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『あのこは貴族』『その女、ジルバ』にみるシスターフッド。2月28日の日記

昨日は23時半ころに寝て、朝8時前に目が覚める。トイレに行き、暖房をつけていると暖かくてまた眠くなってきて寝る。起きたのは10時半。よく眠れた。

ネット。映画の予約をする。昨日作ったカレーを温めて食べる。とてもおいしくなっていた。

録画した『その女、ジルバ』を観る。妊娠したスミレ。石動と一時的に連絡がとれなくなったことで情緒不安定に。やっと連絡がついた石動にプロポーズされるものの、今まで一人で生きてきたスミレは自分が幸せになんてなれるはずがないと思い込み・・・。今回もかわいい江口のりこ。スミレは不器用でツンデレで、面倒くさい女だけど、だからこそかわいい。スミレを励ます新も優しいし、くじらママの言葉は沁みる。ジャックアンドローズで開催された結婚パーティーでは、みんなが笑顔でスミレを祝福してくれる。すでに会社を辞めて島根の実家に帰ったミカも駆けつけてくれる。スミレ、よかったね・・・!祝福ムードのなか、突然くじらママが倒れる。くじらママの過去が描かれるらしい来週も楽しみ。

用意して出かける。映画『あのこは貴族』鑑賞。東京の松濤で生まれ育った上流階級のお嬢様・華子(門脇麦)と、それとは対照的に富山で生まれ育ち、猛勉強して慶應義塾大学に合格して入学するものの学費が出せなくなって中退せざるを得なくなり、キャバ嬢などのバイトを転々としてやっと就職してなんとか生活している美紀(水原希子)。階層が違う彼女たちは本来出会うはずもなかったが、あるきっかけで出会う。

私自身も地方出身の上京組だから、どうしても美紀のほうに感情移入して観てしまう。「東京は棲み分けがされている」「違う階層の人とは出会わないようになっている」というセリフがあるが、本当にその通りだ。私の周りにはいわゆる「上流階級」の人は皆無。上流階級の人は、普通に働いたりしないし、付き合うのも同じ階層の人間だし、移動するのだって電車とかじゃなくタクシー一択だ。私たちの場合は、働いてないと「無職」ということになるけど、上流階級の場合は「働くこと」がはしたないことであり、「家事手伝い」が当たり前。「家事手伝いって具体的になにをしてるの?」と野暮な男に訊かれれば、「習い事したり、クラシックコンサートに行ったり、美術館に行ったりしている」と優雅に笑いながら答える。それが普通のことだと思っている。働こう、と考えても、自分から職を探そうとするのではなく、親戚に会って「私にできるお仕事はないかしら?」と聞くだけ。もちろん、上流階級の人にも、家を継がなければならないという縛りがあったり、自由に生きられないという悩みはあるだろう。けれども、上流階級の人のほとんどは、自分がそういう家に生まれて家を継ぎ、そのためにしかるべき家柄の相手と結婚して子供を産み育てる、という人生に、それほど疑問を抱いていないように思える。華子の結婚相手である幸一郎(高良健吾)は、「普通に家を継ぐことだけ」が大事だと言い切る。夢なんかないと。華子との結婚も、そのためだけだった。一方、地方に生まれて一生その土地から出ないという人も、数多くいる。ていうか、地方に生まれた人の大半がそうだ。私の田舎でも、東京に出る人なんて稀だ。どんなに優秀な人でも、目指すのは東北大学。東京に出て一旗上げようなんて考える人はほとんどおらず、多くは地元の大学を出て地元の企業に就職し、地元の人と結婚して一生地元で暮らす。それが当たり前だと思っている。どこか上流階級の人と似た思考回路だ。

生まれたときからある程度人生のレールが敷かれていて、その上をただ歩けばいい人生って、楽だな、と思う。余程へまをやらなければ、なにも問題は起こらないし、自分から動かなくても周りがお膳立てしてくれていろんな物事が進んでいく。自分はただなにも考えず、周りに動かされるとおりに動いておればいい。こういう人生のなにが一番いいかというと、自分の進路についてあれこれ悩まずに済む、という点だ。初めから決まっているから、悩む必要がないのだ。

けれど、多くの人はそんないい家に生まれることもなく、自分で自分の進路を決めて、あれこれ悩みながら人生を歩んでいくことになる。どちらの人生がいいか、という話ではなく、それぞれの人生がある、ということだ。別の階層に行くことはできないのだ。だから、人は自分の生まれた環境を引き受けて、そのなかで精いっぱい自分らしく楽しく生きていくしかない。

門脇麦も、水原希子もよかったけれど、それ以上によかったのが、石橋静河だった。彼女が演じる逸子は、華子と同じ上流階級でありながら、周りに流されず、しなやかに自分の生き方を貫いている。バイオリニストとしてドイツを拠点に活動し、周りが次々結婚するなか独身のままドイツにいる恋人と付き合っている。時折ふらりと帰国しては、華子とお茶したり、イベントでバイオリンを弾いたりする。自由に生きているように見えるが、周りの上流階級の友人たちともうまく付き合っている。ある意味器用。逸子の語るセリフがとてもいい。「日本って、女たちを分断する文化があるじゃない?私そういうの好きじゃないの」これは、この映画のテーマでもある。

「女同士」というと、なぜか日本では「大変だ」「ドロドロしている」という形容詞が付いて回る。女性だけの職場、と聞くだけで「派閥があるんでしょ?」とか「いじめられたりしない?」とか心配される。「女の敵は女」という言葉を皆当たり前に受け止めており、女同士は男を取り合うライバル、仲が良さそうに見えても陰でマウンティングし合っている、嫉妬し合っている、ということになっている。実際にそういうテレビドラマとかも今までは多かった。確かに、女同士の確執とか、ドロドロした醜い争いみたいなものをテーマにした話は、面白い。でもこれ、ただの「イメージ」であって、現実は違う。女性だけの職場は、多くの場合、すごく居心地が良い。なぜかというと、女性はほとんどの人がきちんとしていて真面目に仕事をし、協調性も高いからだ。だから女性だけの職場では、皆が連帯して真面目に働いて成果を出していることが多い。女性はほかの人に目配せするのも得意なので、誰かが調子が悪そう、なにかあったのかも?ということにもすぐ気づいて力になってくれる。誰かになにかトラブルが起こったら、みんなで連帯してそれを乗り越えようとする。女性一人一人の力は弱い。けれど、連帯すればそれは大きな力となる。それなのに、なぜ「女同士は大変だ、ドロドロしている」というイメージがついているのか。それは、日本が男社会だからだ。つまり、日本は「女=弱い存在」のままであってほしいのだ。女たちに連帯されて力を持たれては、男たちが困るのだ。

最近ようやく「シスターフッド」が語られはじめ、この映画や、ドラマ『その女、ジルバ』のように、女同士の連帯を謳う話もたくさん出てきている。女の敵は女ではない。むしろ女は味方だ。「女の敵は女」という言葉は、男社会がもたらした悪しきイメージであって、現実ではないのだ。少なくとも私は経験上、そう思う。

映画のあとは、突然ミート屋のパスタが食べたくなり、阿佐ヶ谷まで行く。いつも頼むミートソースの納豆のせ。とてもおいしかった。

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