棺桶前の距離(ごっつええ感じ:しょうた!)
ダウンタウンの番組ごっつええ感じのコントに
「しょうた!」
というものがある。
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コントのあらすじ
幼い子供(松本人志)の葬式が執り行われる中、恐らくは葬儀屋と思われる若い男(板尾創路)が棺桶を見る。すると、スパーーーン!!!と棺桶の一部が開いて中から子供が顔を出す。驚く男は周りを伺うが、見えているのは自分だけらしい。子供が暇だからと経を読む坊主の頭を叩いたりすると、なぜか男も同じように坊主の頭を叩いてしまって無茶苦茶になっていく。
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私は初めてこのコントを見た時、あまりの面白さに転げ回りながら笑った。出オチに近いのだが、子供が血の気のない顔で屈託なく笑う様などは大変に面白い。私がなにで命を落としたとしても、最後の力を振り絞ってコントと同じことをしたいと考えている。
さて、このコントを見たことがある人でも、ない人でも不思議に感じている点があるかもしれない。それは、なぜ板尾以外の人が子供に気付かないのかである。
子供が棺桶から顔を覗かせていても気付くのは板尾のみ。その構成はしょうた!シリーズの他のコントでも変わらない。火葬場や、墓参りの最中も子供に気づくのは板尾のみなのだ。
最初にコントを見た時には、私はこの不思議を単なる心霊現象だからという帰結に落とし込んだ。
死んだ子供が蘇るのはまさしく心霊現象に他ならないし、心霊現象であれば子供に気付くのがひとりだけなのも納得がいく。
そうして、厄介な心霊現象に付き合わされる男のコントと捉えるに至っていた。
しかし、この解釈は誤りであったのかもしれない。
記憶を辿りながら葬儀の場を再現しよう。
幼い子供が亡くなっている。母親は泣いている。なにか突発的な不幸、病気か、事故があったのかもしれない。明るい別れの場とは言い難い。坊主が読み上げる経、ざぶとんに乗せた足の痺れ、徐々に感覚が滲んでくる。
そんな中に自分は葬儀屋としているわけだ。亡くなった子供とも、親族とも、数日前に初めて対面した。職業柄、深く同情することもないが、神妙な面持ちは維持しておかなければいけない。しかし、頭の中を誰かに干渉されることはない。
意外とこんな時に子供じみた空想を抱くものではないだろうか。
「棺桶が急に開いて、子供が笑っていたら面白いだろうな」
そう、他人の死を材料とした男の空想なのだ。
どこか他人事な葬式に対して、いや、葬儀屋にとっては円滑な進行こそが自分事で、棺桶の中に眠る人のことなど最初から他人事でしかない。
悪意もなく、人を蘇らせてしまう。
でも、こんなものは参列者も同じなのではないかという疑問も生まれる。むしろ、父親や母親こそ、子供の蘇りを願っているのではないか。
しかし、故人との距離が縮まるほどにその願いは空虚なものになる。なぜか。
葬式の前、通夜の少し前、家族であれば亡くなってしまった子供の体に触れるだろう。優しい手つきで、精一杯の愛で顔などを撫でてやる。そして気づいてしまう。ただ眠っているだけのような体の凍えに。死体の冷たさは触れる者の全ての熱気を奪ってくる。体は絶対零度になってしまうのだ。
だから、親族はわかってしまう。どれだけ生き返ってほしくても体が動くはずがないことを。泣くしかないのだ。泣くか、堪えるか、一連の儀式がなんの意味合いを持つのかを身をもって知る他ないのだ。
棺桶の前での距離は必ずしも一定ではない。近づくほどに死人は決して蘇らなくなってしまうのだ。