『ソロ戦争』#12 「ソロ」であるデメリット

自分の体験も交えながら女性の生き方について考え、結婚もせず子供も産まない「ソロ」としての生き方を模索するシリーズ。前回は、ソロであるメリットについてお話しました。

今回は、ソロであるデメリットについて考えてみたいと思います。

ソロは寂しい

一人でいるのはなんだかんだいって寂しいものです。私のように一人でいるのに慣れた者ですら、なにかのきっかけで不意に寂しさが訪れたりします。私の場合は家で一人でいるときよりも、外出したときに気がつくと周りが家族連れやカップルだらけで、一人でいるのは自分だけだった、というときに「寂しさ」を感じやすいです。

また、映画や美術館なら一人でも行きやすいけど、たとえばお花見や花火大会や紅葉狩りといったような季節ごとの行楽には一人では行きづらいです。また食事も、一人でも気軽に入れるレストランも増えましたが、多くのレストランは複数でわいわいやっている人たちが多いです。こういう「複数でわいわいやってる人たち」のなかに自分が一人ぽつんといると、寂しさを感じます。

遠くへ行ってとても美しい景色を見たとき、深い感動を覚えます。しかしその感動は痛みとセットになっています。「こんなに美しいものを、どうして私は一人っきりで見ているのだろう」と思ってしまうのです。

ソロは退屈

前回、「ソロは時間を100%自分のためだけに使える」と書きました。そこで仕事や趣味、友人との付き合いなどで有効に時間を使える人はいいでしょう。でもそうじゃない人もいます。そういう人は土日なにも予定がなく、退屈です。子供のいる人だったら、退屈を感じるヒマなどないでしょう。こういう言い方はアレですが、子育ては最高のヒマ潰しなのかもしれません。

偏った考え方になりがち

関わる人数が限られるソロは、あまり新しいことなどを知らず、偏った考え方になりがちです。たとえば私は、いまの小学校で英語やプログラミングが必修となっていることを最近まで知りませんでした。子供がいないと、子供関連の情報にはどうしても疎くなってしまいます。しかし、これからの未来を担う子供たちが、いまどんな教育を受けているかなどを知らないというのは、まずいんじゃないかと感じます。

非ソロは子供を通してさまざまな人付き合いがあります。子供から新しいことを学ぶ場合も多いでしょう。子供たちの間でいまこれがはやっているとか。子供の親との付き合いや、先生との付き合い、また親戚との付き合いがあります。これらは面倒なことかもしれませんが、こうしたさまざまな人付き合いをすることで人間としての広がりを得、バランスを保つことができるともいえます。

ソロ人間が恐れる「孤独死」

ソロがもっとも恐れることは、自宅で倒れたときにすぐ発見されない、ということではないでしょうか。たとえば私が、脳梗塞とかくも膜下出血とか、なんかそういう急病で倒れたとします。家には誰もいませんからその日じゅうには発見されません。次の日会社に出社してこないことで、会社の人が不審に思い、派遣会社に連絡するでしょう。派遣会社は私の携帯に何度も連絡するでしょう。何度連絡しても連絡がつかなければ、実家のほうに連絡がいくでしょう。そして実家からも私の携帯に何度も連絡が入ります。が、私は倒れているので、出られません。そこではじめて「なにかが起こった」と周りの人が感じ、親が家まで来たり、警察を呼んだりするのでしょう(そういうときの具体的な手続きについてはなにも知りませんが)。私が倒れてから警察などによって発見されるまで、何日もかかるはずです。その間に私は死んでいる可能性が高いと思います。

社会との接点がない人の場合はもっと悲惨です。亡くなってから何カ月も経ってから発見されるケースも多く、「孤独死だ」とマスコミが大袈裟に書き立てます。そういうニュースを目にすると、「やっぱり孤独死は怖い、一人でいるのはよくない」という心理に陥ってしまうのは仕方がないことだと思います。

ほかにも、世間体が気になるとか、いろいろデメリットはあると思います。なにより、メディアが「孤独死の恐怖」とか「独身者の老後」だとか、ソロを脅かす情報を次々発信しています。

ソロであることは、「ソロである」という自分のなかの葛藤との終わりのない戦いです。孤独や退屈とつねに向き合い、あれこれ言ってくる人をうまくかわす術を身につけ、少しでも自分自身が楽しく充実した人生を送りたい。ソロだって、そういう権利があるはずです。

次回からは、ここで挙げたデメリットに対する対処法を具体的に考えていきます。

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