生きること、学ぶこと
日本のDXはなぜ失敗なのか
〜「なぜ」からはじめないので、「なに」を、「どのように」の構想が欠如していた〜
はじめに
カナダに、「ICEモデル」という学びの方法があります。「なぜ?」学ぶのか、からはじめて「なにを?」「どのように?」と学んでいき、」再び新たな「なぜ?」に出会うということを繰り返していくのが基本的な学びです。今の学校教育のように、「なに?」をからはじまってしまうと、全体の構想力が生まれません。日本のDXの失敗の原因です。
エリック・ストルターマンは、日本のDXが経済成長に偏っているのを見て、DXを再定義します。社会的な影響や公共への影響を考え、社会DX、公共DXという言葉を新たに策定して、それぞれ「DXはよりスマートな社会と、一人ひとりが健康で文化的なより良い生活を送れるサステナブルな未来の実現をもたらしうる」「住民の幸せや豊かさ、情熱を実現し、地域やエリアの価値を向上させることを可能にする」としました。DXの目的や内容を人間社会の全体に広げて具体化したものです。
日本で進められている「経済成長」だけを目的としていません。重要な視点です。日本のDXは、これまで国が推進してきたICT/IT推進戦略と何も変わりません。社会や公共のトランスフォーメーションが個人の苦境を救済していくためのデジタル技術の開発・活用であることが大前提です。残念なことですが、私たちの社会にはアメリカのリベラルアーツのように、政治、経済、社会、文化、全てにわたって人間的行動の判断をする基礎的な精神が、欠如しています。アメリカ社会は保守とリベラルの政治的分断によって民主主義がいつも脅威に晒されています。科学技術優先と新自由主義で世界の覇権となり、自国が苦しくなると「アメリカ・ザ・ファースト」と叫ぶトランプ大統領が支持される国でもあります。その一方で新大陸への入植(侵略)後からの長い民族・人種闘争を通じてリベラルアーツの精神を築いてきました。今日も数多くのリベラルアーツカレッジで学んでいます。
その例を挙げます。スティーブ・ジョブズは、リベラルアーツを学んでいます。「全体主義には戻らない」と言う強いメッセージは、経済活動とは切り離されたものです。アメリカは徹底的に民主資本主義を貫き、世界の人々を経済的に支配してはならないという警告です。
日本のDXの背景と現況
日本のDXの最大の失敗は、構想力のスタートとなるべき「なぜ」を深めなかったことです。国は、経済再生を狙う戦略をDXに一本化しました。DXは経済成長というコンテキストの中での価値観です。
経産省を軸としたIT/ICT化の延長の枠組みが作られて身動きできなくなりました。それ以降しばらく、従来のIT /ICT化とDXとの定義すらも曖昧になっていきます。DXは、意識改革やマインドの変革によって組織改革・経営改革という大きな価値を生み、トランスフォーメーションを実現するものであるという国の後手説明が虚しく響きます。
経団連が打ち出したsociety5.0という曖昧な定義で、将来社会へ対応するため、十分な議論もないままに始めたのがDXです。Society5.0は、「サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたシステムにより、経済と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会」と定義します。AI-Readyな国家を目指したものです。国民に向けた十分な議論を尽くさないままに推進されたDXは2022年には、政府自らがDXは上手くいっていないと告白します。(「IPA白書」)DXらしいことをやっていると回答したのは、大企業では40%、中小企業では10%以下です。その理由として、国は企業経営者の品質や資質が変わっていないこと、DX人材が育っていないことを指摘します。随分と勝手な言い分です。
文科省は、大学でのグローバルデジタル化に対応した人材育成「理数系」「情報系」教育の強化を目標とした教育DXを進めるために初めて3000億円の基金を法制化しました。情報化人材や理数系人材の育成のために「即戦力デジタル人材育成のリカレント・リスキル教育」も促します。2023年この基金で公募したら、なんと基金目当ての農学部の新設希望が一気に17も増えました。大学とは何かという本質的な問題にも関わってきます。
DXができない理由は、「DXやIT人材がいない(56%)」(中小企業基盤機構「中小企業のDX推進に関する調査」)ということで、国はDX人材育成のための基準を作りました。DXに関するリテラシーを身につけ変革により行動できるようになるための「DXリテラシー標準(DSS-L)」DXを推進する人材の役割や習得すべきスキルなどを定義した「DX推進スキル標準(DSS-P)」を定めました。
DXスキルをいくら習得しても、それを活用できる枠組みがないのですから、根源的なトランスフォーメーションは成り立つわけがありません。儲かるのは大手DXコンサルタントと人材育成企業だけです。
さらに、経産省は、DXの土台となる「マインド・スタンス」という言葉を考えました。経営品質を見直しなさいということです。変化を学び続けること、と解説しているますが、定義されている「マインド・スタンス」は、組織に貢献できる個人の成長を期待したものであり、その逆ではありません。いかにも日本的でリベラルアーツが存在していないことの証明です。
