『7人の聖勇士の物語』第9章 アイルランドの騎士聖パトリックと従者のテレンスが美しい人魚たちと巨人によって命の危険に陥ったお話(1)
こんにちは。
いつもお読みくださりありがとうございます。
昨日の帰りのバスは久しぶりに女性の運転手さんでした。
女性の運転手さんはもう珍しくないという地域もあると思いますが、私が暮らしている地域ではめったにお目にかかることができません。この前女性の運転手さんだったのはもう何ヶ月も前だったと思います。
私はその運転手さんの少し低めの柔らかくて落着いたお声が大好きです。アナウンスの言葉は他の運転手さんもだいたい同じなので、多分マニュアル通りなのだと思いますが、お声がとても優しくて、なんと心地良く耳に届くことか。ずっと聞いていたい、と思うお声なのです。
降りるとき、運転手さんが「ありがとうございました。」と言って下さいました。もちろん、マスク越しなのですが、その目は少し細められて、マスクの下には本物の笑顔があることがよくわかりました。
写真は、Evelyn de Morgan作 "The Sea Maidens" (1885)、パブリック・ドメインよりお借りしました。優美な人魚たちの蠱惑的な眼差しに引き込まれてしまいそうですね。
『7人の聖勇士の物語』の続きです。
『7人の聖勇士の物語』
第9章 アイルランドの聖パトリックの冒険(1)
これからお話ししますのは、海の宝石アイルランドの名声あまねき聖パトリックによる高貴にして輝かしく驚くべき偉業です。もちろん彼に忠実に付き従う従者テレンス・オグレーディの話も忘れずに語りましょう。もっとも、どういうわけか歴史書は、従者については沈黙して何も語ってはおりません。
あの真鍮の柱を離れた後、聖パトリックと従者テレンス・オグレーディも古の物語にかくも名高いあの海(地中海)を越えました。しかし、陸地に近づいたとき、船が難破して足の下まで水に浸かりました。
丁度近くを泳いでいた2頭の大きないるかを聖パトリックが精巧な鉤針でつかまえました。その背に二人はまたがり、馬を手綱で引きながら、無事アフリカの砂浜にたどりつきました。砂浜に上陸し、塩気を含んだ空気のためにかすかに錆びた武具を磨いておりますと、いとも甘美な音楽が耳に入ってきました。従者はそれを聴くと腰掛けていた岩から立ち上がり、どこから聞こえてくるのかを知ろうと歩き回りました。
従者が驚いたことに、半ば水に満たされたとある洞窟を覗いてみますと、そこには12人の美しい海の精が、水晶のような海の水にほぼ全身を浸して黄金の髪を櫛けずっておりましたが、そうしながら彼女たちは、喉を震わせてあの美しいしらべを奏でていたのです。
従者はうっとりしてじっと眺めました。「ああ、それにしても美しい者たちだ!」彼は声が彼女たちに聞こえるかもしれないことを忘れて叫びました。その声に乙女たちは驚いた鹿のようにびっくりし、忠実なテレンスが岩越しに見ているのに気付くと、彼のほうに泳いできて腕を差し伸べ、彼の手をつかもうとしました。もっと慎重な人物でしたら後ろに引き下がり、なにかの策略ではないかと疑ったことでしょう。しかし、この心の温かいアイルランド人の胸にはそのような考えは全く浮かびませんでした。
「気持ちの良い朝ですね、可愛いお嬢さんたち!」と、彼は最初にやってきた乙女に手を差し伸べながら言いました。彼女を地面へ助け下ろそうと思ったのです。といいますのも、彼女たちは海のような緑色の衣装に身を包み、頭には赤と白の珊瑚でできた環飾りをつけておりましたため、水から上がることに何の異存もないだろうと彼は考えたからです。しかし、水から出てくるどころか、その最初の乙女は彼をぎゅっとつかまえました。他の乙女たちもやってきて、同じく彼をつかまえて引っ張りました。彼女たちの目的は彼を引きずり込むことに違いないと、忠実なテレンスにもようやくわかりました。
