わたしたちの結婚#40/クラシックホテルと初めての別行動
その日の宿は、その地域で歴史あるホテルを夫が予約していてくれた。
「こういう外観好きでしょ」
夫は得意げに言った。
旅館にするか迷ったんだけど、この建物に泊まるの、君、テンション上がるんじゃないかと思って。と選定理由を付け足した。
私はファンタジーが好きで、洋館なんかを見るとワクワクするのだ。
学生時代通った学校も、見た目で選んだミーハー人間である。
実際、この歴史ある建物は、西洋美と日本様式が織り混ざったクラシックレトロな造りで、どこを切り取っても美しかった。
「うん。とても。あとで一緒に館内を見て回ろうよ」
私ははしゃいで返事をした。
フロントでチェックインを済ませると、まさに“ホテルマン”という風貌のジェントルマンが、お部屋まで案内してくれた。
エレベーターがないため、3階まで雰囲気のある階段を登った。
部屋の鍵も、見慣れたカードキーではなく、映画に出てきそうな鍵だった。
「少し開けるのにコツがいるんです。ここをちょっと持ち上げながら鍵を回すと開きます」
とっておきの秘密を共有するみたいに、お茶目な笑顔でジェントルマンは私たちに扉の開け方を指南してくれた。
部屋に入ると、大きな窓から、管理の行き届いた日本庭園が見え、その奥には、今にも物語がはじまりそうな林が続いていた。
ジェントルマンにお礼を伝えると、彼は一礼して退室した。せっかくなので、私はこの素敵な部屋を探索することにした。
バスルームを覗くと、なんと足付きのバスタブがあった。
シルバニアファミリーみたい!と心が躍る。
磨き上げられた鏡の前に、必要なアメニティが整然と並べられていた。
過不足のない美しさ感じさせるバスルームに満足して、次はホテル全体を見学しようと部屋に戻ると、なんと夫がベッドで寝ていた。
「暗くなる前に、お庭を散策に行かない?
この、館内ツアーも楽しそう。無料だし、申し込んでみようよ」
明るく声をかけても、夫は気のない返事。
「うーん」とか「そうだね」と言ったまま、ベッドから出てこない。
「君、ひとりで行って来なよ。僕は夕食まで寝ているから」
こちらを見向きもしないで、突き放したように夫は言った。
いつも優しい夫の急な態度に、心が焦る。
どこかで機嫌を損ねてしまったかな?
はしゃぎ過ぎた?
でも、このホテルを探検したいと言っていたのは夫も一緒だし、どうしてしまったんだろう。
よくよく聞くと、本当に疲れ切ってしまっただけらしく、足が棒のようになっていて、もう一歩も動けないらしかった。
のちのちわかってくるのだけれど、夫はとにかく計画を詰め込みがちで、自身のキャパシティを超えたプランを提案するクセがある。
そして、途中で電池が切れると、せっかく予定していたことでも、テコでも動かなく(動けなく)なってしまうようだった。
私はどちらかというと、自身のキャパシティよりも少し物足りないくらいの計画を立てて、現地で面白そうなことに出会えば追加したり、ゆっくり過ごしたりできるような余白を残すタイプである。
なので、はじめは何が起こったのかと全然理解できなかったけれど、本当に真逆の生き方をしている人と出会ったのだなあと最近はわかるようになってきた。
とにかく夫は電池切れで、電池が切れると、いつもの気遣った優しい言葉もなく、沈黙と休憩に徹する生き物だったのだ。
冬眠してしまったくまさんみたいに。
軽く扉を叩いてみても、返事すらない。
スイッチのオンオフがはっきりしている夫の様子に最初は戸惑ったけれど、夫にとって必要な時間なのだと理解してからは、そっとしておくことにした。
いつも張り切りすぎなくらい頑張ってくれている人だから、こういう一面があるのも人間らしくて可愛い。
私は仕方なく、ひとりで庭を散策し、施設見学ツアーに参加した。
夫婦やカップルで楽しそうに参加する他のお客さんを見ると、一緒に回りたかったなあと思ったけれど、ひとりだとよりじっくり説明を聞いたり、館内を見て回ったりすることができて、それはそれで楽しめた。
見れば見るほど、私好みのホテルで、夫はこのホテルを予約するとき、私の喜ぶ顔を想像していてくれたんだろうな、と時間差で愛情を受け取ることが出来た。
一緒に見て回れないところが、なんとも夫らしいところだけれども。
*
夕食の時間が近付いたので、夫を迎えに行った。
なんとか起き上がった夫は、大きなのびで私を迎えた。
「見学は楽しかったかい?」
「うん。とても楽しかった。ホテルの歴史を学んできたよ。見学ツアーでしか入れないところにも入れてもらったんだから」
夕食会場のレストランまでの道すがら、私は自慢げに館内ツアーの話をした。一緒に行ってくれていたら、もっと楽しかっただろうということも、甘えた声で付け足した。
思えば、夫と一緒に出かけた中で、初めての別行動だった。
これから結婚したら、別々に行動することも増えるのかな。
お互いに合わせて、一緒に動くのもいいけれど、お互いに合わせるために、別々に行動することも増えるのかもしれない。
再集合したときに、お互いの経験を共有するのも楽しいものだと思った。
疲れたことを素直に伝えてくれるようになったり、本当は一緒に回りたかったことを甘えて伝えられるようになったり。
そんな些細な変化が、私たちがこれまでよりもずっと近い距離感でお互いがお互いに接していることを感じさせた。
夫婦になるんだ。
こうして、少しずつ。
そんな実感が、何気ないお喋りに溶けていた。
ロン204.