わたしたちの結婚#6/ふたりの距離感としろくま
お寺を出て、歩いて夫の予約してくれているフレンチレストランまでなだらかな坂道を歩いた。
お洒落な店構えのお店は、なんのお店だろうと2人で覗き込むと、オーダーメイドの靴屋さんだった。
自分にぴったりの靴、それはとても素敵な響きだった。
ふたたび坂道を登りながら、さっきのお店でのオーダーメイドの靴はいくらくらいすると思うか、という正解のないクイズで盛り上がった。
10万円くらいでしょうか。
いや、そんなにはしないでしょう、5万、、は無理か、8万円とか?
もしかしたら30万円とかだったりして。
靴をオーダーメイドする人生ではない私たちは、一生知ることのない値段をケラケラと笑いながら想像した。
そのあとお互いの靴のサイズの話をして、どんな靴が好きかという話をした。
なんとなくお互いの話がやんだとき、私は気になっていたことを提案した。
「あの、そんなに丁寧な話し方でなくても大丈夫ですよ。私、年下ですし」
年下に丁寧に話すのは疲れるかもしれないと思っての提案だった。
夫は驚いた顔をして、
「いえ、私たちはまだそのようにフランクに話をする間柄ではありませんから」
ときっぱりと言った。
私はすっかり仲良くなれたと思っていたので、夫にとっての私との「間柄」が親しい友人ではなかったことが、少し寂しかった。
けれど、夫は「まだ」という言葉を選んでくれた。
私たちの距離感が、もう少し近づく未来を、夫もきっと想像していてくれる。そう信じることにした。
「そうでしたか。では、その時が来たら教えてくださいね」
と言った。
夫はしばらく沈黙したあと、
「そうします。その時は、年齢ではなくて、フェアにお互いに話し方を変えましょう」
と言った。
夫の生真面目さが、少し可笑しかった。
同時に、こんなに人とまっすぐに向き合う人がいるのか、と心が洗われる気持ちになった。
たどり着いたフレンチは、シェフがひとりでやっている、こぢんまりとしたお店だった。
食事はコースが1種類だけ、というシンプルさだった。
特別感のある食材、という訳ではないのに、馴染みのある食材たちは見た目にも鮮やかで、すっかりフランス料理の顔をしていた。とても繊細で、それでいて食べやすい味付けが美味しかった。
店のカウンターにしろくまの置物がちょこんと佇んでいるのが可愛らしかった。
「しろくま、可愛いですよね」
私はおもむろに話をふった。
「お好きですか、しろくま」
「とても。特に、フランスのオルセー美術館にある、フランソワ・ポンポンのしろくまが好きなんです」
と言った。
私はかつて学生時代に訪れたフランスで一目惚れした、フランソワ・ポンポンという彫刻家の作るしろくまの彫刻の話をした。
そのしろくまがいかに可愛らしく、それでいて堂々としていて、その優し気な面持ちは、見ていてちっとも飽きないものであることを熱弁した。
「研ぎ澄まされているんです。余計な線はなにひとつなくて、それでいて彼がしろくまであることは誰にも疑う余地がないほど鮮明にしろくまなのです」
少し趣味のことを話しすぎたかしら、と夫の顔色を伺うと、夫はとても優しい表情で私を見ていた。
「しろくまが好きなのですね」
夫は優しく言った。
私は、自分がしろくま好きであることを、家族以外に伝えたのは初めてであることに気がついた。
自分が夫の傾聴する力を信じているという事実がそこにはあった。
シェフがグラスにペリエを注いだ。
シュワシュワとのぼる泡がきれいだった。
心地よい食事の時間が、ゆっくりと過ぎていった。
窓の外がすっかり暗くなったことに気がついて、私たちは慌てて時計を見た。
梅のライトアップを見にいく時間だった。
カウンターのしろくまに心の中で別れを告げて、店をあとにした。
先を行く夫の後ろ姿を眺めながら、この人と手を繋いで歩く未来を想像した。
不思議と、その想像は現実になるような気がした。
ロン204.