「でも、お嬢さん方、私は泳げないんですよ。」と彼は叫びました。「武具をだめにしてしまうし、服も濡れてしまいます。さあ、どうぞ、離してください。」
彼は彼女たちに丁寧に話したいと思ったのです。
しかし、乙女たちは何者なのか、彼の心の中に疑惑がわきあがってきました。「ねえ、さあ、離せと言っているでしょう!冗談もほどほどにしてくださいよ。その水たまりで私を耳から上までずぶ濡れにして溺れさせるつもりなら、お断りですよ!」
しかし、彼が叫んだりもがいたりすればするほど、一層強く乙女たちは引っ張るのでした。
テレンスは屈強な男で、異国では多くの激しい闘いに臨み、アイルランドでも何度も組み討ちで闘ったことがありましたが、これまでにこんなに激しくもがいたことはありませんでした。とうとう彼の叫び声を聞きつけて、聖パトリックが助けにやってきました。テレンス・オグレーディを助けるのにアイルランドの戦士がためらう筈がありません。そして、テレンスのつかまれていないほうの腕を握ると、聖パトリックは12人の海の精からテレンスを力強く引っ張り返しました。彼は乙女たちが人魚であるとすぐにわかりました。人魚たちは彼の忠実な従者を波の下の珊瑚でできた館へとさらっていこうと心に決めていたのでした。
一方からは人魚たち、もう一方からは主人が思いっきり引っ張りますので、哀れなテレンスはもう少しで引き裂かれるところでした。主人に離さないで下さいと懇願しながら、彼はもがき、あらがい続けました。
楽しい笑い声が人魚たちの喉から発せられました。彼女たちは忠実なテレンスが怖がるのを楽しんでいましたが、彼を引っ張る力を少しも緩めませんでした。そのため、テレンスは、全身でないにしても体の一部分は確実に持っていかれるのではないかと恐れ始めました。
聖パトリックもこれはたいへんな事態だと十分わかっておりましたが、剣を使わずに従者を救い出す方法を見つけられず、ひどく悩んでいました。剣を使うことは彼の騎士としての心情がどうにも許さないのでした。
(※騎士たる者、弱い者や武装していない者を相手に剣を振るうことは恥ずべきことと考えたので、聖パトリックも人魚とはいえ乙女たちを剣で追い払うことは心情的にできなかったのでしょう。)
たまたま、さほど遠くないところに、鉄の城壁と黄金の胸壁のある城がそびえておりましたが、そこには怪物のような巨人が住んでいました。巨人は人魚たちのうちの一人に長い間求婚し続けているのですが、彼女のほうでは巨人が短気であるのを恐れ、また、水の中の家を離れたくなかったので、彼の求婚をずっと軽蔑し、耳を傾けることさえ拒絶してきたのでした。今日も巨人は求愛を果たそうと、彼女を探して浜辺を歩き回っておりました。
あの洞窟を見下ろし、忠実なテレンスを人魚たちが片側から引っ張り、もう片側から聖パトリックが引っ張っているのを見ると、巨人は激しく怒り狂い、大声で吼え猛りました。テレンスを引っ張っている人魚の一人を巨人は愛しているのでした。その声に驚いた人魚たちはテレンスを離し、恐れおののいて逃げ、珊瑚でできた館に身を隠しました。一方、聖パトリックが見上げますと、巨人が顔をしかめて彼に挑みかかってくるのが見えました。
アイルランドの戦士は、何ら恐れず、剣を抜きました。「さあ、我が愛剣よ、お前が戦うに足る敵がついに見つかったな!」そう叫んで彼は巨人に向かって崖を登っていき、忠実なテレンスがすぐ後に続きました。巨人は黒玉のように黒かったのですが、その表情はもっと暗黒で、そして、何よりもどす黒かったのはその心中の思いでした。巨人の後ろでは大きな口をくわっとあけた巨大な鰐が、届く範囲に来た者は皆貪り食ってやる、と威嚇しておりました。多くの屈強な戦士たちは対戦を避けたことでしょうが、聖パトリックは、自分の信念の正しさと自らの腕とよく鍛えられた剣を信じ、また、鰐はテレンスが倒すだろうと確信していましたので、大胆に前進しました。
