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モンテーニュから学ぶ「死への旅たち」とは?
宮下史朗「モンテーニュ 人生を旅するための7章」を読み、人生の幕引き、死への向き合いについて、モンテーニュの伝えたいことを自分に照らして考えてみる。
「人間は誰でも、人間としての存在の完全なかたちを備えている。」(「後悔について」)ということばが、心に刺さる。どんな人間でも不安定な思考の哲学がある。それでいい。人間の存在には矛盾もあるし、欠点もあるのだという考えです。
宇宙では、大いなる自然がミキシングという技を駆使して、似て非なるものを創り上げている。大きな世界は鏡であり、自分たちを知るためにこの鏡に自分を映してみる必要がある。(「世界が子供たちを育てる」)自然がミキシングの技を見せつけた世界は変化と多様性に富んでいる。その多様性という大きな鏡に、自分の姿を映してみるという経験を重ねて、人は成長していく。
モンテーニュの「自然と人為」でプラトンを引用する。「すべてのものは、自然から、偶然か、人為のいずれかによって作り出される。もっともつまらなくて、不確実なものは人為により作り出されるもの。」)大航海時代、産業革命以来、人為によって繁栄してきた人間社会の未来への予測、エコロジーの原点があると宮下は指摘する。
さて、本題です。身を引くタイミングは誰もが考える。「最大の悪徳とは、欲望がたえず若返るということ。たとえ、片足を墓穴につっこんでいても欲望や探究は次々と生まれてくる。」そういう日々は虚しい。忙しいという暇人から抜け出せないのはなぜか? 自分で自分を煩わしくしているのは、人から不承認のまま生きることへの恐れではないだろうか。無為な忙しさである。もう自分も、積極的に人生を終わらせる意思が必要である。ルウレティウス「事物の本性について」より、「この世に入ってきたと同じようにして、この世から出ていきなさい。さあ今度は、生から死へと通っていくのだ。お前たちの死は宇宙の秩序のひとこま。死というのはお前を創造したときの条件なんだ。」
「そもそも、死というものは、いたるところで、われわれの生と混じり合っている。」(「経験について」)私たちは生きることを心配するせいで死ぬことを乱している。自分の死が近づいていることは理解しているが、まだ死への旅立ちのプランができていない。モンテーニュは、そんなプランは不要であると言っているのではないか。死に向かい注視する、判断するなどは第一級の人にしかできません。人は生まれたときから死に向かって旅路を歩むのである。人生とは、無知を抱えながら疑問や不確実性の中にあるもので、最後まで行かなくてもいい旅路である、という言葉を深く噛みしめたい。