生きること、学ぶこと
主体的学びについての再考
はじめに
「主体的学び」に関する10年間の活動を振り返ると、その時々に応じた課題を取り上げて主として高等教育の現場へのさまざまな問題提示はできたと思う一方、それだけで終わってしまっていないか、果たして問題を正確に提示できたのか覚束ない思いが残る。コアの探求での浅薄さや未熟さがあることが、何か暗澹たる思いとして心の中の残滓として漂う。
「主体的学びジャーナル」では、脳科学者との生態的分析、心理学者による意識と知識との関係、教育工学的なアプローチ、教育の神秘からの評価、文化人類学者とのアフリカでの学校教育の能動的な学び、言語学や芸術ではどう評価されるのか、など多面的な問題追究をしてきた。それを踏まえた文科省との勉強会も行ってきた。それでも主体的学びについて、さまざまな視座で考察したことが、まだ活字の暗闇の奥に多く隠れているのではないかと危ぶむ。
近代的主体性の哲学の出発はデカルトであり、学校教育での主体的学びの実践についてはデューイ『論理学:探究の理論』に始まる、ということはさて置き、柄谷行人の教育に関する言説から考えることをしたいと思う。
まず『探究I I』から、「学修者は未知の向こうの世界を知るために飛躍的にジャンプをしなければならない。学びは他者性の認識からスタートする」ということを実践的に考える中で、『世界史の実験』『力と交換様式』で教育が行われる環境の難解さを示します。「教育は親子関係です。しかし、親(教師)は子(生徒)に対して決して優位ではありません。結果を出せるかどうかは教わる側にかかっているのです。だから親(教師)は命懸けです」。
歴史学者の小田中直樹は、学校教育の教材に柄谷が指摘する難しさが存在していると言う。「その教わる側が根拠とする教科書は「欠如モデル」に基づいて作られています。教える側が正しいと考える内容を伝える形になっています。すなわち、学校教育は学修者が受け身になる仕組みが根底にあります。」
従い、簡単には、暗記型の学修を改め、自ら問いを立て、考える力に重点をおき、探求を重視するとことにはなりません。受験教育で、暗記による学習を習慣化してきたことからの脱皮はそう簡単ではありません。だからデューイらが基礎を築いたPBLやTBLの継承発展、その成果を踏まえた今日の反転授業などへの実践を支援し、カナダで開発されたICEモデルを普及させる「主体的学び研究所」の活動に改めて意味を感じもしている。
主体的学びとはどんな学びで、なぜこれが必要とされたのか?そもそもActive learningは米のSoTL(Scholarship of Teaching and Learning)の間で議論され、Dr .James Eisonが1991年に提唱した広義のTaxonomyであるが、なぜ文科省が2012年に二周遅れで導入したのか?それが10年経過しても全く浸透していないのはなぜか?
2013年に南フロリダ大学を訪ねて直接インタビューをした。
Eisonが定義したのは、<Creating Excitement in the Classroom>のために、anything that involves students in doing things and thinking about the things they are doing、を行うこととしている。 lectures will not help students achieve fundamental liberal arts goals such as learning to communicate skillfully in written and oral forms, engaging in critical and creative thinking, making informed value-decisions, and behaving in ethical ways. In addition, over the past decade, an increasing number of campuses have begun significant initiatives to involve students in such things as collaborative, cooperative, or team learning projects, learning communities, service learning, or internship experiences.
