見出し画像

ゴリラから学ぶ


〜人間の長い進化の歴史〜



年末なので、今年の読書の中から一冊を取り上げたいと思う。
霊長類学・人類学の山極寿一の書いた「争いばかりの人間たちへ ゴリラの国から」である。

今年も戦争と貧困をたくさん見てきた。科学技術と経済のことが優先的に話される。地球は沸騰しているが環境対策は一致しない。このままでは人類の未来はないことを誰も承知しているにも関わらず。人間の宇宙モデルはどこにあるのだろう。

今年の十大ニュースに考えたウクライナとパレスチナの戦争の終結への願い、SNSによる無責任な情報の拡散が及ぼす社会への影響、被団協のノーベル賞受賞の平和への祈りなどとしっかりとつながっているのが、動物学から見た人類の歴史である。

6―700万年前の人類はサバンナへ移動する。石器を使い始めた250万年前、火を使い始めた80万年前、言葉が生まれた7−10万年前、農耕・牧畜の定住生活が始まった1万2千年前の人類と類人猿、ゴリラ、オラウータン、チンパンジー、サルたちの歴史を動物学の視点から丁寧に紐解く。

その中で、著者は過去の間違った認識を指摘していく。

「人間は進化の勝者ではない」

6500年前に誕生したサルに類人猿は押し込まれて常に劣勢でした。700万年前の寒冷期に人間は、他の動物からサバンナに追い出されて、獣から捕食されることになる。熱帯雨林と違いサバンナでは食物を探すのも大変で、二足歩行は逆境の中の進化でもあります。

人間が動物と違うのは、想像力を働かせることができること、自分のアイデンテティを育てることができることである。「ものがたり」を作っていけることです。

その源は「共感」であると言う。サバンナで収穫した食物を人間は家族に持ち帰り、みんなで食べる。一家団欒でコミュニケーションを図りながら。家族や共同体のみんなが自分をどう見ているかを想像できる。

コミュニケーションの語源は、もともと「共有・参加・分担」を意味するラテン語のコミュニオ(Communio) に由来する。 つまりコミュニケーションは、たんなる情報のやりとりというよりも、「ともに分けあう」ことを意味したと考えられる。必ずしも、上手に話すことではなく、「ともに分けあう」ところに意義がある。(土持ゲーリー法一「啐啄同時 教えるとは何かを問う」)

ここに人間の原点がある。言葉は便利であるが信頼の輪の強化に必ずしも役に立っているわけではない。むしろ、臭覚、味覚、触覚を用いたコミュニケーションこそが人間の信頼をもたらしている。今日も同じで、言葉以外の手段を用いた共鳴社会の構築が必要である。個人の欲求や能力を高めるよりも、「ともに生きる」ことに重きを置くことである。人間が長い進化の歴史を通じて追い求めてきた平等社会の原則です。

著者が繰り返し説明する人間固有の特徴を知ると全てが納得いく。

人間とゴリラの成長の過程の比較である。ゴリラは生まれた時2kg、5歳で50kgになるが、人間は3kgから5歳で20kg、12−16歳で大人に近い身体になる。一方、人間の脳は一年で2倍になる。脳にはエネルギーが必要なため、人間の身体の成長には時間がかかる。

ゴリラ3−4年、チンパンジー4−5年、オラウータン6−7年の授乳期間であるが、人間は獣に捕食されることから授乳期間を1―2年と短くしたのではないだろうか、と山極は考える。そのため多産になる。母親一人で育てられないので共同保育になっていく。ここからさらに男女の分業や家族の成立もわかる。

もう一つ重要な誤りの指摘がある。

「人間は攻撃的な動物ではない」

人間が狩猟最終民であり、250万年前に石器が発見されていることから、人間は攻撃的な動物であった。そのことが現在の絶えない争い、戦争につながっているという考えである。

これも化石や遺跡の発見で間違いであることはわかっている。そもそも投げ槍は、1万8000年前のクロマニョン人が初めて使う。その時に、初めて本格的な大規模狩猟が可能になった。それまで石器は食べ物を骨から削ぐなどに使われたもの。共同体に属する人間同士の争いは、定住する1万年以降のことである。ちなみに、ゴリラのドラミングも宣戦布告ではなく好奇心や自己主張である。

オーギュスト・コントは人間が持つ道徳について、他人の賞賛や非難があって育成されるという。伊谷純一郎も人間は「不平等な環境を乗り越えて、平等を志向する社会を構築した」と結論する。

今西錦司ら日本の動物学者は世界に先駆けて、動物の社会や文化の存在を探求した。生き物にはそれぞれの社会がある。そこから人間が学ぶことはたくさんある。人間の長い進化においても家族という単位を持ち、共同体を作り、地域社会を形成していく構造は現在も変わらない。

オックスフォード辞典の今年の言葉は、「brain rot」(脳の腐敗)、過剰なオンラインコンテンツの消費による精神状態の衰退をいう。複雑な考え方や多様な思考を軽視する社会への批判である。

「科学的な論理を優先する人間の脳とゴリラから受け継いできた人間の身体の両方を満足させる未来のあり方を探さなければならない」身体も使わないといけないと、山極は主張する。

すっかり一つの本の紹介になってしまった。

いいなと思ったら応援しよう!