分裂社会の末のハラスメント十戒
ダイハラなるものがあるらしい。
要は方言を無闇に使ったり、方言を揶揄したりすることをまとめてダイアレクトハラスメント(ダイハラ)とするもののようだ。
ダイハラやらパワハラに限らず、わたしはハラスメントとは
現代における十戒なのではないか、と思っている。
同時にハラスメントという概念はとても危うい状態にあるとも思っている。
この思い付きに至るまでにあったのは違和感の積み重なりだ。
まず最初は、多様性というものに違和感を覚えるところから始まる。
多様性による集団の亀裂
この数年は特に、人の多様性に寛容な多様性社会が目指された。
世界的にである。
性的マイノリティや社会的マイノリティ、宗教、身体、とにかく彼らを認知し、そして地位を向上させること。
多様性社会における理想とは、少数多数という概念の不在であろう。
とにかく不均衡を失くすための手立てが取られ続けてきた。
ところが、あまり多様性社会というのは実現できていないように思う。
これは多様性社会への順応を試みた結果、社会がひび割れてしまったことが原因となっている、と思っている。
多様性に関して政治の舞台でどれほど理想的な議論が交わされても、実際に取り組むのは小さな集団であり、動くのは実務者としての個人である。
各自治体、各企業、各担当者。新しい時代の多様性に基づいて、ルールを変更していく膨大な手続きと事務作業。それらも反発なく受け入れられることはなく、あちらを立てればこちらが立たないということで、調整を強いられることもあるだろう。
そうして書類のフォーマットは変わり、更衣室のレイアウトは作り直され、職業の呼称も改められることとなった。
多様性社会への反発は、最初小さなものだった。人々の多様性を認めることは、なにより道徳的だし、みんな人には優しくしたいものだから。
反発が少なかったことに関して、特に日本においては、絶対的な宗教がなかったことが大きいと思う。
宗教によっては許されない価値観が聖典に明記されていることもあるが、日本ではそういった明文化されたNGが共有されていることはない。いわゆるオカマという呼称があった時代でさえ、テレビにはそういった属性のタレントが出演していて、その容姿や言動が受け入れられていたのだ。アメリカで議論されている中絶にしても、日本では禁じられているというわけではなかった。その根拠となる宗教観が薄かったからだ。
雰囲気で作られた価値観はあっても、それを裏付ける絶対的な資料は無い。日本の環境はそもそも多様性社会には向いているはずだった。
しかし、次第に多様性社会に対する反発は大きくなっていった。
取り組みは着実に進んでいるはずだ。具体的な事例を挙げることはしないが、古臭い慣習は変わっているし、細かな配慮も行き届くようになった。
ところが、インターネットの中を見ていれば、人々は本音の部分では多様性社会を快く思っていない。取り組みに対しても不満を抱き、その不満の矛先をマイノリティに向けてしまっている例まである。
その原因として、マイノリティの種類が日々増え続け、私たちの認知を遥かに超えてきたことが挙げられると私は思う。
多様化が広がる社会の中で、そもそも自分がマイノリティであることを知らなかった個人も自らをマイノリティとして自認することができるようになった。多様性への認知が進むうちに、自らをマイノリティと自認する自認の認知も増えていったのだ。
そうして、次第に様相は多数が少数を認知し受け入れるといったものから変容していく。徐々にマイノリティの認知が広がるなかで、根源的な問いが再度発生した。
多数派の「普通な人」という概念はなく、社会は数え切れぬ少数の集合体なのではないか。
当たり前のことなのだ。なにを今さら。
多様性社会とはまさしく個人それぞれが多様なことを認識することだ。
だったら、普通なんてものはないなんて大前提のことだった。
これこそまさに道徳の授業ではないか。
しかし、世間は勘違いしていた。
世間が勝手にイメージしていた多様性とは
「多数が少数を受け入れる」
といった構図の多様性社会であった。