“Student Engagement”こそが、Eison教授の提唱した概念である。大きな意味での学びの再定義である。具体的には学ぶ個人がそれぞれの意味を創りだすことであり、学修者が深い学びのアプローチを実践できる環境をつくりだすことである。
この学びのプロセスを評価するのがICEアプローチである。ICEモデルの開発者の一人であるSue先生(クィーンズ大学、カナダ)は、次のように語る。
「アセスメントが学びを促進するのは、アセスメントと学びは密接な関係があるためであるアセスメントモデルが学生の学びを作るので、もしアセスメントの目標、方法、選択を間違えると学びも間違える可能性が大きいということが原点にある。Bloomの方法は、学びをステージとして考えて直線的に高いレベルに登っていく。ICEではプロセスの自己評価によりどこまでも繰り返していくことで、「学習のレベルの違いを学ぶのではなく、質的変容を経験していくものである」ことに気がつく。とはいうものの、そもそもアセスメントが学びに必要なのかということがSueの疑問である。
従ってICEには負の評価は存在しない。全てが肯定である。ICEは直線的な学びの段階を示すものではなく、螺旋的に継続成長していく学びのフレームワークである。Bloomのように学びのステージを登っていくものではない。自覚的学修であり、教師の評価を意識しない。そもそも今の授業は教師が評価の目標をつくってしまうから、生徒はその方向を向いてしまう。個人の力量に沿った、個人としての成長という肝心なことが忘れ
日本の大学の学びの根本的な問題
潮目が大きく変わるのは、1960年代はじめの安保闘争であろう。大学での想像力、言語、討論の根本的な課題の一つが「全体とは何か」全体を見る眼とはどういう眼であるのか?という問いかけがあった。その代表は、高橋和巳である。大学闘争の全面的な敗北、日本の青春の全体に解体が行われてしまった。もう一度世界全体を捉えることを可能にする根本の思想を提出したいというのが当時のパッションであったが、70年の全共闘大学紛争の時は60年安保の持つエネルギーの質が異なっていた。さらに、70年代より大学が、就職へのステップと変わったときに、すべてが崩壊しまった。高度経済成長の波に大学は完全に飲み込まれていく。この間、さまざまな大学改革が行われた。結果的には、はみ出さない真面目な学生たちは、知識を解説本で覚えて、難解原書は読まないという全く大学で学ぶ意味がないモチーフを持っている存在となった。まさに、2+3+3の受験のために失う時間がトラウマとなり、高等教育を崩壊させた。
東大の例をあげよう。藤井輝夫総長の危機感である。「最近の東大生は試験に受かるスキルを小学校からやってきた富裕層の学生の集まりであり、国籍も日本ばかりで学生の均一化はかなり深刻である。世界の大学でこれほど異質なモチベーションが存在しない大学はないが、これが日本の社会の実体を反映している。20%は入学するのに精一杯。そこで、東大に新しい学校「カレッジ・オブ・デザイン」を検討する。」
溝上慎一郎(元京都大学、現在桐蔭学園)は、大学改革のリーダーとして文科省とともに可能な政策を実践してきた。2008年の中教審の学士課程答申が大学改革の仕上げとなるものであり、そこでは問題解決能力など21世紀型市民としての資質・能力を育てるカリキュラムを構築し、その質を保証することなどを大学に求めていた。
2007年以降、3年おきに実施されている「大学生のキャリア意識調査」に責任者としてかかわる溝上は、この10年の文科省施策の成果は上がっていない。残念ながら、いまの大学教育では学生を変えられないと結論づける。日本の学生は高校2年生辺りが脳活動のピークになる社会構造が背景にある。大学に入学してから、大学で学ぶことの意味を議論しても学生は変わらないと考えて、2018年に文科省の仕事を降り、大学も去る。そもそも教室の外での学習時間も満たせずに、高校の延長のような授業で問題解決能力などは育ちようもないのである。ここに日本の大学の根本問題がある。このことは、主体的学びジャーナルにも詳しく記述してもらう。受け身で入る、受け身で入るものに責任は生じない。能動的人間にしかモラリティも育たない。結局どこかに歪みが生まれる。大学で学ぶモチーフをもっていないのが今の日本の多くの学生である。
