Pierrot
自分がどんなに相手の事を想っていても、
相手がその気持ちに応えてくれるかどうかは別問題だ。
だから人は、愛する人が同じように自分のことを想ってくれていると、この上ない幸福感に包まれ、それだけで生を実感できるのだろう。
逆に言えば、意中の人から想われなければ、返って自分の自己肯定感を傷めることになる。
人が1番、醜く、愚かで、そしてどうしようもなく足掻くのは、愛する人に愛してもらう為の努力の瞬間だ。
もし相手の気持ちさえ簡単に掌握できるのならば、皆、こんなに苦しまずに済むだろうに。
『…ごめんね。遅い時間に。』
カウンターで横に並ぶと、伏し目がちに俺を視界に捉えた彼女は弱々しく呟く。
「…いいよ。もう結構飲んだ?」
『分かんない。何杯目かも』
カクテルグラスの縁に残る口紅を指先で拭いながら、白石麻衣は笑った。火照った彼女の頬には、薄らと筋ができている。
「…じゃあ結構飲んでるね。」
『うん…もう、終電もない。』
「分かってる、掃除して出てきたよ。」
『話が早くて、助かります。』
俺は財布からカードを出し、マスターにて渡す。
『奢ってくれるの。』
「慰めてあげるの。」
『…まだ、何も言ってない。』
そう言って笑う彼女が、俺を呼んだ理由なんて、1つしか無かった。
『…私って……今、憐れな女かな。』
カーテンの裾野から差し込む朝日に、一糸纏わぬ姿を照らされながら彼女は問いかける。
夜の間は全てから目を背けるように、暗闇に、愚かな感情や、ふしだらな欲望を押し付けることは出来た。
それでも朝日が差し込めば、次第に隠していたものが顕になる。
俺は言葉で答えることはせず、そっと背中や首筋、胸元にまで点在した殴打の跡を、
青白い痣を
1つ1つ溶かすように唇を重ねていった。
全ての痣を撫で終えた後に、彼女を腕の中に覆い隠す。朝日が差し込んでも、俺が影を作ってあげるから、と。
彼女は、合コン知り合った、今の彼氏からDVを受けている。
痣は、毎週増えていく。
それでも彼女は、決して俺にはその事について何も言わなかった。
『…ありがとう。』
俺の家に置いて行かれていた、彼女の歯磨き粉が、半分を切るようになっても
俺が送る愛情に対しての、彼女の言葉が『好きだよ。』に変わることは無かった。
───────
『…ピエロ。』
「…え?」
『…ピエロ。…アンタのこと。…そうやっていつもいつも、四六時中携帯を気にして、仕事中だろうとここに居ない人からの連絡をずっと待ってる。』
会議室のプロジェクターを片付けながら、同期の生田絵梨花は俺を憐れむように嘆いた。
「…ごめん、気が利かなかった、手伝うよ。」
スマホを起き、立ち上がると生田からプロジェクターを預かろうとするが、それは身を捩った彼女に阻まれる。
『…違うよ。』
「…怒んなよ。」
『…手伝わないから、怒ってるんじゃない。』
「…だったら何。」
『…いい加減、みっともない真似やめなよ。…白石って子に会ってから、おかしいよ。…遅刻はするし、早退はする。…飲み会だろうと、休日だろうと、連絡があればすっ飛んでいく。』
「…仕方ないだろ。…だって、彼女は俺が必要なんだから。」
『…本当にそうなの。』
プロジェクターを机に起き直し、生田は訝しげな眼差しを俺に向けた。
恐らく、話が長引くから一旦置いたのだろう。
「…彼女にとって、俺が必要ないってこと。」
『そう。』
「…絶対にない。彼女には、絶対に俺が必要なんだから。」
『でも都合よく、寂しさの穴埋めに使われて。…彼氏と上手くいったらさよなら、って可能性だってあるでしょ。』
「…そうなったら仕方ない。…だって、俺が"ソレ"を選んだんだから。」
『捨てられても自己責任って訳。…この期に及んでも、彼女がヤバい女だって思考回路に至らないのは、終わってるね。』
「やばくないさ。…あの状況なら、誰でもああなっちゃうよ。」
『…まともじゃなくなってるよ。…今のアンタは。…彼女と会う前までのアンタは…少なくとも私にとって…』
瞬間、デスクの上に置いたスマートフォンが鳴り、反射的に手に取っていた。
耳には、もしもし、と心地よい彼女の声が溶け込む。
「…どうした?」
"今ね、横浜の夜景見てる。綺麗だよ。"
「すぐに行くよ。」
そう返事した時には、既に生田の姿は会議室から消えていた。
『やっぱり、夜景は暖かい車の助手席から見るに限るよね。』
手渡した缶コーヒーを、両手で大切そうに包み込みながら、俺には聞こえないように小さく鼻をすする。
きっと、腫れた目鼻は寒さでは無い。
「…現地解散なんて、不思議なカップルだね。」
『私は一緒に帰る予定だったんだけどね。喧嘩しちゃった。』
「…痴話喧嘩。」
