2011年3月11日、優しい人たちと夜の底を歩いた話
2020年9月6日。台風の訪れとともに灰色の夏も終わるようだ。といってもまだまだ暑くて、なかなかエアコンの効いた室内を出る気にはなれない。
旦那を送り出し、1歳の息子に朝ご飯を食べさせ終えた月曜日の午前中、テレビの大画面でYouTubeを自動再生にしていたら、ビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」が流れてきた。小さな頃から何度も聞いたことのある曲で、一般的にいい曲だとは思っていたけど、個人的には何の思い入れもない。はずだった。
ぼんやりと消えていく小さな字の日本語訳をみながら、曲が終わる頃には号泣していた。そうか、こんな歌だったのか。
「夜の街」の中には、こんな豊かな世界が広がっていたんだっけ。「なじみの酒場で孤独をお酒で流し込む」なんていうとずいぶん悲愴に響くけど、それでも、一人で飲むよりはずっとマシだ。飛び交う声と音楽、染み付いたタバコの匂い、橙の灯に照らされる隣客の横顔、マスターの変わりばえのしない世間話。そういう類の救いがないと、生きていくのがむずかしい人は、瞬間は、きっとあるんだろう。そんなことを考えていたら、ふと思い出した。
「東日本大震災の時、どこで何をしてましたか?」っていうのは、わりとベタな話題で、「あ、それならアタイ、いいもん持ってまっせ」ってな感じで語り出してくれる人も多いような気がするんだけど(そうでもない?)、私はこの件について正直に全貌を話したことがない。まるで突拍子がないし、長いし、大昔だし、うまく説明する自信がないからだ。
当時、私は新宿の小さな編集プロダクションで働く、24歳のコムスメだった。オフィスは、花園神社の先にある雑居ビルの、お風呂と小さなキッチンも付いた居住用の2LDK。社員は10人そこらで、窓のない狭い部屋に、大きなマッキントッシュを3台並べて、非喫煙組の3人が押し込められていた。ちなみに私以外全員男だった。そりゃそうか、エロ本とスマホのマニュアル本作ってたんだから。
懐かしいな。左隣には「地主になりてー」が口癖の、同い年のUくん。私服通勤なのにいつも同じスーツを着てきて、私が入社した時はバリバリのうつ病だった。右隣は、いつも穏やかな口調で小粋なブラックジョークを飛ばし、「ggkですよ」(当時流行っていたネットスラングだけど、知ってる?)と言いつつも絶対に見捨てずに面倒見てくれた優しいNさん・・・ああこんなこと書いてたらいつまでも終わらないから、とにかく、あの大地震が起こった。
ボヤボヤしてるうちに電車は止まり、タクシー乗り場には地獄のような長蛇の列ができ、あらゆるお店が閉まり始め、覚悟を決めて歩き出す人が出始めた。私はというと、会社の人とは解散したものの、頼れる人もなく(電話も通じなかったよね)、新宿から国分寺のアパートまで歩く想像もできず、かといってタクシーの列に並んではみたものの、乗れる気もしなかった。
ふと空を見上げると、もう夕方だった。なんか綺麗な空だった。そっか、別に帰らなくてもいいじゃん。待ってる人、いないし。そっか、夕方なら、飲みにいこ。
なんとなく、思い出横丁なら絶対にやっている店があるような気がした。ずっと、一人で行ってみたかったんだ。私って頭おかしいんだろうなと思いながら、別にいっか、とつぶやいて足取り軽くグレーがかった人波を縫って進んだ。
のれんのかかっているお店は半分くらいだったと思う。自分と相性のいい飲み屋を嗅ぎ分ける訓練はそれなりに積んできていたから、中を覗いてパッと入った。当たりだった。
優しくて控えめな、かなりの斜視で、栃木訛りのママがやっているお店だった。もくもくと煮込みの仕込みを続けているのを眺めながら、地震の話をするだけでだいぶ、ホッとした。冷えてきた体を日本酒で温めながら、小さなテレビのニュースを食い入るように見つめていると、一人、二人と、お客さんが増えてきては、一緒に地震の話をして、テレビを見つめた。
そのうち隣に座ったのはスーツを着た若い男の子で、聞けばちょうど地方から就活で東京に出てきていたという。もう何度目か、何度見ても目を疑ってしまうような津波の映像を二人で見ていると、彼はボソッと「俺、地元、宮城なんすよね」とつぶやいた。そんなこと言われたら、もうお店中が彼を心配してしまう。親族はどうやら無事らしいが、何人か、心配な友達がいるという。誰かがボトルを入れてみんなに一杯ずつ振る舞ったので、成り行き上遠慮がちな乾杯をした。「でも、今日ここに来てよかった」なんて誰かが言い出す。そのうちママが言いにくそうにお店を早じまいするという頃には、うっすら運命共同体ぐらいの気分になってた。
常連のおっちゃんが「よかったら、もう一軒いきましょう」って言い出して、その時お店にいたみんなでのった。そんな時間にお店を追い出されても、電車もなきゃタクシーも絶望的で帰れっこないのは確かだったから、もしかしたら私のためにみんな、のってくれたのかもしれない。「まだ飲めるところが、ゴールデン街にあるんですよ」西口から東口へ、酔っ払いの一団が大移動。夜の底でサザエさんのエンディングやるなんて、なかなかできないよね。
ゴールデン街のお店ではそれらしくオネエのママと刺激的な人たちがいたと思うんだけど、疲れて眠くてあんまり覚えてない。そのうち、そこで出会った金ピカネックレスの不動産会社社長って人が奔走してタクシーつかまえてきてくれて、ありがたくそれに乗って帰った。家に帰った頃には日が昇り始めていた。床に散らばったCDを踏まないようにベッドにダイブして、泥のように眠った。
このクソ長い話の登場人物誰一人としてもう会うことはないだろうし、べつにまた会いたいわけじゃないけど(あ、UさんとNさんはべつね)、あの夜は、一人じゃなくてよかった。あの飲み屋さんは、まだあるかな。もうないような気がする。
私たちは今まで大切にしてきたものをためらいもなく差し出し、信じられないぐらいの負荷を引き受けて、たたかっている。生き延びた先に何があるのか。
いつかまた、見ず知らずの優しい人たちと、乾杯したい。今は心のなかで。