欧米の大学も崩壊の危機はあるが、主として大学経営の課題であり、学生の学びの総体としての危機は日本とは全く異なるものである。欧米では、自己教育が基本であることが根づいている。自分でやるしかない。ただし、教育は他者との関係のみで行われるものであるということから大学へ入る。コモンの特異性が互いに平等であることを学ぶものである。
「そもそも江戸時代の寺子屋での読み書きは、今日の学びであったものが、明治に西欧の学び方が導入されて、明日のため、未来のための学びへと転換したときに、寺子屋という日本のコモンは崩壊してしまった。」(寺崎昌男)戦後の米国教育システムによって、さらに明日のための教育が強化され今に至っている。
主体的学びをどのように定義するか
「主体性」とは何かから始める。まず私たちは生きているので、生きることの主体性について意識を持つ。私たちは皆生きている中で何か決断している=つまり全ての人は主体的に生きている。
私たちの日常とはレトリカル(修辞的)な生き方をしている。人は皆多かれ少なかれ咄嗟にレトリカルな判断をしている。その環境とは、(genre)/自分の置かれている立場は(rhetor)/他者は誰(audience)/今何をしなければならないか(purpose)/動機は何かの5つのことを考えていることである。自らの主張の正当性の根拠(reason=理性(TOKでは理性と訳す。それを保証するための理由という意味も持つ)を必ず示す。そして相手の反論をしっかり聞く。その上で、改めて主張の統合や修正などを行う。欧米の大学では、必ずこの学習を初年次教育で厳しく教える。これが理解できないと大学で学び続けることはできない。さらに専門課程に至り、分野ごとの専門的知識に基づいたレトリカル学習を行う。米のNESSEで学生に人気の難関校BYUを訪問して、初年次教育の授業設計を詳しく聞く。
レトリカルな生き方を持って主体的な生き方と考えると、アドルノが主張するように、同じ考えの人は多くは要らない。異質なものがあってこそ社会はより成長する。レトリカルな考えは自分の正当性を主張するものであるが、一方で、他者の存在を認めることが重要である。(違った考えを統合せずにそのままにしておくという非同一性:アドルノ)
そもそも「主体性」とは何か?
人はまず実存する。本質はそのあとで、自分でつくるもの。人は自らつくるところのもの以外の何ものでもない。そして、そこからみずから主体的に生きる、という「主体性」の概念が出てくる。みずからつくるとは、言い換えると未来に向けて自分を投げ出すこと。これを「投企」することと名づける。主体性+投企から選択する自由が生まれる。さらには自己の責任、不安、孤独が生まれる。サルトルのヒューマニズムは「人間は人間自身の中に閉ざされていると考えるのではなく、「投企」と言う乗り越えと人間的な主体性を結合させてものである。」自由とは何か?自由はいかに自己を実現していくか。「投企」の行動の中に希望が生まれる。
人が生存し続けるものとすれば、それは単に生まれてきたからという理由からそうなるのではなく、その生命を存続せしめる決意を立てるがゆえに存続し得られる。
だからこそ、主体的ということは他者の存在を優先的に考えることなのである。柳田國男は集団的想像力について繰り返し証拠を提出し続ける所のおそらくは我々の時代のもっとも巨大な語り部であった。「一番惜しいのは、日本人の長く味わってきた興奮ですね。きれいな興奮。それに伴うイマジネーション、これらが皆なくなってしまった。普段にあまり興奮が多いものだから。」集団的想像力を発揮する場としての「祝祭」が全国に存在していたが、それが消滅して、個々のエネルギーの行きどころがなくなってしまう。「パリ・コンミューン」以降、なぜ若者があのようにパリという都市で熱狂的なデモを繰り返すのか?
そういう若者が大学で学ぶことを想像してみると、日本の大学はどんな器を作っても学ぶ人間たちの個体と集合が変わらない限り改革はできない。
主体的な学びのいくつかのディスクールを示す
生きることは考えることであると放浪のパリで思う。そこで感覚の目覚めという経験に出会う(「バビロンの流れのほとりにて」)。経験とは他の人とはとりかえることのできないものではないか。つまり経験したということは、そこにその個人が存在しているということであり、他者にはわからない内的なものである。それをどのようにして他者に伝えるのか。そこに、「ことば」が必要になる。経験することの重要なことは、全てが受動であるということで、人が勝手に作り出してはいけない。偶然ということ。人が他者には変わり得ないものが経験なので、自分の経験を自覚した時に人は本質的に孤独であることに気づく。孤独とは経験そのものである。主体性というのはだから意識したことの継続ではなく、意識した日常の中で偶然に現れるものとも言える。(森有正)