実際、DXは「Winner Takes All(勝者独り勝ち)の競争」であり、完全に競争原理に基づいた結果がでます。IT/ICT化やデジタル化は社会がその適合性を選択できますが、DXは全体最適が必要なものであり、ある意味で既存のものを破壊していく必要があります。
ここに日本のDXの二つ目の問題があります。国の施策として全ての分野を一元的に進めたことです。日本は早くからIT/ICT化を推進してきましたが、世界のIT先進国にはならなかったのは日本社会がそこまでは求めなかったからでもあります。エリック・ストルターマンらの論文「Information Technology and The Good Life」にあるように、ICTと現実が徐々に融合していく、やがてデジタルが生活を変えていくのが日本の社会のこれまでのありようではなかったのではなないでしょうか。
これからのDXはどうなっていくのでしょう。国が期待する雇用、新しい産業は生まれませんので、従来のIT/ICT推進の枠組みに戻っていきます。そもそも社会で活用されるデジタル基盤だけで新しい産業や社会的変革が起きるものではありません。
地方にいると、人が生きることと社会との関係がシンプルに考えられます。当たり前の日常が取り戻せるのです。先端技術に頼ったイノベーションではなく、持続的な分厚いイノベーションが起きることが大事です。日本の産業はこの30年間、先端的なものは捨ててきました。今さら、半導体グローバリゼーションではないでしょう。一旦、日本の本来持っているもののベースからイノベーションを見直す必要があります。いわゆる大企業を経験した経営者や専門的アドバイザーによって発想され、諮問された国のイノベーション政策は、どの分野もグローバル競争に打ち勝つ先端的なものです。このような現在のグローバル世界の現実や行動様式からスタートしても新しい日常や経験は決して生まれません。DXは人々の日常を「Experience Changing」するものですが、それは個人や社会が結果として作り出すものです。
科学技術の進歩と人間の欲望
45億円の地球史の中で、現在の人類は30万年のたった数百年で科学技術の進歩を資本主義市場に投機して、地球の自然を崩壊し、人々の争いを広げ、貧困と富の格差を作り上げてしまいました。そのリーダーは冷戦時代の米国です。ジェイソン機構に科学者を集めて軍事兵器を開発し、科学開発を国是として世界の覇権国となりました。DARPA(国防省)が開発したアーパネットワーク(のちのインターネット)もその一つです。今日、これらの科学技術はデジタル社会で民間企業に広く活用されています。
資本主義は平等、公正という名分が失われ競争の激化によって大きく変容し、金融商品が独立して市場を形成する金融資本主義を生み出しました。強いもの(持てるもの)勝ちです。
私たちは、デジタル社会を考える時に、科学と資本主義がもたらしているこの悪い潮流を認識しなければなりません。
先端テクノロジーの開発により社会や日常が急速に変わっていくということは確かに起きています。テクノロジーが日常生活に次々と影響を与えていますが、その結果、個人のQOLの向上や人類が向き合っている地球問題の解決に目覚ましく貢献しているということはありません。むしろ、否応なく使わされているという感覚があります。その典型は生成AIであり、あまりにも急に社会的インパクトを起こしたので、生成AIにどう向き合うのかは議論の真只中です。我々は、人間が作った科学技術(産業)の多くが一方で自然を崩壊して地球の限界まできているという問題に直面しています。コペルニクスやニュートンの近代科学の発見による生命と科学の発展、そして産業革命以降の人間と科学の向き合い方は変わらなくてはならないと議論され続けて、今日に至っています。
中谷宇吉郎の科学の限界と人間の欲望に関しての鋭い指摘があります。
「科学というものは、本来限界があって、広い意味での再現可能性の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。科学の法則とか実態は、全て人間が見つけるもの。科学が見つけた自然の実態である。あくまでも人間が見るには、科学の眼をとおしてしか仕方がない。」(「科学の方法」)
すなわち、「科学は自然の実態を探るというもので、結局広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が.すなわち科学の見た実態なのである。」(同)
ジェイソン機構の仕組み、あるいは原子力の開発、今日の生成AIの開発などは神が人間に与えた試練であったが、人間の欲望は強かった。生成AIが生まれてしまったときにGoogle社はこんな恐ろしいものを作ってしまうと社会に混乱をもたらすと考えて、公表せずに1年間その対策を考えましたが、やはり競争原理に負けて開発してしまいました。
「われわれがもっている自然像は人間を離れては存在しない。かつ、われわれの問題の出し方によって、違ってくる。」(同)
このことがとても重要です。私たちが科学技術によって開発したことによる結果についての全体性を把握しないまま自然像にメスを入れてはならないのです。
