わたしたちの結婚#36/夜の高速道路と眠気覚ましのピエタの話
目を覚ますと、私を乗せた車は、まだ暗い高速道路を静かに走っていた。
仕事の疲れもあったのか、随分ぐっすり眠ってしまっていたらしい。
「今、何時?」
頭がぼーっとする中、夫に聞いた。
「3時。まだまだ夜中だよ。もう少し寝ていたら」
夫は優しく私に言った。
クーラーで冷えた車内で、柔らかい毛布の触感が心地よく、もう一度眠りに落ちるのは容易いことだった。
けれど、車のダッシュボードに飲みかけのブラックコーヒーと眠気を止める「トメルミン」のゴミが無造作に置かれているのを見て、夫が頑張って運転していてくれたことを悟った私は、むくりと起き上がり、伸びをした。
「少しお喋りをしてもいい?」
私は聞いた。
「いいよ。どんなことを話そうか」
自分から誘っておいたくせに、突然お喋りの話題を探すのは結構難しい。
私は思いつくままに、ミケランジェロのピエタの話をした。
ミケランジェロのピエタとは、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂の中にある美しい彫刻のことだ。
「大学1年生の美術史の授業で、写真を見たの。その時なぜか、こんなに美しい立体がこの世にあるのかってすごく惹き込まれて、死ぬまでに必ず観に行こうと思ったんだよね」
「ピエタというのは、キリスト教のモチーフで、亡くなって十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアを描いたものを言うのだけど、その中でも、ミケランジェロのこのピエタは、とても美しいと言われている作品なの」
「バチカン市国でその姿を目の前にした時は、本当に感動した。もちろん私はその美しい造形にただ惹き込まれてしまっただけだけれど、敬虔なクリスチャンの方ならもっと奥深い感動があるのかもしれない」
思いつくままに話す私の話を、夫は「へえ」とか「どんな作品なの?」とか短いけれど、興味を持った相槌の打ち方で丁寧に聞いてくれる。
「このピエタはね、とても美しいのだけれど、真実的ではないと言われているの。えーっとつまり、写実的はないってことなんだけど」
「聖母マリアが成人たるキリストを抱きかかえているのだけれど、聖母マリアがまるでキリストを少年かのように軽々と包み込んでいるのね。
だから、聖母マリアの下半身が大き過ぎるとか、女性にしてはたくまし過ぎるとか、脚が長過ぎるとか言われているの。もちろん、彫刻としてのアンバランスさはないのよ。でも、美しく流れるようなドレープで表現された服の下の身体をよく想像したら、人間の自然なサイズではないよねってことなの。上半身からは、華奢な女性に見えている聖母マリアのこの彫刻がもし立ち上がったとしたら、とんでもなく高身長なんじゃないかって。
敢えて写実性を欠いたのは、母の慈愛の大きさ、深い悲しみ、息子を誇らしく想う気持ち、そんな人間的な感情を表現するために、聖母マリアはとても繊細に彫り込まれながらも、キリストを抱きかかえる姿は、彼の身体をすっぽり包み込むように、実際の身体よりも大きく表現されたのだろうって。
このことによって、正しい縮尺よりも、ずっと人々の心の奥に訴えかける作品に昇華されていると言われているの。
本当に、冷たい石から掘り出されたとはとても思えない、あたたかい愛情に包まれたような気持ちになる、そんな作品だったな」
「人間って不思議ね。正しいこと、合理的なことをどれだけ理解しても、感動はそこにはないの。人の心を動かすためには、それだけではない何かがいつも必要なのね。あの日バチカンでね、私、そのことをずっと忘れないでいたいと思ったの」
若かりし頃旅した情景を心に灯しながら、私は心のままに話した。
私にとって、あの旅は宝物だ。
心の中から、そっと取り出しては、時折その輝きを思い出す。
けれど、あまり人に話してはこなかった。
効率や損得が優先される現代社会で、私の大切にしたい気持ちは、いつも少し煙たがられているのを感じていたし、私自身、慌ただしい社会人になっていく中で、その気持ちも理解できるようになっていた。
なぜか夫には、学生時代に置いてきた美しい記憶や、瑞々しい感性を話すことができた。
ドライブで話題に困ったときは、いつも私が心の中の宝物箱を漁って、お気に入りのエピソードを共有するようになっていた。
「少しは眠気覚ましになったかな」
「君が楽しそうに話すのを聞くのは、なんでも楽しいよ」
夫の言葉に嘘はなく、心底楽しそうな表情をしていた。
夫は、バチカン市国の大きさや、入り方、混雑具合について興味深そうに聞いた。
ローマの地下鉄の駅から割とすぐで、バチカン市国に入ること自体は、ディズニーランドに入るよりずっとスムーズだと言うと、もっと厳重に警備されているのかと思った、と目を丸くした。
その後も、旅好きの私たちは、過去に自分が訪れた場所の話を交互にした。
心地のいいお喋りが、私たちを満たした。
窓の外で、規則的に並んだ高速道路の照明がキラキラと流れていき、気付けば夜明けが近づいていた。
ロン204.