「人は自分が大切なので自分の思いを主張すると知らない間に他者を傷つけると考える。私とは異なる他者を尊重することで自分も尊重される。自分と非対称の他者がいるから成り立つ。」(レヴィナス)
「自分の主張の前に相手の主張を正しく聞くことから言語ゲームは始まる。他者を学ぶことで自分は成長する。学びのスタートは他者を認識すること。」(ヴィトゲンシュタイン)
「私たち人間が、共感=sympathyという概念を中心に人間が人間らしく生きていくのは、他者の喜び、悲しみという人間的な感情を表現して、お互いに分かち合い、理解しあうことができることで、力を合わせていろいろな問題を解決していくからです。」(柞磨昭孝)
「地球規模の問題がわかって、そこから見て話すことができるようになる」ということではないか。」(鶴見俊輔)
「一人ひとりが、これが問題だというものを持っていて、ただ教師が教えてくれるものやそこにあるものを学ぶのではなく、個人が自分自身で問題を考えて学ぶのが本当の主体的な学びであろう。」(加藤周一)
「学びのスタートとして「人間の想像力」を置けるのが必要である。」(ノースロップ・フライ)
主体的な学びが創発されるのは?人が学びたいと思うきっかけ、「動機」には内発的なものと外発的なものがある。(エドワード・デシ)。
主体的な学びは、学ぶ人が学ぶ動機を自らの内に見出している時に学ぶこと、と定義する。その動機の内容によって主体的度合いを測っています。どの動機が崇高かということはあるかもしれないが区別はない。
A 他者への貢献・社会に貢献したい
B自己向上のため:成長したい
C探究心:知りたい
D有用感:知っていると得をすると思う
E楽しさ:何か知ることが楽しいから
F義務感:やりたくないがやらないとならない
主体性というのはどう主体的であるかという主体的の方向が重要
(羽仁五郎)
1. 批判的精神に立脚した主体性:主体的学びは単に情報や知識を受け入れるだけでなく、批判的に考え、疑問を持ち、自分なりの意見を形成することを意味します。自らの思考や判断を磨くことで、知識を深めることができます。そもそもなぜ学ぶのかという疑問を常に持ち続けないと学ぶ対象を自明のものとできません。
2. 異質な他者をリスペクトすること:主体的学びは他者との異なる視点や経験を尊重し、他者とのコミュニケーションを通じて自らを相対化する能力を鍛えることです。他者を深く知ることで新たな考え方や自らのアイデンティティを生み出します。
3. 長い人生経験を苦労して積み重ねる意思と覚悟:主体的学びは人生のさまざまな経験から学び取ることも含まれます。そのため、困難や挫折に直面しても諦めずに学び続ける意欲と覚悟が必要です。
主体的学びは、単なる情報の受け手としての「学修者がアクティブラーニングする」というようなアプローチとは異なる。主体的学びは、学習者自身が興味や目標を持ち、主体的に学びを進めることで、より深い理解や成長が促進されるとされている。つまり、主体的な学び方は単なる知識の獲得だけでなく、個人の成長や自己理解をも重視した学び方であり、その方向性が主体的であると言える。
すなわち、主体的学びとは、学修者が自らの関心や興味に基づいて学修の方向を決定し、批判的思考を駆使して情報や知識を評価・分析し、自らの考えを形成していう学び方です。学修者が教師の指示に従って学ぶのではなく、自らの動機や目標を持ち、自発的に学びのプロセスを進めることです。
批判的に学ぶことは、与えられた情報や知識を単に受け入れるのではなく、それを疑問視し、検証し、他者との交流を通して異質な視点と比較して自分なりの意見(相対化)を形成することです。このような批判的思考の鍛錬は深い学びを促進し、知識をより深く理解することにつながる。従って、主体的学びには学修方向の選択と批判的思考が不可欠です。
政府は「学修者本位の大学教育の実現」(文科省中教審2023年5月)の中で、「高等教育は、人類の普遍の価値を生み出し、世界が直面する課題を解決するために「主体的に」実行していくのが使命である。」と記述した。果たしてこの「主体的に」は、世界的課題である、民族浄化、強制追放、戦争、経済格差など弱者視点への学修の方向づけはあるのだろうかと考えると、なんとも暗い闇しか見えてこない。
大学で鍛える想像力と構想力について
主体的に学ぶことの方向と想像力とは?
