連作短編集『Lの世界~東京編』#5 第五章:レイ
第五章 レイ
真夜中、午前二時。わたしは覚悟を決め、目の前にあるキャンバスに色を乗せていく。自分の理想の色になるまで、何度も何度も色を重ねる。
わたしは一切下書きをしない。自分のなかにある内なるイメージを大切にしている。わたしが描くのは現実にはない風景や動物ばかりだが、実際にある写真などをモチーフにしながら描くことが多い。そのためわたしはどこかへ赴くと素材のための写真を撮ることを常としていた。
制作はいつも真夜中に行う。誰も起きていない真夜中の、しんとした空気が好きだ。カーテンを開けると、大きな窓から月を眺めることができる。月はわたしの味方だ。
やがて夜が明けはじめる。ここからなにかがはじまる予感のする、夜明けの風景も好きだ。
一心不乱に制作し、夜明けを見届けてから眠りにつく。これがわたしの生活パターンだ。
もちろん、絵だけでは食っていけないので、昼間は美大時代の恩師の絵画教室で講師をやらせてもらっている。人に教えることもわたしは好きだ。教室で教えているとき、女生徒からの熱心な視線を感じることがよくある。カムアウトなんてしてなくても、醸し出すなにかがあるのだろう。
先週、摩耶が出て行った。ここにいた三カ月の間に次の彼女を見つけ、今度はその人と一緒に暮らすという。もともと摩耶とわたしは恋人としてこの家に同居していたのだが、バイセクシャルの摩耶はある日突然好きな男と暮らすことにしたと言い、出て行った。男と別れてから連絡があり、住むところがないと言うので、しばらく居候させてあげたのだ。摩耶は自分のことしか考えない人間だが、次々と相手を見つけ、住む場所を変えていく彼女は、バイタリティに溢れている。実際、それだけの魅力のある女であることも確かだった。
制作に向き合うときはいつも一人だが、わたしは生来の寂しがり屋で、一人でいることが苦手だ。常に誰かに側にいて見守っていてもらいたい。でも、制作の邪魔はしてほしくない。摩耶も、そのあとの恋人だった実花も、わたしのそんなわがままを優しく受け入れてくれ、不規則なわたしの生活にも文句を言わず、それとなく合わせてくれていた。
実花とは別れて半年が経ち、その間一度も連絡をとっていない。実花と出会ったのはLのためのSNSアプリ『リアン』だ。実花はリアンではもちろん名前を変え、自分の情報も最小限しか載せていなかったし、フォロワー数も少なかった。だからわたしは彼女と付き合うようになるまで、彼女が「二丁目の女王」とまで言われるほどこの業界で有名な存在であることを知らなかった。
風の噂で、実花に新しい彼女ができたことを知った。可愛らしいタイプの女だという。実花といい摩耶といい、ちょっと新しい恋人ができるまでのスパンが短すぎるのではないだろうか。いや、わたしがゆっくりなだけなのだろう。
今のわたしはすっかり疲れ果て、当分新しい女はいらないと思っていた。それでも明け方、一人きりでベッドに入るときは、寂しさに胸がきゅっと鳴る。
寝ようとしたとき、スマホが光った。誰かがリアンのつぶやきにコメントをつけてくれたようだ。わたしはほぼ毎日のようにリアンのつぶやきを更新していた。内容は他愛もないものだ。他愛ないほのぼのした内容のほうが、多くのいいね!がつくことを知っていた。
スマホをとって画面を見る。ついさっき投稿したつぶやきに、マリがさっそくコメントをつけてくれていた。マリはここから60メートルのところに住んでいるようだ。かなり近い。もしかしたら同じマンションなのかもしれない。どんな娘だろうと興味があったが、プロフィールに表示された21歳という年齢を見て、こちらからは近づかないでおこうと思った。
わたしは若い女には興味がない。わたし自身は今32だが、これまで付き合ったのは年上の女が多かった。わたし自身が画家であり、収入面では不安定であったため、付き合う相手は自立した女でいてほしかった。摩耶も実花も、実生活ではバリキャリだった。
わたしはむしろ40歳くらいの女と付き合ってみたかった。うんと年上の女に可愛がられ、甘やかされたい。そんなひそかな願望があった。
***
その日は夜になっても30°近くある猛暑日だった。わたしは混み合った電車に乗って新宿に向かった。
会場となっている居酒屋に到着すると、すでに大勢が賑やかに話し込んでいる。ちょっと来るのが遅かったようだ。
「春菜。忙しいのに来てくれてありがとう。えっと、今日はレイでいいのよね?」
受付にいた幹事の摩耶に会費を払い、「レイ」と書かれた名札を受け取る。
「あ、はじめまして。ショウです」
摩耶の隣にいたボーイッシュな女がわたしに頭を下げた。摩耶の新しい彼女らしい。わたしは笑顔で挨拶する。どのように笑ったら初対面の人に好印象を与えることができるか、わたしはよく知っていた。
店内はこじんまりとしており、カウンター席が7つ、6人がけのテーブル席が2つと奥に小上がりがある。今日はお店を貸し切り、20人程度が集まるということだった。空いていたカウンター席に座り、店内を見回す。知っている人と知らない人と半々くらいだろうか。
料理つき3500円のコースで飲み放題ということだったので、とりあえず生ビールを頼む。とくに乾杯の挨拶もなく、あるいはもうそれは終わってしまったのか、みな好き勝手に飲んでいた。
摩耶がこちらへやってきた。
「ずいぶん盛況だね」
「うん。リアンで募集かけただけなのに、こんなに集まるとは思わなかった。私も知らない人が半分くらい。ショウの知り合いも多いから」
「カップルで来てる人も多いみたいだね」
