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生きること、学ぶこと


一方的な「主体」とは?


〜ジュディス・バトラーに学ぶ〜


ジュディス・バトラーは、「生のあやうさ」の中で、米国の他者へ対する攻撃的な一国主義を批判する。2001年9月11日のNYへのテロへの報復として、アフガニスタンを空撃したブッシュ米国政府によって、他者から自己防衛するための暴力をよしとするような考えが生まれてしまった。

国家を武力で守ることは当然という考え方が生まれてしまった。

そもそも、なぜ9.11が起きたのかという幅広い考察を封じ込めてしまった。テロ行為を可能にした世界を作るのに、米国はこれまで、世界の国々に対して、どのような手助けをしてきたのかの公的議論の場を押し殺してしまった。

9.11以前から、米国では、タリバーンによる女性抑圧は知られていたが、何も行動は起こしていない。にもかかわらず、9.11のテロへの報復の旗印に、タリバーンからの女性の解放を掲げた。このことをとっても、米国が新自由主義のもと、世界の覇権国家として自らを規範としてやりたいことを正義として強引に主張してきたことがわかる。

岡野八代「戦争に抗する ケアの倫理と平和の構想」は、バトラーの「主体」批判について考察する。人間は、他者から受けた傷を治そうとする反動で、傷つきやすさを否認して、自己防衛的になる。

テロを受けた白人は、相手が自由な「主体」ではないから、テロを何とも考えないが、自分たちは合理的な「主体」であり、テロをされる理由は自分たちにはないと考える。すなわち、他社の責任問題とする。

それでは自由な「主体」がなければ、社会を変革できないのか?

バトラーは、エージェンシーという考えを生む。社会規範などによって、すでに構成された「主体」が、その規範に答えて往復するたびに、規範の呼びかけとそれを聞き取る「主体」との間を媒介するものをエージェンシーと呼ぶ。

「主体」はすでに社会に存在する規範に依存するものであり、隷属的なものである。個に先行するものへの応答から始まる。

加害者のテロリストたちにのみの責任ということはない。私たちの責任は自己から生まれたものではなく、状況に左右されるものであるから。能動と受容の両方のつなぎ目にある。

他者の暴力によって服従させられた時に、私たちの責任や応答可能性は高められる。一方で私たちの能力は弱まる。私たちがなす応答によって、暴力を増幅しているのか、防ごうとしているのか、わからなくなる。

暴力に晒されたとき、心身のコントロールを失う。主体性を奪われたと感じる。アフガンの女性という非西洋社会の中で、抑圧された女性を助けるのだということで、自らの主体性を保っているというということへの無自覚性に気がついていないのである。

今世界にはこのような一方的「主体」が満ち満ちている。





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