実際もまさしくそのように多様性は運用された。
多様化のためにあらゆる手続きをする人もいるし、その変更に合わせる人たちもいた。
多数が少数を受け入れるために仕組みは変更されていった。
これは大きな誤解であるはずなのに、人は受け入れられない。そもそも多数少数の概念自体が間違っているとは、なかなか受け入れられない。
マイノリティを認識するための手段として「名付け」がとられたのも人々の認識を歪めた部分がある。LGBTQやギフテッドといった呼称が用いられることで、名無しの者は自分がマイノリティではなくマジョリティ、すなわち多数派の「普通な」人だと自覚してしまうことになった。
結果として、多様性は膨れ上がるうちに、その表面に亀裂が走った。
多数派はその内部に膨大なマイノリティを抱え込んでいたのだ。マイノリティを受け入れる側であったはずの自分たちが、すでにマイノリティの集合体であることに気付いた時にはひび割れた集団とならざるをえなかった。
しかしそれでも、社会は未だ認識を改めない。社会集団は少数のマイノリティをあくまで「マイノリティ」としてのみ受け入れ、集団の多数派との実質的な切り離しを図っている。
仕組みばかりが先行し、実態の伴わない改革の連続。
当事者がいることを例を挙げたくはないが、例を挙げだせばキリがないことも事実だ。はたして、在日外国人の受け入れに関して負の側面ばかり取り上げられるのは何故か、性的少数者を揶揄する風潮が止まないのは何故か。
体裁は誰でも受け入れるウェルカムの姿勢をとりながら、決してマイノリティを積極的に受け入れることはない。
人々はそのようにして多様性社会への順応を試みてしまった。
人はいつ、自分が少数側にならないものだと勘違いしてしまうのだろう。
ハラスメントは多様性から生まれ、そして否定される
さきほど書いたように、集団としては集団に合わない個人を排除するほうが便利で効率がいい。少数に対処する労が無いにこしたことはない。明確な多数派が存在しないなかで、特定のマイノリティに配慮するコストを誰も負いたがらない。
そういった小集団の内部では、全員がお互いを理解できていると思い込む傾向がある。わからない人間は弾いているわけだから、中の人間の考えることは当然全てわかるはずだ。
ハラスメントは、その思い込みに待ったをかける。
ハラスメントという言葉は基本的に多様な人々の属性を保護する目的がある。
性別や外見などで、個人が不当な扱いを受けるのを防ぐ。
NG行動集のガイドラインというものがハラスメントという言葉の意味合いだろう。
どれだけ近しい個人であっても、嫌に思うかもしれない行動をしないためには共通のNGガイドが手元には必要なのだ。
そう、ハラスメントは日本人に欠けていたものを与えてくれている。
つまり、聖典だ。聖典における記載のなかでも、十戒のような警句の連なりだ。ハラスメントとは日本人がようやく手に入れた共通のNGというわけだ。
日本人は多様性社会の中で、まず理解し合える小集団を求めた。文化や環境に配慮する必要のない小集団を求めたわけだ。当然仕事の場もそうであるべきだ。
次に、理解し合えるはずの小集団の中も変わらず多様であることに気が付いた。初めからその場も多様な社会の縮小版に過ぎなかったのだ。
そして、立場の弱い者、すなわちマイノリティを守るための決まりごとが作られる。これこそがハラスメントなる言葉だったというわけだ。
ここでこういう反論もあるかと思う。
弱者救済のために具体的な行動を示すハラスメントと、人の特性に焦点を当てた多様性は性質がまったく異なるものだ。それを多様性が故にハラスメントが生まれたとするのは笑止千万焼肉定食だ、と。
しかし、それにまたこう反論したい。
セクハラにしてもパワハラにしても、どれも元々は受ける側が苦渋の沈黙、苦渋の寛容によって耐えてきたものが、声を上げる契機を得たがために名前が付いたものだ。
無自覚な忍耐に名前が付けられ、自らが弱者であることを認識できるようになったことでハラスメントという言葉は用いられるようになった。ハラスメントの表明は弱者自認の表明の一つでもある。それは自らをマイノリティと自認する多様性社会の充実と構造は何も変わらない。