先端技術によって地球を救うことができるかを考えるのがDX
これがDXで一番重要なことと考えます。つまりDXの本質です。「なぜ」DXが必要なのかを掘り下げるとここに集約されていきます。究極の問いが求められます。人口が100億人になった時、全ての人に食料輸送は可能か。地球温暖化はどのようにして押し留めることができるか。世界の貧困や飢餓問題、格差社会問題などへの問いである。究極の問題を解決するために先端的デジタルがどのようにして活用され得るか。このことを考えるためには、政治、経済、社会、教育の全てについて全体を通して見通さなければなりません。
日本の伝承していくべき民藝、職人技、あるいは世界トップの畜産産業などは、100年先に継承していくための人材育成・産業育成の構想を持っているはずです。ヒューマニティを中心に据えた、地域共同体の景観を持ったクリエイティブなものです。人間はこれを主体的に構想していかなければなりません。受け身からは何も生まれません。主体的な学びを持たない人間にはデザインやクリエイティビティは生まれません。地域が周縁のままで中心になっていく姿です。未来の構想を作るために想像力を鍛え直す必要もあります。新しいUser Experienceは、自らの現状を深く理解していること、人々の心に潜むものであり、地球や地域社会に新しい意味をもたらすものです。
ムハマド・ユヌスは「「貧困は人間の運命の一部である」という事実を私たちは受け入れてしまっている。」と言います。非人間的行為です。1976年に始めたGB(グラミン銀行)はWB(世銀)とは全く別の方法によって1億人をこえる貧困の人々に生きる目標を与えました。トランスフォーメーションのモデルです。
ムハマド・ ユヌスやアマルティア・センと深い交流を続ける松井範惇は、センのcapabilityを「可能力」という言葉に置き換えてリベラルアーツを日本でも強く推進します。アジア5億人以上の貧困層をどう救うかという課題も日本に課せられた問題です。
松井の深い言葉があります。「教育が人間を幸せにするというのは間違いです。これは教育の本質的な問題ではありません。」
私たちが考えなくてはならないこと
日本は敗戦によって外から民主主義がもたらされました。しかし、民主主義は根付きませんでした。「受け身で考えているものからは何も得られません。」(大江健三郎)
江戸時代の寺子屋、私塾、藩校には市民革命で得たものとは異なる日本的リベラルアーツが存在していました。「輪読」によって、主従を変えて相手の考えを学び、自分の考えを討論する場です。学ぶことそのことが目的ですので、そこには遊びもありました。「コモン」です。そこで学んだものたちが維新改革の中心にもなりました。しかし、西洋的学びが入ると日本的リベラルアーツは薄れていきます。
戦後の民主主義が本当には根付かなかったのは、やはり「なぜ」が欠けていたからです。社会も教育も怠りました。米国に追随、従属することで経済的な繁栄は得ましたが、その結果は世界でも貧困率が高い格差社会となりました。構想力のない時流に流された繁栄は長くは続きません。1980年後半の不動産バブルの崩壊で経済成長は止まります。GDPは世界2位から4位となりました。しかもアメリカの七分の一の規模です。また、個人のGDPは22位です。失われた30年(バブル崩壊の30年と呼ぶべきものですが)は未来も続くことになるでしょう。
このことは当然の帰結と言えます。アメリカがもたらした民主主義にはリベラルアーツが存在します。アメリカ社会の民主主義は資本主義経済の基盤となって脈々と繋がっています。トランプ政権になり保守的な社会に傾いていますが、リベラルの存在は米国市民に受け継がれている一つの底流です。宗教や哲学も日本では学問として普く学ぶ機会がありません。音楽など芸術の文化的水準も高くありません。経済優先で直走る三流国と言われても仕方ありません。いまだに経済的大国を妄想しています。日本人はすぐに忘れると言われるのは、私たちが共有する哲学的なものがないからです。
戦後、「なぜ」を問わずにそのままになっている民主主義は日本の社会になぜ必要なのかを、私たち一人ひとりが日常の問題として考え直す必要があります。国の誤った方向にNoと抵抗しなければなりません。
国家戦略として膨大な科学技術投資をおこなった結果開発された情報インフラやテクノロジーを背景にして、民間のGAFAMというグローバルPFが進めたイノベーションには様々な歪みがあります。
トランプ政権の復活によって、世界の民主主義は今後ますます混乱するでしょう。米国内を分断していく政治戦略は極めて過激ではありますが、そのどちら側にも米国独立以降のリベラルアーツは存在していると信じます。一方、トランプ以前からも、米国は覇権国家として、科学テクノロジー優先、米国優先の国づくりをしていることには何ら変わりはありません。このことをこそ、私たちは問題にしなければなりません。科学と人間との向き合いを根本的に変えていかないと人類の未来はますます危ういものになります。デジタル社会とは何か、デジタルネーチャーと呼ばれる世代と一緒に、原点から私たちの生き方を考え直すことです。そのためにも、受け身ではない主体的な学びと想像力の鍛錬が必要です。