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バレンボイムに許されること、サイードには耐えられないこと
ダニエル・バレンボイムとE.W.サイードの“Parallels and Paradoxes”を読む。
バレンボイムが言う音楽を学ぶ目的は全く異なる2つである。一つは自分が不条理の世界や困難から脱出するためである。音楽は感情を高める。あるときに熱狂frenzyで、ある時に野生的savageryにもなる。もう一つは音楽をやると、頭、心、体全体の調和が必要なことがわかる。つまり、私たち人間とはどういうものであるのかを知ることができる。例えば、ベートーヴェンの第4交響曲にはいくつものdisplacementがある。孤独や荒廃から逃れていくのである。カオスから秩序へと自分を発見していく。そして人生とは何かを発見していく。
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バレンボイムの上げるキーワードが面白い。
音楽はtransitionである。グールドのように先が読めるものでなく、フルトヴェングラーのように誰も予測できないものとしてのtransitionである。ニーチェ(「悲劇の誕生」)が言うように、ディオニソス的なものとアポロ的なものとがsynthesizeする。アポロの勝利のように見せて、ついにディオニソスがfrenzyを作り上げ悲劇となっていく。ここの音楽のfluctuationが存在する。
結局、音楽はsoundであり、すぐに消えてしまうものである。何もないところから始まり、そして消えていく。音楽において、silenceほど大切なものはない。楽譜には
音は存在しないのである。だから楽譜は作品ではないと言える。音楽は幻覚の芸術である。だからワーグナーが言う空間と時間でのacousticが重要になる。
サイードはワーグナーの社会的なるもの、ドイツ的なるものへの批判をしかけるが、バレンボイムは、ワーグナーの音楽への貢献論を展開する。
ベートーヴェンの第4交響曲には人間の一生と同じ社会への批判とパラレルに自分のことや宇宙のことを考えていることは説明した。エロイカも同じであり、べートーヴェンの本質がそこにある。さらに、ベートーヴェンの功績は「勇気」であるという。crescendosを本格的に使った妥協なく最後まで弾けるかチキンゲームである。