すぐに、勇士の頼もしい剣が巨人の漆黒の盾を打つ音が聞こえました。お返しに巨人の巨大な戦斧が何度も激しく打ちかかってきました。激烈な闘いが繰り広げられました。打ち合いが続きました。騎士は正しく善い意志をもって打ちかかり、巨人は復讐を声高く叫び、勇敢な騎士を威嚇しました。巨人の叫び声は必死の闘いのなかで武具が交わる鋭い物音と混ざり合い、あたりの岩や遠くの山々に響き渡りました。
テレンスは、敬愛する主人からわずかでも栄光を奪わないよう、傍らに立って闘いを見守っておりました。すると、鰐が巨大な口を開いて彼の脚に食いつこうとするのが見えましたので、今こそ行動を起こす時とばかりに突進し、正しく善い意志をもって鰐を攻撃し始めました。
(※従者の加勢を得ることなく、独力で強大な敵を倒すことが騎士にとって大きな名誉と考えられていましたから、テレンスは主人の戦いに手出しせず、見守っていたのですね。)
鰐は丘を鳴り響かせるような音を何度もたてながら巨大な口をパクパクさせましたが、忠実なテレンスをその歯でとらえることができませんでした。一方、従者のほうでも彼の頼もしい剣を鰐に突き差そうと、弱い場所を探したのですが、見つかりませんでした。怪物の鼻の長さが邪魔になって剣が目に届かず、怪物の肩に一撃を食らわそうにも全くできそうもないのでした。
忘れてはなりませんが、この間ずっと聖パトリックは巨人と激しく闘っておりました。
「俺のかわいい鰐に手を出すな、さもないと、お前の主人を殺した後でお前を挽肉にしてやるぞ!」と巨人は、歯を食いしばりながらしわがれ声で叫びました。
「そうか、それなら、そんな時が来ないことを望むよ、なあ。」と答えながら、忠実なテレンスは跳び上がり、鰐の背中にひらりと跳び乗りました。「乗りこなせば名誉だろうが、乗りたい馬というわけじゃないね。ともかく、つけを払ってもらうよ。」そう言うと、テレンスは鰐の首と肩を愛剣で激しく切りつけ始めました。
ついに、我慢もここまでとばかりに、彼は怪物の背の上に立ち上がり、怪物の一方の目に剣をずぶりと突き刺しました。怪物は今まさに聖パトリックの太ももに食いつこうとしていたところでした。傷を負ったと感じて鰐が身をかわしたところを、従者はもう片方の目に剣を突き刺しました。
目が見えなくなり、痛みのために狂乱した獣は、前へと突進し、あちこちに向かって口をパクパクさせて食いつこうとしました。そして、主人である巨人に向かって走っていくと、巨人の脚のふくらはぎに力一杯噛みつきましたので、巨人は痛みに唸り声をあげ、何事かと傲慢な目を脇に向けました。
聖パトリックはこの機を逃さず、巨人に急迫すると、剣を敵の首に突き刺しました。巨人は一万頭の雄牛よりも声高に吼え猛りながら、騎士の兜に戦斧で思いっきり打ちかかりました。戦士は脇へとびのきましたので、巨人の一撃は彼の鰐の首の上に落ち、その一撃で鰐の首は胴体から切り離されました。テレンスはその一撃の余波をからくも逃れました。
かわいがっていた鰐が死んだことで巨人は一層猛り狂いました。しかし、怒りは判断を失わせるものです。しっかりした防護を怠ったので、巨人は自分が鰐にしてしまったような羽目に自分も陥っているのに気付きました。騎士の戦斧の一撃によって巨人の頭は砂の上に落ちました。恐ろしい両の目玉はぐるりと上向き続け、まるで怒りと悪意と憎しみによってまだ命を与えられているかのようでした。
今日はここまでです。
テレンスは、姿や声が美しいので油断したのか、うっかり人魚たちに水中に引き込まれるところでしたね。聖パトリックがいなかったら危ないところでした。
次回も二人の冒険は続きます。
次回をどうぞお楽しみに!