生きること、学ぶこと
崩壊する大学、それでも大学は必要か?
〜新しいリベラル・アーツを求めて〜
明治以降、日本の大学は西洋から移植された知を天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデルに収斂していく。
この外苑には出版システムを基盤とする知識人、私塾があった。出版メディアが大学文化を取り込んでいく世界の潮流があった。
大学出版はアメリカでは学術出版の中核をなしてきた。日本では、戦後、南原繁の東京大学出版があるが、福沢諭吉も時事新報を作っていた。つまり、日本においても大学と出版メディアの複合体が基本にあったのが、現在危機に瀕している。
インターネットの普及で知識の蓄積や流通の基盤は書籍や図書館からネットのデータに移行している。そこには検索型の知識基盤が作動している。
今日の学生たちには、教室も書物も二次的な役割しか与えられなくなっている。レポートや論文さえもwebから入手された情報が巧みに編集される。
未来には大学などなくても良いという悲観論は現実になる。
Google、Apple、Metaの新たなネット上の検索型知識システムに対して、大学という古い知識形成の場が何を提供できるのか明らかにしなければならない。
吉見俊哉「大学とは何か」の指摘である
現在の大学の衰退の最大の原因は、国民国家の退潮にある。「想像の共同体」として国民国家に支えられた「学知の共同体」であった。20世紀に入り、資本主義の進化とともに変容していく。
国民的学知の共同体ではなく、資本主義の論理で経営される官僚制的企業体になる。「アメリカ化」の推進である。アメリカの大学では研究者は助手になり、キャリアパスが用意される。テニュアになるまで身分の保証はないので、とにかく大学に尽くす労働者となる。
つまり、アメリカの大学を成り立たせているのは、大企業と同様の官僚制である。経営=マネジメントの資本主義的かつ官僚主義的論理である。
まさに大学は、マックス・ウェーバーが予測した「精神なき専門人」の化石化した鉄の檻になろうとしている。
戦後の日本の大学に戻ろう
敗戦により、米国大学モデルが戦後の帝国大学モデルを変容させていく。
アメリカの大学はリベラルアーツを徹底するカレッジの上に修士、博士の学位取得システムを構造化したgraduate schoolが乗ったものである。このベースにはアメリカの軍事経済的覇権というものがある。
こうした中途半端な移植が矛盾や混乱を招く。日本の大学はこのアメリカモデルとは、元々一致しない。 私塾、帝国大学、専門学校、新制システム大学、アメリカ式大学院などの様々なものを合わせたものが日本の大学であった。
最悪なことは、国にも大学にも、未来の大学の姿は何もなかったことである。その結果、90年代以降は、国との結びつきを曖昧にしつつ、拡張をしてきた。現在は数だけ増えて、今や経済的成長に資する労働者の排出機関になり下っている状況である。
それでも1960年代には学生が社会への存在を示したことがある。
大学での想像力、言語、討論の根本的な課題の一つが「全体とは何か」全体を見る眼とはどういう眼であるのか?という問いかけである。
その代表は、高橋和巳である。大学闘争の全面的な敗北、日本の青春の全体の解体が行われてしまった。もう一度世界全体を捉えることを可能にする根本の思想を提出したいというのが当時のパッションであった。
しかし、経済発展に追われる70年代より大学が就職へのステップと変わってからは、大学に入ることが目的化する。新自由主義が浸透していく中で、企業や社会の要請に大学は一気に傾斜していく。経済優先の国家となった日本社会の労働の勤勉な担い手として、ベビーブーマー世代はひた走ることになる。
大学のさらなる危機
大学当局は、学生を孤立させるためにITを導入する。大学のレジャーランド化、安全安心の場へ転換する。新自由主義再編の原則の方向へと。そうして、自律/自立した主体からかけ離れた主体を生産する場所へと大学は変わってきた。資本主義の高度化が行きつくと、やがてその価値観を内面化して、自己を失った人間となってくる。(白井聡「孤立のテクノロジー」)
産学協同反対が叫ばれ、学生の自治を守る運動がおこなわれた大学が、今日では、資本家のための大学になっている。産学連携には多くの競争的資金が与えられ、経団連の要請に応える理数系重視の教育が推進される。大学は、「孤立のテクノロジー」を進めることで、勉強しなくても卒業できる環境を作る。
大学の存在を求めて
すでに資本主義の原理の中に取り込まれている大学を「学知の共同体」であると叫んでも誰も見向きしない。
自ら存在価値を創り出す必要がある。インターネットの検索型データやAI による新しいメディアをどのように評価して正しい方向へと導くのか。リベラルアーツを変容する社会の中でいかに止揚させていくのか。新たなリベラルの知をどのようにして創造すべきなのか。
世界はすでに地域の時代になっている。2030年には地球の60%が都市化するが、欧米は、地域ユニットの社会であり、米では連邦政府の関与は少なく、地域のニーズから多くの起業が生まれる。ドイツは植生図が地域計画(連邦建設法で表層土壌は移動できない)の条件である。地域主義は、風土的個性をもとに共同体が自らの行政的自律と文化の独自性を育てる。地域は、生態系が異なるから、画一的ではない。「景観」が違えば文化は異なる。生物学では、Developmentは受精卵から生き物ができていることを言う。つまり、もともとあるものを展開するのがDevelopmentである。
日本が文化を基盤とした国になるためには、都市中心から地域中心に転換しなければならない。地域にこそ本当の活力がある。地域のベンチャーがこれからは周縁のままで中心になる。そこから世界の周縁の地域とつながり合う。大学はその中心となり、学ぶ学生を育てることを真剣に考えなければならない。