つまり、ハラスメント被害の表明もまた多様性の広がりの一つなのだ。
そしてまた、自分を多数派だと思い込んだ集団は同じルールでマイノリティを切り離しにかかっている。多様性に満ちた集団を諦める時と同じルールで、少数を切り離した時と同じルールで、ハラスメントとうるさそうな人間を弾けばいい。それだけのことなのだ。
ハラスメントが本当に弱者を救済していくために
ハラスメントと付く言葉は数えだすとキリがないほどに増え続け、巨大なものとなっている。森羅万象あらゆる物事に引っかけてハラスメントを作ることもできてしまうだろう。森羅ハラスメント。
そうして増え続けたハラスメントが、逆にハラスメントの認知を歪ませているとわたしは思う。
まず、ハラスメントはわかりづらい被害を見える化するためのものであり、誰かを過度に保護するためのものではない。そして、被害を認定する以上は誰かの加害をも認定するわけなので、ハラスメント認定は慎重に行われるべきだ。
一方で、ハラスメントの数は日々増え続ける。ということは、これは罪の数が増え続けるのと同じことでもある。
でたらめに数を増やすハラスメントに対して、ハラスメントを配慮しなければならない立場の人間は気苦労が増すばかりだ。ハラスメント認定は被害者と加害者の双方を生み出すわけだから。
そこで、ハラスメントを冷笑、揶揄する雰囲気が生まれ始めた。
理解できないハラスメントの内容に、取り合わないとする風潮が出来てしまったのだ。
多様なハラスメントが生まれるのは当然で、内容に理解が難しいものがあるのは当然のことなのだ。理解できない個人を傷つけないためのガイドラインなのだから、その詳細に納得がいかないのも当然だ。
しかし、だからといって無暗に従えというのもまた酷なのだ。増え続けるリテラシーにがんじがらめにされる中間管理職の姿は悲哀だ。
そこで、わたしはハラスメントに求めたいものがある。
(ハラスメントに求めるとは、おかしな書き方だ。ハラスメントが人格を持っているようになってしまう)
ハラスメント行為の詳細は、まず論理性を伴っていてほしい。
ハラスメント認定には加害者と被害者が必ず生まれる。つまり、双方をなんらかの形で傷つける措置なわけだ。
だからハラスメントの内容は論理的で、冷静で、具体性に富んだものでなければならない。
次に、ハラスメント自体を絶対の価値観としないことだ。
これはむしろ、取り扱う人間側の話だろう。
ハラスメントだからダメ、ハラスメントじゃないから良い。
そんなことで個人間のやりとりを収束させていていいのだろうか。
わたしは個人間に起きたトラブルは、やはりまず個人間で冷静な解決が図られるべきだと思う。そうしてどうにもならない時に、ひとつの基準として、ハラスメントに抵触しないか考えてみればよいのだ。
個人がどういった感情を抱いたか、どうして欲しいのか。こういった気持ちを伝えられる環境、そして伝えた個人を保護する環境を整備するのは、所属する集団の役割だろう。そんな役割は、ハラスメントなんて言葉ができる前からずっと求められてきたものだ。
わたしは、トラブルにおいて『相手を直そう』という発想もやめたほうがよいと思っている。良い悪いの価値観も捨てて、まずは自分の欲求を素直にぶつけるしかない。その結果、相手がどのように対応するか次第では、それはもう戦いである。
とにかく、純粋な多様性をも受け入れられない集団の権威主義に立ち向かうには、論理薄弱な内容のハラスメントではなく、しっかりとした根拠を持ち、冷静な議論の末のハラスメントだけを抽出することが肝要だと、わたしは思う。
やからダイハラっちゅうて騒いで、地方の人間を不安にさせる日本ハラスメント協会ちゅうのもアホでいやになるわな。口調が強いのは単にパワハラやし、方言を揶揄してくる奴らは単に嫌な奴や。それでええことちゃうんか。
あと、おのれどんだけハラスメントの数増やすねん。十戒どころの話ちゃうやないか。ほんま、あんけらそ。しまいですわ。