主体的に学ぶ「方向」が重要である。デリダ(脱構築)が主張した学びは、一旦既存の価値を壊してしまうことで、善か悪か、正しいか正しくないかという二項対立的な学び(浅い学び)を超越することができる。(アップルの創業者ステーブジョブが学んだ考え方)デリダは、想像的かつ創造的な学び、つまりゼロから積み上げる学びこそが、サルトル(実存主義)、レヴィ=ストロース(構造主義)、メルロポンティ(現象学)を越えると主張した。
主体的な学び=想像力がある学びである。“Knowledge of literature can’t grow without the knowledge of allegory, allusion, simile, metaphor. ”(ノースロップフライ)従って、学びのスタートは聖書や神話を徹底して学習するのが西欧の子供たち。ブレイク、ダンテ、エリオット、ジョイス、イエーツを読まない人には主体的な想像力が生まれないとまで言う。この想像力の世界は現実の歪められた世界よりもずっと重要であり、人間の、そして社会の真実の姿を表している。だから鍛えられた想像力を持つことが既に主体的なものの本質が存在することになる。「想像力とは知覚によって提供されたイメージをむしろ歪形する能力のことである。イメージの変化、思いがけない結合(connection)がなければ想像できないし、結果として創造的なものは生まれない。爆発するような想像力のイメージは歪みにこそ存在する。(ガストン・バシュラール「空と夢」)
その第一の精神がレビナスやヴィトゲンシュタインの言う他者の認識、あるいはアドルノの言う非同一性の認識(異質なものがあって社会は成り立つ)。宇沢弘文も、「人間は他者の喜び、悲しみと言う人間的な感情を表現して、お互いに分かち合い、理解しあることができることで、力を合わせていろいろな問題を解決していく」と言う。
第二のものは、鍛えられた想像力を持った方向で、ノースロップフライの主張がある。” Knowledge of literature can’t grow without the knowledge of allegory, allusion, simile, metaphor” 学びのスタートは聖書や神話を徹底して学習するのが西欧の子供たちです。ブレイク、ダンテ、エリオット、ジョイス、イエーツに共通しているのは想像力で物語ることだと思う。二項対立を排したデリダのゼロからの新しい価値創出も同じです。
一方で、文科省の主体的学びの定義は、課題依存と事項調整の後に補足的に人生設計に触れている。哲学的学びからスタートする西欧社会とは逆です。日本の教育行政の基本的な問題ではないかと考える。
*メタ認知を学習プロセスの中で能動的に関与させながら学習ができること(「自己調整学習の成立過程―学習方略と動機付けの役割」
(伊藤崇宇達、九大))
どんな授業環境、授業設計が想像できるのだろう
コミュニケーション論は組織論と同じです、と群馬県島小学校、斎藤喜博校長は語る。解放された教室で、自由な子どもを生き生きと集中させる緊張と流動性溢れる教室。何よりもこういう解放環境から自由なコミュニケーションが自然に行われる。国語の二行の議論に何回も授業を重ねる。考え方と鍛え方の終局の到達点は、教師にも明確ではない。意識のなかですら存在していないものである。そうでなければ授業という創作活動自体が無意味である。思わぬ発見が生徒に起きないものは学習ではないと考えている。
意識の上に出来上がったものの形が存在しないところから出発して「もの」としてのそれに辿り着くところに生産の意味が生じる。シラバスで到達目標を設定するのは本当の学習が行われない、生産が行われないということでもある。
教師が授業にどのようにして臨むのか?一度やったものを繰り返しては緊張感がなくなる。苦しみ、もがき、どこへいくかわからないような厳しさ、抵抗感が充実した爆発力を持った独創的な授業になる。その授業が冒険しているということである。
実践的な学び
音楽家の武満徹は本当の実践的教師であった。「音を構築するという観念を捨てたい。世界には沈黙と無限の音がある。人間は自然に逃避するのではなく、生きることに自然な自然さを見出したい。自然な行為とは現実との交渉ということでしかない。学ぶことは、そのための独自のモジュールを作り出すことである。世界は近くにあるようで遠い。だから自分を呼び寄せるしかない。そして世界とつながる独自のモジュールを作る、これこそが生きることを行う学びと言える。」