「そうそう。カップルでもフリーでもOKってことにしたの。でも半分はフリーだよ」
「年齢層も幅広い。意外と若い子もいるね」
「30代以上に限定しようかと思ったんだけど、やっぱりリアンって若い子のほうが多いから」
摩耶と少し話したあと、次々と知り合いがわたしの元を訪れ、ちょっとずつ近況なんかを話し合う。知り合いの一人にテーブル席に連れていかれそうになったとき、ふと、カウンターの端っこで一人で飲んでいる女の子と目が合った。腰まであるウェーブがかった金髪、くっきりした意思の強そうな瞳、頑なに結ばれた唇には真っ赤な口紅をつけている。かなり派手で綺麗な女の子だが、その背中には話しかけられることを拒むようなオーラがあり、皆ちらちら見ながらも話しかけられずにいるようだ。わたしは躊躇せずその女の子の隣に立ち、「よかったらテーブル席で一緒に飲まない?」と声をかけてみた。
「いえ、いいんです、ここで。こういう場に来るの初めてで、緊張してて」
女の子は先ほどから熱心にスマホを見ている。
「誰かと待ち合わせしてるの?」
わたしがこう言うと、女の子はなぜか泣きそうな顔をした。
「一人で来たんです。ほかの出会いを探そうと思って」
「出会いを探してるならなおさら、ほかの人とどんどん話したほうがいいよ」
女の子の隣の席が空いたので、なんとなくそこに座る。
「なに飲んでるの?」
「アーリータイムズのロック」
若いのに渋い趣味のようだ。わたしも同じものを注文した。
「お酒、強いんですか?」
女の子がおずおずと聞いてくる。
「ついつい飲んじゃうね。強くはないから、酔っ払っちゃう。ところであなたの名前は?」
「マリです。名札がとれちゃって」
あ、この娘がリアンのマリか。想像していたより綺麗で大人っぽい。わたしは名乗らないまま話を続ける。
「なんか嫌なことがあったとか? それで一人でオフ会に参加を?」
わたしがあてずっぽうで言うと、マリはなんでわかったのかという表情をしてわたしを見た。顔に出やすい娘だ。
「彼女が……浮気してるかもしれないんです。もともと浮気性の人ではあったけど。浮気性って一生治らないものなんでしょうか?」
「まあ、一般的にはそうだって言うよね」
こう答えると、マリは絶望的な顔をした。
「で? 浮気性の彼女と別れるために、ほかの人を探そうと?」
マリは黙ってうなずく。
「ふうん。どんな人がタイプなの?」
「もともとはフェム好きだったんですけど。今の彼女はボイなんです」
「ふうん。どっちもいけるんだ」
「いや、本来はフェムが好きです。今の彼女が特別というか。ずっと長い間友達だったし」
「長い間友達だった人と付き合うって、めずらしいパターンだね。わたしは一回友達になったらずーっと友達だな」
「はい。私も自分の気持ちがずっとわからなくて。最初はなんとも思ってなかったのに、次第に彼女がほかの女の話をするたびに苦しくなって。ああ、いつの間にかこの人のことを好きになってたんだなと思って。そのときほかに付き合ってる彼女がいたんですけど、その自分の気持ちに気づいて、別れました」
「前の彼女って、ユリさんだよね?」
「知ってるんですか!?」
「だってユリさんのつぶやきとかコメント、だいぶ匂わせてたじゃん」
「ところで、あなたは」
そのとき、「レイ!」とテーブル席からわたしを呼ぶ声がしたので、振り返って手を振る。マリの目が見開かれる。
「え、お酒、飲んでるじゃないですか」
「へ?」
「レイさん、なんですよね? リアンでは、お酒飲めないって書いてましたよね?」
真面目なことを言うマリがおかしくて、大声で笑ってしまった。
「あれはキャラよ。あなただってキャラ作ったりするでしょ」
「しません、私はそんなこと」
マリがちょっと怒ったように言う。
「まあ、ちょっとあっち行ってみない? 友達紹介するから」
マリを連れてテーブル席へ向かう。テーブル席にいた人々がどよめいた。皆、マリと話したかったのだ。
わたしの隣に座ったマリは、さっそくいろんな人から質問攻めにあっている。わたしはその場にいた知り合いと適当に話し、知らない人とは自己紹介し合い、互いのリアンをフォローし合った。こうしてどんどんフォロワーが増えていく。
皆酔いが回ってきて、カラオケがはじまった。わたしも歌う。「なにが聴きたい?」とマリに聞くと、尾崎豊の『I LOVE YOU』をリクエストされた。ほんとに趣味が渋い娘だ。けれどそれはわたしの得意曲だった。わたしが歌い始めると、皆うっとりしたように聞き入っている。マリがわたしを凝視している。フェム好きと言っていたが、この娘、わたしのこと気に入ったのかな。
歌い終わると一斉に拍手が沸き起こる。入口に立っている女性が、ひときわ大きく拍手してくれた。どうやら今到着したらしいその女性は、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。
肩よりちょっと下まで伸びた黒髪はゆるやかなウェーブ。パーツの小さい顔立ちはかなり整っていて純日本風。どことなく上品な感じは壇蜜を彷彿させる。会社帰りなのか、白いシャツにスーツパンツというスタイルだ。デキる女といった雰囲気を醸し出している。
「とても素敵だったわ」
彼女がそう言ってわたしに笑いかける。笑うと目じりに細かいしわが寄る。ああ、たぶん40代の方だ。飾り気のないスタイルなのに、彼女の全身から妖艶な色気が立ちのぼっている。一言も話していないのに、名前も知らないのに、ただその姿を目にしただけで、わたしは彼女にロックオンされていた。