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わたしたちの結婚#34/物件選びの基準と葛藤


約ひと月、私たちは週末に物件を見て回った。

夫の納得する家を一緒に探そうと心に決めてからは、内見も楽しめるようになった。

写真を撮ったり、ベランダからの眺望にうっとりしたり。

だいたい似たり寄ったりな造りのひとり暮らし用のアパートと違い、外観から間取り、壁紙や雰囲気まで、それぞれの物件に個性があるため、ファミリー向けの分譲マンションを見てまわるのはとても楽しかった。

ここに冷蔵庫を置いて、レンジはここ。この間取りならリビングを見ながらお料理ができるな。寝室は、こっちが夫でこっちが私かな。なんて妄想するのも面白い。

時折、管理が悪くてびっくりするほど酷い状態の物件もあったけれど、私たちが何か言うより先に不動産屋さんが「この状態で内見可にしているオーナーさんからは借りない方がいいでしょう」などと判断してくれて、ほっとしたりした。

最寄駅やスーパー、コンビニや病院、学校についても、不動産屋さんはスラスラと教えてくれて、その町での暮らしを想像しやすかった。

不動産屋さんの知見の広さに、素直に感動した。お家だけじゃなくて、街全体に詳しい職業なんだな、と。


見るだけならとても楽しい物件見学だけれど、実際契約するとなると、当然いろいろな決断が必要で、フワフワと楽しんでいる私とは違い、夫は細かく質問したり、時折真剣な表情で考え込んだりしていた。


不動産屋さんが、物件は縁とタイミング、と言っていた通り、私が想像していたよりも遥かに早いスピードで物件は契約されていくようだった。

私たちが候補にしていた物件が、翌週には既に他のお客さんが契約してしまったということも何度かあった。


“物件は安易に契約せず、昼と夜の周囲の雰囲気の違いや、平日と休日の違いを何度も見に行ったり、ハザードマップをしっかり確認してから契約しましょう”などとテレビで見たことがあったけれど、現実にはそんな悠長なことをしていたら、程よい条件の物件は、瞬く間に売れてしまうようだった。

