問われるメディアと受け取り手の姿勢 桶川ストーカー殺人事件についての本を読みました。

桶川ストーカー殺人事件 ー 遺言
新潮新書
清水潔著

ストーカー、つきまとい行為が犯罪であることはわたしたちにとっては当たり前のことだ。
それが当たり前になるきっかけになる事件があったことを、わたしは知らなかった。

ひとりの週刊誌記者が、殺人犯を捜し当て、警察の腐敗を暴いた・・・・・・。
埼玉県の桶川駅前で白昼怒った女子大生猪野詩織さん殺害事件。彼女の悲痛な「遺言」は、迷宮入りが囁かれる中、警察とマスコミにより歪められるかに見えた。だがその遺言を信じ、執念の取材を続けた記者が辿り着いた意外な事件の深層、警察の闇とは。「記者の教科書」と絶賛された、事件ノンフィクションの金字塔!

裏表紙の内容紹介

週刊誌の記者にわたしが抱いてきたイメージなんてものは、下世話でろくでもない文屋というぐらいのものだった。正義感でもあればマシなのだろうが、とにかく彼らの仕事は人間の下世話な欲求に従うものだ。読み物に値しない記事。これは偏見だろうか。抱いていたのはとにかくそんなものだった。
しかし警察の捜査状況も飛び越し、次々に犯人たちの所在に迫っていく本書の清水記者の姿勢を前にしては先ほどのイメージも改めざるをえなかった。本件において清水記者は、最初からそれだけの正義感や情熱を持っていたわけじゃない。詩織さんの友人たちに取材する時間を持ったことから清水記者は「何かに突き動かされる」という書き方をするようになる。正義感とだけ書き表すことのできないような強い何かがあったのだろうことは窺い知れる。

事件について、清水記者によって著されたこの本を今になって読むことができたのはとてもよかった。清水記者は事件においてほとんど最前線にいながらも、記者としての立場から事件捜査への直接的な介入をしない。だからこそ警察側が勝手に描いた事件の構図にも気が付くことができた。
ここにはメディアに対する姿勢への強烈な教訓が残されているのだ。
最近の世の中を見ていると、なにか事件があれば大手報道機関の発表を信じるか、それとも斬新な陰謀論めいたものに乗っかるか。そういうようにして受け取り手が自分の信じる先を依存しているように思われる。
世の中の全ての事において一次情報にあたることはできないわけだから、情報を発信するメディアを頼らざるをえない。だが、そのメディアの煽情的な報道にいいように流されてしまうこともある。この桶川ストーカー殺人事件では、警察発表による情報をメディアが疑いなく流すことで世論は不確かで偏向的な報道に傾いてしまう。被害者が風俗店に勤務していたとか、ブランドものばかり持っていたとか、そんな情報ばかりで世論は不正確に誘導されてしまう。

メディアへの不信感。この言葉はメディアの情報不備を指摘するためにも使われるし、メディアの体制自体を批判するためにも使われる。この事件の場合にはそのどちらの点においてもメディアへの不信感は生まれる。記者クラブという制度自体も問題を抱えているし、警察からの発表を真に受けるばかりの報道は三流週刊誌にスクープを許すという事態になったわけだ。
だけれども、メディアへの不信感という言葉は自戒としても使われるべきではないだろうか。メディアの情報をうのみにして、その情報の正誤の判定をすることもなく、うのみにした情報をもとに自らも喧伝して回るという受け手の存在。
常識的に考えれば殺人事件の被害者がどのような女性であったとしても、殺されるに足る理由などないはずなのだ。それであるのに、女性の属性を絡めた報道にまんまとのせられる。それは受け取り手である一般市民の自覚の無さではないだろうか。
だらしないメディアの現状を招いているのは一般の市民の、あまりにも受動的な姿に一因を感じざるをえない。

また、その反動としてだろうか、近年はインフルエンサーなどによる過激な私刑的発信も見られるようになった。大手メディアや週刊誌も取り上げない個人的な紛争を、ある意味スクープ的に取り上げるものだ。こうしたインフルエンサーは人気を誇り、発信をチェックする人も多い。
彼らの情報がある意味で先駆けていることを引き合いに出して既存メディアを批判をする人も多い。
しかし、これなどは最も危険な報道姿勢にも思われる。彼らのほとんどはそもそもが持ち込まれるネタをもとにした情報発信で、明らかに裏取りの不足しているものも多い。証言ベースのものが多く、証拠もよくて携帯画面のスクショなどの現在の環境では証拠能力として危うい物も多い。
そもそもが彼らの多くは私的制裁を望む一部のネットユーザーの鉾先を誘導しているばかりであるので、正しいメディアの姿からはかけ離れているものだ。それであるのに、時に彼らが正しいのではないかと思わせられるほどに、スポンサーとの利益関係に基づく既存のメディアの姿勢に疑問を抱かざるをえないのもまた事実だろう。

当時の清水記者の所属していたFOCUSは、清水記者自身の記すところで書くと三流週刊誌である。三流週刊誌が事件の真相に肉薄するという事態がないような報道環境が本当に望ましい姿じゃないだろうか。
嫌な言い方だが、三流週刊誌の紙面は三流ゴシップで埋まっていて、そんな雑誌を誰も買いもしない世の中こそ、いちばん平和的なんじゃないだろうか。

なお、詩織さんの遺族が起こした埼玉県警に対しての国家賠償請求は、警察の捜査に関して怠慢があったとする内容は認めているが、捜査の怠慢と殺害事件の発生の関連については否定され、遺族側と警察側の上告が棄却される形で内容は確定している。
捜査が怠慢であったのに、殺人事件の発生を防ぐことはできなかったどうかには関係ないです、とのことだ。

ストーカーの存在を知っていた警察が事件を防ぐことができなかった、と裁判所が判断するのであれば、警察の捜査能力というのはずいぶんとなめられたものである。


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