わたしのおにいちゃんのはなし 21
第二十一話
「木崎」
無音で泣いていたわたしの背後から、聞き慣れた声がした。あわてて涙を拭いて振り返ると、副担任の岡田《おかだ》先生が立っていた。
「どうしたんだ・・・こんな時間に」
まもなく下校の最終チャイムがなる。すみません、とわたしは鞄を持って立ち上がった。
「待て待て、ちょっと落ち着け。座って座って」
「か、帰ります」
「いいからちょっと待てって。な?」
岡田先生は、うちの先生の中でも若い方で、たぶん三十代半ばぐらいだ。女子に人気の高いさわやか系で、バレンタインデーにはチョコレートがデスクに堆く積まれるらしい。
わたしは仕方なく、すとんと椅子に腰を落とした。岡田先生は斜め向かいの席に、身体を横に向けて座った。近すぎず遠すぎず、絶妙な距離だった。
「どうした、何があったんだ?」
「・・・・・・」
わたしにあった出来事の中で先生に話せることなど、ほんのわずかだ。まさか兄の問題を話すわけにもいかず、だからと言って、宮ちゃんのことを話すのも気が引ける。わたしが黙っていると、岡田先生がはは、と笑った。
「ってな、そんな簡単に話せるようなことなら、こんなに泣かないよな」
ホームルームの時とは全然違った口調で岡田先生は言った。このラフさが女子に人気の理由なんだと思う。
「・・・そうですね」
「木崎はさ、普段おとなしいほうだけど、中ではいろいろ考えてるだろ」
「・・・・・・」
「ポリシーがあるというか、ここは曲げたくない、みたいな、いい意味の頑固さがあるよな」
「頑固・・・」
「あ、いい意味でだよ、いい意味!大事だぞぉ、自分の考えを持つっていうのは」
「はあ・・・」
「だけどさ、ポリシーを持つ反面、感情をうまく外に出せない、ため込みすぎるってところもあるよな」
岡田先生は椅子の背もたれに腕をさりげなくかけて、わたしの目をじっと見つめた。
「何があったかはまあ・・・無理には聞かないが、俺で力になれることがあったら聞くぞ?」
普段は自分のことを「俺」などと言わない先生のリラックスさせようとする優しさを感じて、わたしは何かひとつ話してみたいと思った。
宮ちゃんのことを話すのはやめた。先生に恋愛のことを相談するなんて恥ずかしすぎる。
わたしはちょっと間をおいて尋ねた。
「先生って、この学校に何年いるんですか」
「え?」
急な路線変更に岡田先生は小首を傾げた。でもすぐに笑顔で答えてくれた。
「うーんと、今年で六年目になるかな」
「じゃあ・・・兄を知ってますか」
岡田先生は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。いきなりすぎたかもしれない。
「もちろん知ってるよ。倫也だろ?」
倫也、と呼び捨てにした岡田先生の柔らかな表情から、もしかして兄も可愛がってもらったのかな、と思った。
「いくつ違いだ?」
「三つです」
「ああ、そうか、一緒に同じ学校に通うことは出来ないんだな」
「はい。・・・あの」
「ん?」
「兄は、どんな生徒だったんですか」
先生が相談に乗ってくれるというのに、話は全然違う方向に向かっていた。
先生はそれでもにこにこしながら、そうだなあ、と当時のことを思いだしてくれた。
「誰にでもわけ隔てなく接して、同級生にも先輩にも好かれてたイメージだな・・・あ、でも」
「でも?」
「つっかかられることも多かったぞ。ほら、あいつきれいな顔してるから、やっかまれるんだよ」
「ああ・・・」
そう。兄の顔は、とてもとても整っている。血の繋がりのないわたしとは似ても似つかない。
「なんかこう、ちょっかいかけたくなるんだな、きっと。可愛がってくれる先輩と、つっかかってくる先輩が半々くらいだったと思うぞ」
双羽さんはこの中学だったんだろうか?もし中学の時からふたりは知り合いだったなら・・・
わたしが考え込んでいると、先生が言った。
「似てるよな」
「・・・・・・え?」
聞き間違いかと思った。先生たちは何となくわたしたち兄妹の事情を知っているもんだと思いこんでいたから。