ちなみに、とても良心的な不動産屋さんだったので、ハザードマップについては、最新のものをこちらから何も言わずとも見せてくれた。

ひとり暮らしで家を探した時に、ここまで親切な不動産屋さんに会ったことがなかったので、いい担当さんだなあと素直に思った。



ひと通り説明を聞いた後、私たちはカフェで相談する時間を取った。

「みんな、すごい決断力だなあ」

そんな言葉がつい口からこぼれた。

「一人目のお見合い相手とすぐに結婚することを決めた君ほどじゃないよ」

ひとり言が聞こえたようで、夫が茶化して言った。

「家は引っ越せばいいけど、結婚相手となるとなかなか変更できないからね。もっと慎重に選ばなくて大丈夫だったの?」

いたずらっ子のような笑顔で問いかける。

「あなたがいいもの」

私はすぐに答える。

「君は騙されやすそうだからなあ。僕は本当はとても悪いやつなのかもしれないよ」

夫はケラケラと笑い、私の髪の毛をくしゃくしゃにした。

不動産屋さんと夫の努力の甲斐あって、夫の条件を満たす物件が2件見つかり、どちらかに決めようということになった。

築年数が20年近く経っているという点以外は希望通りで、どちらもしっかりした造りの物件だった。

ひとつは夫の職場の近くで、私の通勤は乗り換えが2回ある上に少し遠い。ゴミが24時間出せることと、大きな街に近いのがメリット。

もうひとつは私の職場と実家にアクセスがよいけど、家賃がこちらの方が高い。角部屋で採光がよく、明るい。キッチンも広くて使いやすそうなところがメリット。

「君が決めていいよ」

夫はどちらの物件も気に入ったらしく、最後は私に決断を委ねた。

夫は、自分が選んでいないと、人は納得できないと信じているから、基本的に選択肢の選定は夫がするけど、最後の決断は私に委ねてくれる人だった。

けれど、私は決断そのものが苦手で、どちらかというと、夫が満足しているならなんでもいいと心から思ってしまうので、この決断はとても難しかった。

今でも、あの時選ばなかった方の家に住んでいたら、違う未来があったのかな、なんて考えることがあるほど、私は私の選択に自信がない。

常に後悔ばかりするのは、本質的に強欲だからだ、なんてことを聞いたこともあるけど、そうなんだろうか。欲深さ故の不安症なのだろうか。より高みを目指しているようなアグレッシブな状態なんかではなくて、いつだって私はどことなく心許ない気持ちでいっぱいになっている。

つまるところ、私は自分で決めたことで未来が変わることが怖くてたまらない性格なのだ。

いい歳して何を甘えたことを、と言われるだろうけれど、年齢を重ねて、人生が巻き戻せないことを実感すればするほど、決断することが怖くなってしまっていた。


「うーん」

喫茶店のテーブルに、物件の詳細が書かれた2枚の紙を置いて、視線を行ったり来たりさせた。

「とりあえずコーヒーを飲みなよ。冷めてしまうよ」

夫が穏やかに促してくれた。


私の決断の基準は、ふたつに絞られた。
とにかく家賃が安い方にして、経済的な不安が少ない方にする。

私の通勤が近い方にして、自身の家事や暮らしの負担を減らす。(詳しくは相談していないけれど、おそらく家事は私中心だろうな、と思っていた)

お金か、時間か。
その2択であるように思われた。


固定費の削減は大事だ。頭は前者がベターだと判断していた。


けれど。


私の心は後者に惹かれていた。
それは、時間的余裕だけではなく、その物件のもつ雰囲気だった。


ふたつめの物件は、角部屋でとても明るく、リビングがとても広かった。窓からは自然豊かな山々が見え、開放的だった。

私には贅沢過ぎるとも思ったけれど、こんなところで暮らすことが出来たら、なんて素敵だろうと心が躍ったのも確かだ。

ひとつめの物件は、都会らしく少し窮屈で、大通りに面した物件は、薄暗く感じた。周囲の利便性は抜群で、条件も申し分ないはずなのに、どことなくじめっとした気持ちになった。


頭はひとつ目がいいと判断している。けれど、心はふたつ目に惹かれている。

どうしよう。
夫の利便性のことも考えると、正しい選択は間違いなくひとつ目で。

でも、ひとつ目の方にしようと言おうと思うたび、ふたつ目のマンションがより魅力的に見えた。


「さて、どっちがいいかな」

夫は穏やかに聞いた。

私は決断が怖くてたまらなかった。
出来ればあと1ヶ月くらい、念入りに物件の周りを観察した上で決めたいくらいだった。

けれど、それでは世の争奪戦に負けてしまう。

「このお部屋、素敵だと思う。私には贅沢過ぎるくらいだけれど」

私は心が惹かれている方を素直に指差した。

夫は、片眉を少し上げて、

「それはお目が高いね」

と気取った笑顔で私を見た。

「なんとなくそっちになる気がしてたよ」
「どうして?」
「内見の時の君の顔かな」

お見通しだよ、とでも言いたそうな顔をして、夫はスマホを手に取った。

すぐに不動産屋さんに電話を掛け、仮押さえの手続きを進めてくれた。

進んでいく。
その様子を見ながら、手をぎゅっと握りしめていた。

どうしようもなく緊張した。

結婚した友人たちは、結婚の準備の話について、さも幸せそうに、時に自慢げに話してくれた。

その幸せそうなステップの実態はこんなに大きな覚悟や決意が必要だということをまざまざと感じて、今さらながら彼女たちの強さを感じた。



もう一度物件の紙を見た。

このお部屋で、私たちの生活が始まるんだ。
そう思うと、この無機質な条件の羅列に、少しだけ愛着を持てるような気がした。



ロン204.

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