人生は、待ち合わせしている人と会う為の旅である。
先日の五常講師の会で、
また新しい出会いがあった。
私は出会うべき人と出会ったとき、1番の幸せを感じます。幸運なことに、その瞬間は今までの人生で何度か訪れて、その度に私は思う。
それは、出会うべき人は『好き』を追い求めた先にしか居ない、という事。
その『好き』は本当に好きな事。
消去法で最後に残ったものや、◯◯するべき、得意だから、周りに進められたから、とか妥協したものではない。
むしろ誰に反対されても辞められない事。
それはゲームとか、旅行とか、絵をかくとか、
やっていても誰にも褒められないような事かもしれない。
私にはそれが占いだった。
占いは、何か特別なキッカケがあった訳でも、親に進められた訳でも、何か自分の仕事に役立ちそう、とかでもなく、夢中になるもっともな理由は何もなかった。ただ恋愛の行く末が気になって見るようになっただけ。
だから、占いに時間を費やす事は、何か無駄な事をしている様な、悪い事をしているような罪悪感が、いつも付き纏っていた。
だけど、『知りたい』という衝動を抑えきれず気がつけばいつも占いを気にしていたし、お守りや、魔女が持っていそうな?アイテムには、心が躍った。
最初は本で読む程度だったのが、実際に占いの鑑定に通いだし、その後は自分でも占ってみたい、と思い勉強する様にになった。
抑えきれない占いへの想いが、今自分をこの人生に連れてきたんだな、と思う。
でも、だからと言って私は今占いを仕事にしている訳ではない。
好きな事が、必ずしも仕事になる訳ではないと思う。だけど、何かを好きだと思う『感情』は人生の道標となる。こっちだよ、と進むべき道を教えてくれている。そこで出会う人は、こっちで合ってたんだ!と答えを教えてくれる存在だ。
もしも今『好き』が分からなくなっている人は大袈裟なものでなくてもいい。
行きたい店に行く、とか、会いたい人に会う、とか自分が出来る範囲の些細な事で良い。
観たい映画を観るとか、YouTubeを観るとか。
私が五常に出会えたのも、ひたらすら占い関係のYouTubeを観ていたからだ。
占い以外でも、私はミーハー的な気持ちから会いたい人で会える人には会いに行く。
でも、そのミーハー的な所にも、私はなんとなく、罪悪感を感じていた。
私なんかが会いに行ってもいいのだろうか?
身の程知らずだと思われないだろうか?
会って何になるんだろう?
もう少し自分が成長してからじゃないと会っても意味がないんじゃないか?などなど
だけど、そんな事思いつつも、
会ってみたい、会った後の自分が何を感じるのか知りたい、という衝動を抑える事ができなかった。だからミーハーとして開き直る事にした。
もしも私が占い好きや、ミーハーな自分を閉じ込めていたら、今この土地には住んで居ないだろうし、出会うべき人には出会っていなかったと思う。
そしてミーハー的に会った人とは、大概気が合って仲良くなる事が出来たし、やっぱりこっちで合ってるんだ!と思わせてくれる人達ばかりだった。
『好きが無い』という人は居ない。
好きな事が無い、という人は、
誰かの為や、何かの為に、生き過ぎてしまっている人だ。長い間自分の『好き』を我慢している人。だから今とても疲れている人。
好きを我慢すると、人は疲れる。
逆に言えば『疲れている』という事は、
そっちじゃないよ、というサインだ。
誰かの『好き』を応援したり、誰かの役に立つ事に人生を使っている人。
もちろん、それが本当の『好き』だと言う人も存在する。誰かの役に立つこと、助ける事が使命で生まれた人も居るのだ。
自分がそうなのかどうか?それは自分自身に問いかければすぐに分かる。
どうかな?自分の使命は人を助ける事なのかな?
そう考える時点で、おそらく違う。
好きな事なら考える前に、絶対好き!と分かるからだ。
好きな物を、食べたり飲んでいる幸せな気分の時。そんな想像してみてほしい。
その時に、それ本当に好きなの?
と聞かれて、迷いますか?
今食べていて、幸せを感じているんだから、
好きに決まってますよね。
好きな物、とはそんな感じ。
自分の『好き』を見つける事は今すぐに出来る。ワクワクする事。
忙しく仕事ばかりしている人は、部屋でゆっくりくだらないYouTubeを観る事を考えたらワクワクしませんか?
外に出掛けずに、いつもテレビばかり観ている人は、どこか遠い街で美味しい物を食べる事を考えたらワクワクしませんか?
美容院に行く事、ネイルに行く事、マッサージに行く事。節約の為に我慢していた事。
それを今週末にやってみる。
そこから始めてみる。
そこを通らなければ、
会いたい人にも会えないし、
辿り着きたい場所にも行けない。
地球はそうゆう仕組みになっている。