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#呼ばれなかったパーティーを抜け出す方法 ?

まず、ここに「呼ばれなかったパーティー」というものがあると仮定する。
なぜパーティーに呼ばれなかったかというと、あなたは(わたしは)もうすでにそのパーティーの構成員から外れているためであり、パーティーに呼ばれるためにはそのパーティーの構成員であるとみなされる必要が、主に主催者からパーティーに参加して欲しいと思われる必要がある。
つまりはまずあなたが(わたしが)本当にパーティーから抜け出すことを望むなら、以下の如くして計画的に抜け出すことが必要とされるのである。また、運に恵まれることも重要だ。

まずは新学期。この時期にパーティーから呼ばれないということはまずないだろう。それから夏頃にかけてがパーティーに呼ばれる・呼ばれない岐路を分かつことになる。人生における新学期とは二十代のことである。一日における新学期とは午前八時までのことを指す。これはあくまで当社の目安となる基準です。
おやつどきにパーティーによばれたら、まずは参加してみましょう。そして3次会で帰る。夕方に呼ばれたら二次会までいましょう。そして。夜のパーティーに誘われたら、ほらきたやっと、抜け出す出番です。
パーティーを抜け出すためには、まず優先的に「こいつはパーティーに呼びたい、呼べば来るだろう、そして帰らないだろう」と周りに思わせる必要があります。「呼ばれなかったパーティーは抜け出せない」のです。
あるいはここに「ぬけだしたパーティー」というものがある。これは、パーティーがあなた(わたし)を通過して行ったものであり、パーティーがあなた(わたし)を抜け出した状態をいう。ここまで来ればお手上げで、あなたは(わたしは)一生パーティーを抜け出すことができない人生から「一度きりしか」抜け出すことはできません、もしくは一度も抜け出せずに終わるでしょう。これについては恭しく後述するにまかせよう。
そして最後に、主催者側に回ってしまうというのは禁断の手でもある。しかしこうなっては抜け出すのは厳しい。いないことがすぐに周囲に分かってしまう人はパーティーを抜け出すのに適役ではない。
存在感がない人は、そもそも抜け出す意味ないので最適なのはほどよく周囲に溶け込めるが最初にいたかいなかったか思い出せる程度の人柄を持つということである。
ところで、なぜパーティーは抜け出すべきなのか。それは、そこにパーティーがあるからだ。不参加する、または退場するとは違った選択としての「抜け出す」には高度な技術が必要とされ、未だ私は成功したことがない。有力な情報提供、求まない。
そもそもパーティーなんて好きじゃないし、という御託を並べる人はパーティーを抜け出せないのである。
1番場に溶け込みかつ楽しみ楽しませ、信頼を勝ち得てこそ成せる行いであり、パーティーを抜けるということは場所をうつすということに過ぎず実は祝祭は続いているのである。したがってパーティーを抜け出すという状況は存在しない。
すべてはフィクションであった

#大人になればわかるよ #呼ばれなかったパーティーを抜け出す方法!最速で!めちゃくちゃ簡単に!知らないと損!#そんなものはない
闇バイトこわい。知らない人について行ってはいけない。職が無オレ(私の好きな言葉です)とローランドさんは言った。パーティーが無オレ。Amore。みんなで無職になろうよ。アナーキーの時代やでしかし。無職のほうが闇バイトより🆗じゃない??蟹工船なリアルだぜ。。。。

さて後述を歌い上げるとしよう、人生は舞台だと三島由紀夫もその先人も述べたものだが、人生がパーティーなら途中で抜けるとはいかなることか、もうお分かりだろう。つまり、最初からお呼ばれでない人、追い出される人、居るのが辛くてやむなく帰る人というのは抜け出し成功者とは呼べない。人生をエンジョイ愉しみ尽くし周りから予想もされずにいなくなり、しかもそのあとで気づかれる算段が整わないと実行できない。わたしにはその手順がととのわない。人生なんか、と嘯く人物に人生を抜け出すことは真の意味でできない。これはパーティーより深刻なことだ。そもそも、と言いかけて「 #国は安楽死に賛成してください 」というハッシュタグのことを思い出す。何かが違和感を残すこの文はいったいなんだろう。賛成されるとそれはそれで、いや、うーん、国というのも一つのパーティーであろう。スイスに行きたい。あ、カナダか。しかし安楽死はパーティーを抜け出すことにはならない。やはり追い詰められた末の退場はいくら安らかといえども定義として異なる。では、屋上から手を繋いで飛び降りる平々凡々で幸福なそれを自覚した女子中学生らが実行する死がパーティーを抜け出すことなのか。
もしもそうだとしたって、私は平々凡々で幸福なそれを自覚した女子中学生ではなかったし、なぜかニュースを人々は消費しては忘れ去ってゆく。簡単に忘れられてしまうのはパーティーを抜け出すの定義に当てはまらないが、でもこれはちょっと想像上の完成系に1番近いような気もする。凄く後味の悪い話になってしまった。(口当たりのいい話をしようとは思っていなかったが、思ったより陰惨な結論が待っているとはね…)
なぜ後味が悪いかといえば、わたしたちはだいたい「パーティーを抜け出された」側に立っているからだ。先日Xでそういう抜け出し方を"勝ち逃げ"と称して炎上した作家志望の方がいたが(知り合いではないものの、フォロワーのフォロワーだった)、なぜ炎上するかというとそこに真理が潜んでいたからなのかもしれない。単純に不快というよりは、その不快に込められた屈辱感というのは、まさに抜け出された者たちのそれだろう。
抜け出したいのに抜け出せない私たちは抜け出せる条件を持った人が、稀有な人が羨ましいのだ。それはパーティーをそこそこに楽しんでいる人とか楽しもうと工夫しようとする人とかそもそもパーティーは抜け出すもんじゃないと信じているたちからすれば甚だ不謹慎に見えるに違いない。どうやったらパーティーが楽しめるか、ではなくどうやったら綺麗に抜け出せるかに重点を置いているのだから。しかしなぜ抜け出したいのかと聞かれても、そこにパーティーがあるから。としか言えないだろう。これは人口の何%を占めている思考なのだろう?てかYouTubeのコメント欄とかで「〇〇な人私だけ…?」ってコメントしてる人で本当に特殊なこと言ってる人って数パーセントも見たことなくて大体共感され待ちだよね。って思うのはあたしだけ⁇
太宰治などは苦しんでいたから抜け出したとは違う気がする。三島由紀夫のほうが抜け出した感がある、とか言ってみる。
くだんない、つまんない世の中を、満たされた女子中学生になって空を飛びたい。
…そんな人のために詩はある時もある(ない時も餅論ある、)んだね。詩があってよかった〜。
生きてるって#なまあったか〜い←むりやり平和的に終わらそうとすんな。お開きはまだでーす!

(反出生主義というのはそもそもパーティーをなくしちゃえということですな。それもいいかもー。呼ばれなかったパーティーは抜け出せないけど楽しめないけど呼ばれたパーティーを抜け出せないのと楽しめないのとどっちがつらいかな?)

人生は続いてゆくよ。否応なく最後まで参加か〜?盛り上がってるか〜い
p.s.やっぱりパーティーを抜け出すには某文豪の如く先輩作家のパーティーに出かけて行って直接に「僕はあなたの文学は嫌いなんです」と言いに行くぐらいじゃないと無理っちゅーことやね(無理ゲー過ぎて)

今日の音楽:「共演者」♪人生は舞台だって誰か言ったよね♪〜完〜

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