わたしたちの結婚#33/わたしたちの家探し
プロポーズ、私の両親への挨拶、小旅行。
順調にイベントを進めてきた私たちは、次は一緒に暮らす家を探すことにした。
ふたりの勤務地を鑑みると、自然とエリアは絞られたので、その地域の不動産屋さんに夫が予約を入れてくれた。
何度かひとり暮らしをしていたから、不動産屋さんが初めて、という訳ではなかったけれど、ひとり用の気軽なワンルームを探すのと、結婚に向けたふたり暮らしの部屋探しというのは、随分重みが違うように感じられて、私はまた緊張した。
緊張を表情に出してしまうと、夫はいつも、自分との結婚をまだ迷ってるんじゃないかと、違う方向の心配をしてしまうから、なるべく気取られないようにしなきゃと意識したけれど、目の前に並ぶ物件リストが、やっぱり私を緊張させた。
「ネットで見た、この物件やこの物件がいいと思っているんですけど」
スマートフォンの画面を不動産屋さんに見せながら、物件のイメージを的確に伝えていく夫を、素直に心強いと思った。
私は正直、自分の理想を伝えることがとても苦手だし、そもそも、自分の理想を考えることに、とてつもなく時間がかかってしまう。
“私はどうしたいのか” がいつも、あまり浮かばないのだ。
期日までにきちんと考えをまとめてきてくれる夫の姿を尊敬しながら、それが上手く出来ない自分に少しだけしょんぼりした。
不動産屋さんは親切で合理的な人だった。
夫の提案した物件のいくつかについてはデメリットを伝え、私たち夫婦には合わないだろうと正直に言ってくれたし、夫にはない視点で、新生活を始める夫婦に人気の間取りや条件をテキパキ教えてくれた。
不動産屋さんは悪質な物件を押し売りしてくる、という勝手なイメージがあったから、親切な対応に驚いた。
かつてのテレビドラマ「正直不動産」の初期山P(営業成績第一優先の嘘つき不動産屋さん)みたいな人だったらどうしようと内心警戒していたのだけれど、そんなことは全然なかった。
むしろ、後からトラブルになる方がコストだから、納得のいく物件を契約してもらうことが我々にとって最大のメリットなんですよ、と不動産屋さんは笑った。
あっという間に、夫と不動産屋さんはいくつかの物件を選び、内見に行く運びになった。
「車を回して来ますから、少々お待ちください。奥様、お手洗いに行かれるようでしたらあちらです」
不動産屋さんは笑顔でそう言い残し、夫は満足そうに頷いた。
私は、「奥様」という聞き慣れない響きにドギマギしながら、言われるがままお手洗いに行き、口紅を塗り直し、出発の準備を整えた。
夫と不動産屋さんの選んだ物件の案内にもう一度目を通す。
不動産屋さんが選んでくれた、新生活夫婦におすすめの物件が、ほどよく私のイメージに合っていて、少しほっとした。
不動産屋さんがスマートに車を店舗の前に停め、「行きましょう」と張り切った笑顔で私たちの乗車を促した。
ひとつめの物件は、私がさっき良さそうに感じた不動産屋さんおすすめの物件だった。
駅から10分と程近く、2階建てのメゾンタイプのアパートで、築浅できれいだった。
「家賃もほどほどですし、貯金も出来ます。2LDKなので、ご家族が増えても充分ですし、住まれている方々も同世代の若いご夫婦が多く、安心してお住まいになれると思いますよ」
不動産屋さんは、自信たっぷりにプレゼンしてみせた。
私は、確かに確かにと頷きながら、思いの外きれいで便利そうなお家に胸をときめかせていた。
「うーん」
夫があまり乗り気でない声を出したので、私は自分のトキメキを慌てて胸にしまった。
「木造ですか、、、。音が気になりそうですね。あと、1階というのも、あまり好みではなくて」
「それから、駐車場。平置だと、車が傷んでしまうので、出来れば地下か立体駐車場がいいんです」
「あと、やっぱりオートロックがいいですね」
次々と出てくる夫の理想の住まいに求める条件を不動産屋さんはじっくり聞いたあと、分かりましたと頷いた。
「ご主人のご希望を叶えるとなると、こういったアパートタイプのお部屋ではなく、分譲マンションの賃貸となると思います。
アパートタイプは、アパート全体を1人の大家さんや管理会社が一元管理されている場合が多く、契約内容も明確で分かりやすいことが多いです。また、敷金礼金も比較的抑えやすい。家賃についても、比較的相場に合った設定になっていて、良心的です。
一方で、分譲マンションは、それぞれのお部屋ごとにオーナーがいらっしゃり、条件が違います。オーナーの意向に合わせて契約することになるので、個別の契約内容についてのより深い理解が必要ですし、家賃も相場によるものというよりは、オーナーの意向が強く、選ぶ難易度が上がります。
私としては、お二人での初めてのお住まいということでしたら、家賃を抑えたアパートタイプでしばらく住まわれながら、今後、分譲マンションの賃貸か、購入か、戸建ての購入か、等ライフプランに合わせて長期的に検討されるのがよいと思うのですが、いかがでしょうか」
不動産屋さんは、親身な様子で夫に賃貸住宅の説明と提案を試みた。
まずはふたりで暮らしてみて、ふたりの生活スタイルを確立してから、より高額な物件を検討するのがよいのではないかというのが、不動産屋さんの意見だった。
