと
両者の議論を嚙合わせるためには、第3者が論点を絞り込んだ上、整理するというような仕組みを提供しないことには埒が明かないだろうと感じられた。
一つの案としては、高野と多幡がどの部分を担うかを分担することである。
鏡像反転の全体像は、多幡の物理的原理で十分だと思われる。もし、高野に疑問があるならば、それを多幡が丁寧に説明すればいい。たとえば、鏡に正対した場合、共用座標系ではどのように考えるか、を具体的に説明する必要があろう。鏡の謎を説明するのに固有座標系で考えれば十分という立場であろうが、それでは共用座標系で見たときに、どうして左右反転して見えるのか、ということに答えた方がいい。
一方、高野には物の上下・前後・左右という向きを決めるということについて、包括的に説明されてはどうだろうか。身体、文字、アナログ時計といったそこに意味を読み取る物や自動車、建物といった見慣れた物について、向きを決めるにあたっての表象の役割を深く考察されてはどうだろう。もちろん、実物と鏡像の比較ができる状況についてもである。できるならば、一般的な物について、最近の心理学の成果を盛り込んで普遍的なルールはできないものだろうか。
もちろん、身体などでは、メンタルローテーションなど深い仕組みがあるのであろうが、それが心理学において、下位のルールなのか、並置すべきルールなのかといったことが、真に重層的な仕組みの解明になるのだろうと想像する。
こうやってすれ違っている間に、他の研究者により、謎の解明が進んでいるのかもしれない。
補足:吉村浩一『鏡の中の左利き』を読んで
論文では紙面の関係から理解しきれないで分析・評価してしまった箇所があったが、この本を読んであらためてわかった個所を本からの引用と共に記す。(別の記事とかぶりまくりです。)
左右反転感を抱かない場合
左右反転しないことを高野が指摘したことについて、論文だけでは十分に理解できないでいた。吉村を読んで、左右反転感を抱かない場合、そして広義の鏡像問題の重要性を知るに至った。
続いて、顔を化粧する場合、バックミラーを見る場合、などがあげられていて、なるほどと思った。
共用座標系と固有的座標系の選択
多幡が批判への回答で座標系選択基準について述べていたが、それについて理解できた。
なるほど、こういうふうに、鏡を見る意図により、座標系が選択されているという説明は納得感がある。
もっと広い範囲での回り込み
高野によると、視点反転で乗り物の左右反転などが説明できるとあって、正直、驚きを隠せなかったが、吉村の厚みのある説明で違和感なく受け入れられた。
おまけ―執筆の経緯―
筆者は、twitter でのちょっとしたやり取りを契機に、「鏡映左右反転の物理と心理」という記事を書いた。「鏡ではどうして上下でなく左右が反転するのか」という問いについては、物理学でとっくに答えが出ているものと信じていたため、ネットで東京大学の高野陽太郎の発表をみつけ、一時自信過剰になり、記事を書いてみたというような次第であった。
後日、『認知科学』 2008 年 15 巻 3 号「小特集-鏡映反転」に議論があるのを知り、少し恥ずかしい気持ちになった。しかし、物理学の視点から書いた自分の記事は、多幡と同じ発想で、高野の「表象」などにも考慮してあることから、それなり意味があると考えた。そのため、自分の記事をすぐに書き直すことはせず、それを出発点にこのテーマで記事を書き足すことにした。今回、それで、まずは「小特集」を読み解いてみた。
初版:2023/8/6
修正:2023/8/10 吉村浩一『鏡の中の左利き』を読み、補足を追記。
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