森有正は、パリの放浪の中でそのことを体験する。「発見が人間の体験である」という感覚を自分の一部として感じること。そして時間をかけて待機することがモメントになってきた。待機そのものを能動的に行うことの重要性の指摘である。
マイケルハートとアントニオ・ネグリは、主体的学びを学習者視点ではなく社会のニーズとして捉えている。「現代社会はあまりにもサイエンス推進を優先して戻ることのできない歪みを作ってしまった。世界は重大な事実に気がついていない。気がついていても動けなくなっている。今一番大きな市場ニーズは、言語的、コミュニケーション的、知的発展に関する領域にある。これまでのサイエンス以上の市場である。そして人文学教育に多くを依存している。にもかかわらず、財政支援サイエンス中心にまわっている。教育がコモンの制度になれば、社会全体の利益が教育指針となる。こういう教育制作り上げる必要がある。」
主体的な学びを阻む要因(柞磨昭孝)
① 好奇心が持てない:知識量が多すぎる
② そもそも問いを作り出す文化が養われてこなかった。:自分で問題を作ることなく過ぎると問題とは与えられるもの、その答えは教師が知っているものと言う習慣がついてしまう。(鶴見俊輔)
③ アフォーダンス(ジェームズ・ギブソン)=環境が与えるもの、例えば学校の枠組みなどの制約
④ 学校教育のアセスメントの限界:いかに効率良く答えに到達するか、を一義的に行う
⑤ 学ぶ意味や意義が議論されることがない:哲学をやらない
⑥ 教える側に問題がある
⑦ 受験学力をつけることが第一で、主体的な学びは受験学力とは関係ないという考え
⑧ 対話的、グループ活動の難しさ
主体的学びが創発されるのは
「主体的に学習に取り組む態度」「学習エンゲイジメント」の研究が多数あり、「動機」とは、①知的好奇心、②優れた人間になりたいという欲求、③自己実現のため、④向社会性が挙げられている。主体的に学ぶというその内容は、①楽しく学ぶ、興味を持って学ぶ②目標を明確にして学ぶ③粘り強く学ぶ④協力しながら学ぶ⑤自分を激励して学びという態度につながってくる。(本当に自らが主体的たり得ている時の人を観察すると、このどれかが必ず現れている。)
今日の社会環境を踏まえて、ここは日本なのだから、日本人のやる教育なのだからと譲歩した考えもある。「大学生が主体的になるのは、実利的な授業参加の意義を自ら感じたとき、である。会社に入ったら・大人になったら役に立つ、という即物的なもので、教養とか学問的意義や人間形成を説いても通じない。しかし、実力の違いがある仲間と協働学習することから何かの成功体験をすることが、主体的に学ぶ動機となりえるのである。」(船守美穂)
「「対話的な学び」は日本人の「弱点」である。学びは「教科書」から教員から学ぶものとの先入観がある。学びは生きている、対話的学びがこれからのキーワードになる。また、日本人は、外国人に比べて対話(話術)が下手である。これが国際化の足かせになっている。原因は、言うまでもなく、リベラルアーツの欠如、すなわち発想に乏しいことである。日本の裁判制度がその象徴である。アメリカは「弁論」で論争するが、日本は文書、すなわち「陳述書」で論争する。これは形式的かつ無味乾燥で面白くない。首相が官僚の原稿を「棒読み」する日本と、大統領が視聴者を見ながら、自分の言葉で「対話」するのとの違いである。」(土持法一)
教師からの問いではなく、生徒が自ら問いを立てることは、知識の習得を自らの問題提起として対象への向き合いをかえていく。(河野哲也)
対象への問いが自分自身への自己内対話へと変化していく。その結果省察ができるためにso what?を考えることができる。(梶田叡一)
学生が自己評価ができるようになることは教師にとって一番嬉しいことである。(Sue)
主体的学びを促すリベラルアーツについて
アメリカのリベラルアーツカレッジで学生が授業で質問をするのは、事前学習により疑問を持って授業に臨んでいることと、受講生がいろいろな専門分野から来ていることがある。
「そもそも教育が人間を幸福にするというのは大きな間違いではないか。これは教育の本質的な目的ではない。」(リベファルアーツカレッジで教える松井範惇)
そこで、アマルティア・センの「可能力」(松井の命名)について考える。日本の偏差値「学力」は完全に間違っている。人間の基本的な能力とは選択肢を増やす「可能力」であると考える。