その提案は、至極真っ当で妥当な選択肢に思えた。
けれど、夫の気持ちは固く、条件は譲れない、分譲マンションの賃貸を探したいと言った。
不動産屋さんは、紳士的な笑顔で頷いた。
「分譲マンションの賃貸は、タイミングやご縁が大切です。根気よく条件にあう物件を見つけましょう」
私は、夫の条件の叶う物件の詳細の紙をちらと見た。
想像はしていたけれど、アパートタイプよりも5〜6万円ほど家賃が高く、月々の支払いとなると少し不安な金額が記載されていた。
この金額をベースに敷金礼金、更新料が発生するとなると、私の想定を遥かに超える支出になってしまう。
家賃は折半するイメージをしていたので、私側の予算オーバーをいつ伝えるべきか、心の中でもんもんとした。
その後、日が暮れるまで、4件ほどの内見に行った。私は、予算オーバーの部屋の見学に、今ひとつ力が入らないまま、物件の写真を撮り、各物件の特徴や条件の説明を聞いた。
たくさんの情報に圧倒されながら、その日はお開きとなった。
不動産屋さんにお礼を伝え、私たちは休憩と今後の相談のために喫茶店に入った。
「うーん、やっぱり理想の家を探すのは難しいね。今度は隣のエリアの別の不動産屋さんにも行ってみよう。ネットでも違う物件を検索しておくよ」
私は頷いたあと、意を決して予算の件について伝えることにした。
「あのね、実は、今探してくれてる条件の物件だと、私的には少し家賃が高いかなと思ってるんだ。えっと、つまり、半額ずつ出すとしたら、ということなんだけど」
私たちは、お互いの細かい収入や貯金について話したことはなかったし、さりげなく聞いてみても、夫はそのことについて明言するつもりはないようだった。
夫は、少し言葉を選ぶ間を作ってから答えた。
「僕らの最初の家は、少し贅沢なくらいがいいと思ってるんだ」
「僕らはついこの間まで他人だった。そして、正直まだお互いのことを深くは知らない。10年付き合って、生活がぴったり、しっくりくると確信し合った間柄じゃない。必ず生活の中で摩擦が起きる。その摩擦をどう上手く乗り越えるかも、僕らはまだ知らないだろう?」
「そんなふたりが、何かを妥協した窮屈な環境で暮らすことで、せっかくの関係性が壊れるようなことはしたくないんだ」
「人は、余白があれば許せることも、無理をするとぶつかり合うからね。僕は、最初の2年くらいは、君との暮らしに投資したい」
「ふたりでの暮らしが見えてきて、ふたりの譲れないポイントが定まったら、それに合わせてライフスタイルを変えるというので、遅くないんじゃないかな」
夫は穏やかに、けれど確固たる意思を滲ませた声色で話した。
世間一般にはびこる、“一度生活水準を上げると下げるのは難しい”という話や、“DINKSのうちにどれだけ貯金できるかが今後の生活の鍵”という価値観が私の頭の中を駆け巡り、その真逆の提案に不安が駆け巡った。
私は曖昧な返事をし、家探しは来週仕切り直すことになった。
*
帰りの電車の中で、初めてまざまざと感じた“価値観の違い”に面食らっていた。
そして改めて、結婚によって自分自身が差し出さねばならないものの大きさに緊張した。
夫の言ったことはとても的を得ていて、私のこともすごくよく考えていてくれる。何よりも大切なことは、私たちの関係を大切に継続することだ。
けれど、私たちはリアルな前提条件をお互いに共有することなく大きな決断をしようとしていた。
そのことが不安だった。
身の丈に合わない物件を選んで、大変なことになったらどうしよう。
小心者の私は、マイナスな未来を考えがちなところがある。
そんな不安に押しつぶされないように、夫から出された宿題を考えた。
「君はどうしたい?どんな家がいい?譲れない条件をLINEしておいて」
私の条件か、、、
職場まで1時間圏内であること。キッチンのコンロはふた口以上欲しくて、バストイレは別がいいな。洗濯機は室内に置きたい。
スマホのメモ帳に箇条書きしてみる。
私の条件を満たさない物件は、ファミリー用の賃貸住宅にほぼ存在せず、ひとり暮らしの1Kの贅沢条件は、ふたりの物件の選択にほとんど影響しないようだった。
私は何も知らないんだなあ。
ふたりで暮らすということについて、いかに自分が具体的にイメージ出来ていないかということに面食らった。
家事は分担するんだろうか。
週末はどんな風に過ごすんだろうか。
想像しようとしたけど、全然思いつかなかった。
夫との、新しい日々。
瑞々しい響きとは裏腹に、先の見えないトンネルに足を踏み入れるような心地がした。
キラキラのダイヤモンドに目をくらませていた最中、結婚が急に具体的なものになってきた。
それが不安だなんて、私はなんて子どもなんだろう。
スマホから目を離し、見慣れた車窓の風景を眺めた。
夫を信じよう。
夫の直感や、考えを信じよう。
もし、間違えても、ふたりで方向転換すればいい。
夫を信用する根拠なんて何もなかったけれど、私の心はそう決断していた。
先ほどの、全く参考にならないであろう私の条件を夫にLINEする。
大丈夫、なるようになるよね。
自分に言い聞かせて、まとわりついた不安を払った。
ロン204.