『風と木の詩』とか。1月18日の日記
昨日も3時半に薬を飲んで寝る。起きたのは14時すぎ。ずっと寝てたわけじゃないけど。ベッドのなかでうつらうつらしながらぬくぬくごろごろしてるって至福なんですよ。普通の人は皆、寒くて眠いのに起きて支度して会社行ってんだなあ、ご苦労様です!という感じ。謎の上目線。ま、こっちのほうが負けてるんですが。
ご飯を炊いて、豆腐とわかめとねぎの味噌汁を作り、食事。録画した『おちょやん』『その女、ジルバ』を観る。面白かった。
ネット。Twitterで日野日出志先生をフォローさせていただいており、ときおり日野先生の過去の漫画の動画が流れてくるので、よく観てるんです。私、日野日出志ファンでして、スマホケースも日野日出志のグロい絵がごちゃごちゃ描かれたもので、見た人皆に引かれております。
ま、それはどうでもいいんですが、今日その動画を見ていたら、YouTubeのおすすめに『風と木の詩』のアニメが出てきました。このアニメ映画は30年以上も前のもの。高校時代、漫画研究会の部員たちと一緒に視聴覚室で観たのを思い出しました。ちなみに私は漫研の部長で、私の一存で観る映画のタイトルを決めておりました。
実に30年ぶりに視聴したのですが、いや美しい。原作漫画は長いのですが、このアニメは一時間ほど。原作のほんの序盤しか描かれていません。オーギュスト役の塩沢兼人がいい。出番は一瞬なんですが・・・。
原作漫画はもう何度読み返したかもわからない、私のバイブル。映画では、ショパンのエチュードを効果的に使い、場面を盛り上げます(主人公の一人がピアノを弾くという設定なので)。
高校生だった当時はこの映画を観て、少年同士の絡みにキャーキャー言ったり、ジルベール美しい!オーギュ素敵!とか、そんなミーハーな感想しかなかったと思います。この漫画に対する思いは、このころから変わってません。ひたすら耽美、文学的、芸術的な作品。「人間」の本質を描いた作品。
ですが、年を取って読み返してみると、つくづく思います。ジルベールというのは、実父から性虐待を受けて育った子供であり、社会に適応できない、社会的弱者なのだと。ジルベールの類まれな美しさというのも、彼の人生のプラスになるどころかマイナスになる。家がいくら裕福であろうと、ルックスがいくら優れていようと、地頭がいくら良かろうと、環境や育てられ方が良くなければ、良い人生にはならない。セルジュと出会ったジルベールは、実父のオーギュから逃げ出し、セルジュとともに暮らし始めます。しかしうまくはいかず、自ら堕ちていき、非業の死を遂げます。ジルベールは最後まで、オーギュの支配から逃れることはできませんでした。
高校生の私が夢中になってこの漫画を読んでいるのを見て、母もこっそり読んでいました。過保護気味の母は、私がどんなものに影響を受けているのか、つねに気にしていたのです。母もこの漫画をたいそう気に入りました。そしてジルベールについての所見を言いました。
「ジルベールは、普通の親に普通の育てられ方をしていたら、こんな風にはならなかった。同性愛者にもならなかったし、普通に女の人と恋愛して幸せな生涯を送ったに違いない」
私はそれを聞き、呆れました。なんて興ざめなことを言うんだろう。ジルベールもオーギュも、同性愛者だから美しいんじゃないか。あんなに美しく蠱惑的なジルベールが女と恋愛?そんなの耽美でもなんでもない。女と恋愛する普通のジルベールなんて、全然魅力的じゃない。母はなにもわかってない、と思いました。
けれど、今、あのころの母とほぼ同じ年齢になった私は、母の意見に全面的に賛成します。ジルベールは普通に育ったら、全く違う人生を生きていた。人並み外れた美しさが、マイナスではなくプラスになる人生を。本来持っていた頭の良さ、気品、陽気さが生かされた、幸せな人生を。
もちろん、そうなってはあの傑作漫画はなかったわけで、そもそもオーギュの子じゃなきゃあの美しい悪魔的なジルベールは誕生しません。そんなことはわかっています。でも、この漫画のジルベールがあまりにも可哀想なので(当時は可哀想とは思わず、ジルベールが男に犯されるのを「耽美」「萌え」と思っていました)せめて別の人生があったかもしれないと考えるくらいは許されるのではないかと、思います。
とはいえ、やはり、漫画は別。寺山修司はこの漫画に、「万歳!ジルベール」という文章を寄せ、ジルベールの「悪」を絶賛しています。寺山によれば、「ジルベールも、オーギュも、ボナールも、みな人間的な真実にあふれている。セルジュなどという堕天使に負けてはいけない」ということになります。セルジュが堕天使扱いです(笑)。
昨今のポリコレ的な観点から、オーギュのやったことを批判したりするのはむしろたやすいでしょう。けど、彼のなかには彼なりの「愛」がありました。オーギュが育てたジルベール、悪魔的なジルベールは、間違いなく美しい。太陽というよりも月のような、儚い美しさ。儚いからこそ、社会不適合者だからこそ、ますますいっそう輝く美しさ、なのです。