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年の瀬に思ったこと…子どもの健気さに甘える大人にはなりたくない!喝!

こんにちは!
大晦日の昼下がり、私は実家の自分の部屋(元ですが)にてこの記事を書いています。

実家にいると、やはり学生時代のことがすごく頭に浮かんできます。

やりたくもないのに、なぜか雰囲気で挙手して学級委員長をしていたこと…
やりたくもないのに、なぜか推薦されて陸上部の部長をしていたこと…
それで部員と先生方の板挟みになり、もう学校になんて行きたくないと日々思っていたこと…

私の学生時代の知人たちはおそらく私のことを「優等生」とか「しっかりもの」の印象があると思います。
実際、やっていた出来事などだけみたらそうなのかもしれません。

でも実際は常に憂鬱な気持ちを抱えていて
「休みたい…休みたいって言いたい」
と、そう思いながら暮らしていました。(実際に中長期的にお休みしたこともあります)

大人になり、自分の居場所をある程度自分で選択できるようになってくると
心が軽くなり、自分らしくいられるように感じました。

だから私の小・中学生時代は私にとっては「黒歴史」のようなものです。思い出すと今でも胸の奥がすこし苦しくなります。

〜〜〜
不登校の子どもたちや、不登校の子に関わる大人たちと毎週お話しするのが私の今のお仕事です。このお仕事をしていて強く感じるのは
「子どもたちは、簡単に辛さを見せない」
ということです。
不登校になって、辛い状況だとしても
基本的に子どもたちはそれを他の大人には見せようとしません。
(もしかしたら、お家の人にもそれを見せるまで時間がかかるかもしれません)

子どもは本当に強くて、健気で、優しい。
だから自分が「辛い」と伝えると相手を困らせたり、悩ませたりするかもしれない…と思っているのかもしれないと想像しています。

教員時代も、このことには薄々気づいていましたが
最近強く、実感しています。

その健気な優しさに、無知な大人は気付きません。

「甘えだ」
「自分が子どものころはうんぬんかんぬん‥」
「今の子は我慢強くなくて…」
「親が見守るだけだから…」など

無知な第三者からの言葉は、健気な子どもたちの努力した姿(外向けの姿)だけしかしらないからこそ、言えるのだと思います。

もちろん、私も
毎週関わる不登校の子どもたちの苦しさや大変さを全て知っているわけではありません。私の知らない、気づいていないような葛藤もきっとあるはずです。

でも
それを「想像」したり「知りたいと願う」ことはできると信じています。

一面だけを見て、子どものことをわかったような言葉を発する大人にだけはなりたくない。…そう思います。
(ちょっと言葉が強いですね。すみません、なんか見たんです。。)

子どもたちがどうして、健気に元気な姿を見せようとしてくれているのか
その裏側にはその子のどんな思いがあるのか…

それを日々考えながら
来年もお仕事していきたいと改めて思いました。

そうすると、たまに見せてくれるその子の「不安」や「悩み」「イラつき」などに対してまず思い浮かぶことは
「じゃあ、こうしたらいいんじゃない?」というアドバイスではなく
「そんな姿も私に見せてくれたんだね。ありがとう。」の気持ちになります。

〜〜〜
「どの子も丸ごと受け止める先生になりたいです」
12年前の3月、教員採用試験の二次面接で「どんな教師になりたいですか?」と聞かれて答えた私の言葉。
根本は変わっていないな、と…
自分で気づいて少しうれしくなりました。

どうか、平日お家で過ごしていたり
学校と家の往復を憂鬱な気持ちで繰り返している子どもたちの味方が少しでも増えますように。そして、私自身が身の回りの子どもたち(オンラインで繋がっている子どもたち)の味方であり続けたいです。

今年の終わりに、今の自分の気持ちを思いつくままに書いてみました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

良いお年をお迎えください。

麦原ひろみ

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