「人々が自由に、自分のしたいことができ、なりたいものになれ、行きたいところに行ける。----恥じることなく外を歩ける。自分の関わるコミュニティで議論に加わってその決定に参加できる。そして他の人の生の豊さにも貢献し、そういった活動から自尊心を得る。」
「可能力」を育てるのがリベラルアーツである。それは、「いかに」学ぶかを知り、「問い」を持つことであり、問題を発見する力(問題を解決する力ではない、PBLの課題でもある)、「学び方」と「学ぶ意欲」を学ぶということである。アメリカのリベラルアーツカレッジは、このことを大学全体が理解して、組織的に取り組むのである。
日本では「リベラル」という言葉が十分には理解されていない。単なる教養ではない。「広さと深さ」の両方を学ぶことであり、それは人間を学ぶことである。
日本でも個人がリベラルアーツを身につけるにはどうしたらよいのだろうか?と言う質問に対して、個人一人ひとりの「可能力」を、広さと深さを持って考える社会に変えていくことではないかと指摘する。私たちはもっと自信を持ってコミュニティに参加していかなければならないのだろう。そこで大学にとっても、学生においてはより、地域コミュニティに深く根差した環境が必要となるが、多くの大学経営者はこのことに気がついていない。
冒頭、東大の危機を書いたが、都市型の大学はますます画一化されて存在感をなくしていく。
最後は大江健三郎の言葉である。想像力を持たない日本には、「一次的人間」が充満している。「一次元的人間」とは、自分自身の欲望や価値観を批判的に問い直す能力を失った人間のことです。 又、日本人は構想力を持てないという評価がある。それは戦後ずっと受け身でやってきたためである。アメリカの「植民地」とも言われる。このように「受け身からスタートしたものは構想を持ち得ない。」あれは(沖縄、ヴェトナム--)終わったと目を背けるところからは、イノベーションは起こせない。すべての責任を回避しているからである。大学の学びで、武満徹が言うようなモジュールをつくり、全体としての構想力を持つことこそが目標となって欲しい。
エピローグ
「あなたはどんな人か?」「あなたは何者か?」という自問をする。肩書きや職業、所属を外して自分のことをすぐに答えられる。Improperlyに。普段から考えていることが必要。これはもうレトリカルな生き方と言える。人々はみな咄嗟にレトリカルに考えている。どんな状況にいるか?自分はどんな立場か?相手は誰か?今何が目的か?¥
基本的に全ての人は主体的に生きている=自分に全ての責任があるという無自覚の倫理や思考が内在的に存在している。主体的とは心にオープンなスペースがある=他者のことを受け止められる。主体的でないというのは自分の意見を押し付ける、心に余裕のない行為ではないか?
柳田國男(「教育の原始性」)は、<日本の伝統には、文字は勿論口言葉にも表せないで、黙々と伝わって居るものがあったのである。>シツケとは元々「人を一人前にする」こと。
あたりまえのことのことは少しも教えずに、あたりまえで無いことを言い、又行ったときに、諫め又はさとすのが常である。学校教育がこれを、叱り、罰することと解し、児童が「当然なるもの」を自力で体得する機会を逸している。
これこそが、日本のリベラルアーツの考え方の一つである。教えないで自ら発見するということを家庭でやっていたのだ。一人前になるように。しかし、学校教育であればいい、これはダメとなんでも、枠を作るので自分で「当然なるもの」を体得できる機会が少なくなってきた。
西洋人はあえて頭を悪くして理解に時間をかけるが、日本人はパターンで物事を見てしまい、本当の自分の目や心でものを見ない。情報が今日のように膨大になると、自分の目で確かめなくても受け入れてしまう。だから自分で生きることと考えることをして自分の思想を作らないといけない。そのためには批判的なものに見方を身につける必要がある。疑問形をことばで使い、曖昧な表現を避けるために常に主語を意識する。客観的事実よりの自分の経験を重視して生きる。本を読み人がまとめてくれたものを理解するのも生きていることにはならない。
自分の経験を求めて生きるのはとても能動的な活動である。その中には本当の喜びがある。人は考えることをしないから不安になるのではないでしょうか?
私たちは、「全体を見る眼」を育てることに注力しなければなりません。私たちが生きているこの全体を見通す、現代社会の全体を見通し・把握する、その仕方を考えるということではないでしょうか。