わたしは目を伏せた。
「似てないです」
「・・・喋りかたとか、俺たち教師に対する受け答えとか、日直のときの仕事ぶりとか、似てると思うぞ。頼まれたら断れない優しいところも」
それはお人好しというのではないのか。先生は続けた。
「木崎、一年の宿泊学習で佐倉と・・・ちょっと揉めただろ」
「・・・はい」
「教師がこんな話しちゃいかんのかもしれないけど・・・木崎は呼ばれて事情を聞かれたとき、佐倉を責めなかったろ?」
責めなかったのは、諦めていたから。どうせわたしのようなヒエラルキー最下層が吠えたところで
勝ち目はないと知っていたからだ。
「昔、倫也も似たようなことがあったんだよ。バスケ部の部室で、部員の財布が無くなったことがあってな。倫也がやったんじゃないかって、問題になって」
「えっ」
「倫也が一年でレギュラーに選ばれたから、二年のやつが嫌がらせをしたらしい。部長が呼んでるって嘘をつかれて、部室に行ったのに誰も居なくて、後になってひとりで部室に入って行った倫也のせいにされたんだ。要するにはめられたんだな。当時の三年の部長がその二年生が自分の財布を隠してたのを見てて、濡れ衣だってわかったそうだが」
「・・・・・・」
「でもその時、倫也は僕はやっていません、としか言わなかったらしいぞ。はめた二年生とはもともとソリが合わなかったらしいけど、濡れ衣だって解った後もそいつを責めることもなく、普通に接してたみたいだし」
ふと、その助けてくれた三年の部長が双羽さんだったらいいなと思った。
もちろん聞くわけにはいかなかったが。
「他人を責めることなんか簡単だ。そもそも倫也の場合も木崎の場合も否があるのは向こう側なわけだし。でも、そうしなかったのは、お前たちの器の大きさだろ?」
大きくなんかない。
わたしはただ面倒臭かっただけ。佐倉さんとやりあうパワーも材料も持っていなかった。そしてどこかで「周りは誰もわかってくれない」と思いこんでいたから。
兄のアイデンティティの教えの通り、わたしは嫌いな佐倉さんの存在を自分の中から消した。
わたしにとって大切なのは兄と、宮ちゃんだけだったから。
「俺さ、聞いたんだよ、倫也に」
「・・・何をですか」
「責めなかった理由」
「なんて・・・言ったんですか」
「喧嘩しようと思えば出来るけど、自分が黙っている方が、周りも相手も冷静になって本当のことに気づくと思ったから、って言ってたぞ」
兄は冷静だったのだと思う。
戦わずして、失礼なことを平気な顔でぶつけてくる奴を、自分の中からきれいさっぱり消したのだ。
「本当のことに気づくと思ったから」に続く言葉は、「僕は大丈夫です」ではなく、「彼はもう、僕には必要のない人間です」なのだ。
わたしからすれば、戦うよりそっちの方がずっと怖くて強いと思う。
「佐倉もあの後から問題を起こさなくなったしな・・・ずいぶんたくさんの生徒から私物を拝借してたようだから」
佐倉さんがその後素行がよくなったかどうかなんてどうでも良かった。彼女にはあの件の後、目が合う度に悪口を言われたり、わざと肩をぶつけられたりしたが、徹底的に存在を無視してやったので、二年に上がる頃には静かになった。
「佐倉とのことを聞いたとき、ああ、やっぱり兄妹だなあ、芯の強さがよく似てる、と感じたよ」
「似てる・・・・・・んでしょうか」
「そりゃあそうだろう。他の先生たちもそう言ってたぞ」
わたしの頬を、冷たい水がひとすじ伝わり落ちた。
泣いている感覚はなかった。無意識だった。
「あれ、おい、木崎、なんかまずいこと言ったかな」
岡田先生はあわあわして椅子から立ち上がった。
わたしは知らなかった。
血が繋がっていない真実だけを見て、本当の兄妹ではないから、と勝手に壁を作っていたのはわたしだけだった。
岡田先生はその真実を知ってなお、わたしたちが似ていると言ってくれる。外から見て、わたしたちは紛れもなく兄と妹だったのだ。
話を聞いてくれたお礼を言って、わたしはひとりで下校した。特別だぞ、と言って岡田先生は校門まで送ってくれた。
朝から降り続いていた雨は、あがっていた。