夏休みの最終日
俺は、自分が自分の決意に不誠実であることや、根本的に怠惰であることは今よりもっと糾弾されるべきことであると思う。自分が好きな対象(例えばアニメや俳優、音楽など...)がいかに自分の心の拠り所として頼もしく、自分の生活に色彩を施しているかを表現するために、みながいっぺんに同じ言葉を用いることや、もはや言葉それ自体がミームになっている(特に漫画の1コマを引用するような方式が横行している)現状を、まったく面白いと思わない。自分がそれを好きで好きだと伝えたいのであれば、それを最大限に表現できる(自分から出た)言葉を使うべきだし、それが現状できないとしてもできるように努力する必要があると思う。それが自分が好きな対象に対する誠意だと思うし、ミームを用いることは対象を無碍にしているといっても過言ではないとすら思っている。
夏休みの宿題を最終日に急いでやるとか、筋トレすると決めたのに3日でやめてしまうとか、授業をサボって留年するとか、そういうありふれた自分の決意への不誠実がある。そして前述のような「怠惰」とも形容できる変化や努力への敬遠は、決まってあとから振り返られ、「まあでも今こうして幸せだし」だとか「そういう時代もあったなあ」とかといって正当化されがちだ。みんな肩肘はるのはやめて、もっと優しく生きようとか、自分を大切にとか、そういう風潮は特にインターネットを中心に強い。俺は、こと怠惰や不誠実においては、それは間違っていると思う。夏休みの宿題は本来、長い夏休みの間にいかに自分を律して計画的に作業を進めることができるかという、プロセスそのものを目的とした課題であるし、筋トレは続けるべきであるし、留年はしないべきだ。そしてそれができないのであれば、懇意反省すべきである。間違っても、人間らしいとかって片付けてはならない。自分に甘いのだ。全体的に甘すぎる。もっとヒリヒリするべきだ。寝るな。蕁麻疹が出ろ。それでいて叶えられる充実だ。
俺は、もっと努力すべきだと思う。でも、それはなんのためか。結局、努力すること自体が楽しいという人でないぎり、お金をたくさん稼ぐことに全てが集約してしまう気がして、なら別にほどほどな努力でほどほどなお金を稼げばいいじゃんとかって思ってしまう。そういう根底にある無関心が、俺たちを怠惰や不誠実に走らせる。違うのだ。俺たちの日々に横たわる薄い憂鬱のなかみは、怠惰で不誠実なことを改善しようとできない自分への諦めなのだ。俺たちが努力するということは、高みを目指すことではなく、低みから脱却することなのである。
俺は努力したい。人生で一度も頑張ったことがない。夏休みの宿題だって、最終日に泣きながらやった。それならできない方がよかった。できないまま学校に行って、怒られて、それでも怒られるだけだから平気だと思えるくらいに、怠惰に対して無抵抗な人間になりたかった。俺は高校にほぼ毎日遅刻していた。でも1日として「まあ遅刻でもいいや」と思った日はなかった。いつも泣きそうな気持ちで遅刻していた。俺の怠惰は日常の中に溶け込み、自分を糾弾するには些細すぎた。あかぎれで病院には行かない。しかしいつもあかぎれしていてはダメなのだ。それは徐々に俺たちの努力するというエンジンを蝕み、最大出力でも屁くらいにしかかからなくなる。
俺は、怠惰と不誠実に対して抵抗できる人間になりたい。根底ではそれが無理だと疑っていても、頑張りたいと思っている。いつかそれが実を結び、なにか大きな壁を乗り越えられるのではないかとか、そういうことを思っている。ヒカキンを心の底から尊敬している。
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