『本人たちからしたら、大喧嘩。』
「…そ。」
一旦は短く息を吐いて会話を終わらせたが、それでもどうしても気になってしまう。
赤信号が、青に変わり、踏み込んだアクセルの音に紛れ込ませるように、俺は言葉を投げかけた。
「…何で喧嘩したの。」
『…んー。…珍しいね、聞くなんて。』
「ここまでの、ハイヤー代ってことでね。」
『…LINE、見られちゃって。……浮気だろーって…ね。…私は、嫌なら異性は全部消すよって、言ったんだけど。』
「…今ここに俺が呼び出されたってことは、ダメだったんだね。」
『…』
俺は右手でハンドルを握ると、空いた左手を彼女に向けて差出す。
すると彼女は缶コーヒーを置き、両手で強く俺の左手を握りしめた。
車内には、比較的に静かなエンジン音と、小さなすすり泣きの声が歪な音色を奏でているだけだった。
──────────
あの夜から2週間
珍しく彼女からの泣き言や、SOSが無くなって、もしかしたら彼女はもう無理かもしれない、と諦めかけていた土曜日の夜だった。
やることも無く、ぼーっとTVを垂れ流しにしたままうつらうつらとしていた時
"…もう限界かも"
そんなLINEが液晶に点灯し、文字を認識するや否や、俺は家を飛び出した。
何度も、何度も通話をかけてみるが繋がらない。
嫌な予感が、最悪のイメージが胸を脅かす。
どうしてあの夜、俺の手を握った彼女の手首に刻まれていた傷が増えていたのに、それを辞めるよう言ってあげられなかったのか。
もしかしたら、彼女は何も俺に言わない分、想像をしていたよりもずっと、脆い子だったのかもしれない。
もしこれで、彼女が自ら道を閉ざしてしまったとしたら、完全に俺の責任だ。ミスだ。
俺は、何のために今まで彼女を気にかけ、四六時中そばにいたのか。
生田が言う通り、このままじゃ俺が、彼女を救えなかったただのピエロになって終わりだ。
焦る気持ちも隠すことなく、彼女の部屋のドアを叩き続ける。彼女が、まだ出てきてくれることを信じて。
「俺だよ…!!俺。いるなら、開けてくれ…!!もう大丈夫だから…!!」
30秒程した後、
ゆっくりとドアが開くと、何からは生気を失った彼女が現れた。
その左手は、何重にも巻き付けられた包帯に、まだ鉄の香りがしそうな赤い鮮血が滲む。
「…大丈夫?…よかった…よかった。」
安堵感から、強く彼女を抱きしめると、次第に涙を流し始めた。
『…私、死ぬことも出来ない。…彼に嫌われたから…もう生きる意味もないって、そう思っても、自分で自分を消すことも出来なくて。』
カラン…と、右手に持っていたであろうカッターナイフは玄関の床に放り捨てられ、空になった彼女の両手が、俺の胴体に絡みつく。
「麻衣が、必要だから。…俺にとって必要だから…だから、もうアイツとは…別れてよ。」
『…私…もう、こんなに…』
縋るように、俺を見つめる麻衣は額と頬に、痛々しい程の痣が作られていて
元の美しく、凛とした、薔薇のような彼女の輝きはすっかりと消え失せていた。
それでも、俺にとっては、なんの問題もない。
自分が愛する人が、自分を必要としてくれるのなら。
「…大丈夫だよ。…綺麗だから。」
『…また、いつか彼が来ちゃうかも。…あなたにも、手を出したり、迷惑をかけられちゃうかも。』
「…安心して、もう絶対にそんなことは起きない。俺がいれば、大丈夫。…だから、俺のところにおいで。」
潰れてしまわないように、彼女の儚い、ガラスのココロとカラダが、決壊しないように
俺は彼女を照らそうとする全ての光から守るように、腕の中に麻衣を包み込んだ。
『…信じて、…頼っても…いい……?』
「…大丈夫。…そのために、俺がそばにいるんだから。」
彼女の手首の包帯を解くと、その血が止まるまで、俺は彼女の手首に唇をあてがい続けた。
そして、その姿に涙を流してくれる麻衣の顔が視界に写り、"…愛してる"と、聞こえた時、俺はようやく生を実感することが出来た。
─────────────────
「きっと、一途なタイプだと思う。」
「…だとしたら、どう致しますか。」
「振り回して、傷つけて欲しい。」
「…傷つける、ですか。…リスクは高そうですが。」
「…その分、きっとハマれば。」
「……意中の方なのに、傷ついてもよろしいのですが。」
「…いいさ。…どうしても、俺は彼女が欲しいんだ。…手伝ってくれる約束だろ。」
「…えぇ。」
「死なない程度で、彼女が1番死にたくなる想いをさせてくれ。」
これが俺の、一番、醜く、愚かで、そしてどうしようもなく足掻いた、努力の瞬間だ。
「Pierrot」 fin.
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